西国三十三所の第三十番札所は、竹生島ちくぶしま宝厳寺ほうごんじです。琵琶湖の北の湖中にある竹生島に存在する札所で、三十三所の札所の中では唯一、船に乗らないといけないお寺です。
宝厳寺の巡礼情報
宝厳寺は実は弁才天をご本尊とするお寺で、隣接する都久夫須麻神社つくぶすまじんじゃと元々は一体となった霊場でした。明治時代の神仏分離令により、弁才天がお祀りされていた本堂は分離した都久夫須麻神社の本殿とされ、廃寺の危機もありましたが、現在も弁天さまと観音さまをお祀りするお寺として、広く信仰を集めています。
宝厳寺の縁起
宝厳寺の成立縁起は、宝厳寺のホームページに詳しく記載されています。
www.chikubushima.jp(2021.7.1閲覧)
また、『智福嶋縁起』*1からも縁起を知ることができます。
~それ当寺は。第7代の孝霊天皇の御代25年の乙未の年(※『日本長暦』という書物によると、紀元前266年のこととされます)、琵琶湖の水が湛えられていたところにこの嶋が出現しました。この御代に、霜速彦命しもはやひこのみことに3児が生まれました。気吹雄命きぶきおのみこと?(※伊吹山と関係しているか?)、坂田姫命さかたひめのみこと?、浅井姫命あざいひめのみことです。共に天から降り豊葦原水穂の国(※地上の日本のこと)に坐しました。このうち、気吹雄命と坂田姫命の二神は近江の国坂田郡の東方に下座しました。浅井姫命は浅井郡の北辺に下座しました。浅井姫命と気吹雄命は勢力を競い合い、浅井姫命はさらにその北の辺に下って海中に坐しました。その下の海からは都布都布ツフツフと音が聞こえてくるので、都布告ツフコク嶋と言います。すぐに浅井姫命は水の飛沫で基盤を作り、風塵を積んで嶋としました。また魚たちを集めて重い石を持ってこさせましたが、そこは今、魚崎と言って、魚が集まったところです。また鳥たちを集めて草木の種を落として植えさせましたが、今もやはり多くの鳥が集まってくる峯があります。巖が大きくなって石林のようになった時、まず最初に竹と笹が生えてきました。それゆえ竹生島と言います。
また一説に言うことには。行基菩薩がこの嶋にやって来られたとき、明神が霊応をもって地を分けておっしゃることには、「この島は金輪際から生まれ出た金剛宝座石である」とのことでした。そこで行基が、持っていた竹の杖を地に立てて、「もしこの地が三宝(※仏・法・僧の仏教の中心となるもの)住持の地となるならば、この竹は生長してみせなさい」と祈願しました。この時、竹が急に生い茂ってもとから生えていたかのようになりました。このため竹生嶋と号すると言われています。~
なお、宝厳寺のホームページによりますと、神亀元(724)年に聖武天皇が、夢枕に立った天照大神からお告げを授かり、行基をこの島に派遣してお寺を建立した、とされます。行基は弁才天をご本尊として本堂に安置されました。翌年には、観音堂の建立を発案した、ということです。
観音さまと弁天さまは、両方とも女性の仏さま(※観音菩薩は必ずしも女性というわけではないが、女性的なイメージが強い)ということで、親和性が高いように思います。これまでの札所でも、ほとんど必ずと言っていいほど、弁天さまがお祀りされていました。
これにはまた、水信仰も関係しているでしょう。民俗学者の五来重さん*2は、この水・観音・弁天の三つの関連について次のように述べておられます。
竹生島の場合は柵は設けてありませんが、神社のもっている参道だけは神主の管轄です。神社の名前は都久夫須麻つくぶすま神社です。竹生島を古代語のようにしてしまいました。弁天さんの本地は浅井あざい姫ですから、本当は浅井姫の信仰でした。浅井長政の浅井を土地ではアザイと読みます。
浅井姫は水の神様です。その水のおかげで浅井郡・坂田郡・伊香郡の湖北三郡は農耕ができるのだという信仰があって、湖北三郡の人々が浅井姫をまつっていました。それが宝厳寺の中にたまたま入っていたので、神仏分離のときに分離したわけです。ですから、かつては浅井姫を水神とする農耕信仰と、水に関係のある千手観音の信仰が一つになって、弁天信仰と千手観音信仰とが矛盾なく並立していました。
竹生島を神宿る地と考えるのは、琵琶湖沿岸の人々にとって、素朴な信仰として当然のことと思われます。それゆえ、仏教が根づいてからも水に関係の深い弁天さまや千手観音さまがお祀りされたのでしょう。
宝厳寺の見所
宝厳寺の見所をご紹介します。
瑞祥水
※瑞祥水
2002年に新しく掘られた霊泉です。1987年ごろからカワウが異常繁殖しており*3、竹生島全体が大きな被害を受け、山の保水能力も下がり湧き水も涸れはてていたそうです。そんな折、弁天さまが夢枕に立たれ、この場所を掘るようにとのお告げを賜りました。そこで約1年をかけて掘削を進めたところ、230メートルの深さから清浄水が湧き出たそうです。
鐘楼
※鐘楼
袴腰の鐘楼です。
五重石塔
※五重石塔
五層の仏塔で、いわゆる五輪をかたどったものとされます。高さは247cmで、石材は滋賀郡の山中から採れる小松石とのことです。鎌倉時代の特徴をよく表しており、国指定の重要文化財となっています。
本堂(弁才天堂)
※本堂(弁才天堂)
明治初年の神仏分離令後、弁才天の本堂は都久夫須麻神社に譲渡することになりました。その後、ご本尊は長らく塔頭の妙覚院に仮安置されていましたが、1937年に本堂の着工を見ます。しかし、日中戦争の勃発により事業が中止してしまいました。この状況を憂慮した東京の資産家滝富太郎氏が、巨万の私財を投じて1942年に完成させたのが、現在の本堂です。設計・監督は文部省の乾兼松氏で、堂内壁画は法隆寺金堂壁画模写事業の荒井寛方氏の筆です。なお、ご本尊の弁天さまは、江ノ島・宮島と並んで「日本三弁才天」とも称され、さらに最古の弁才天ともされることから、とくに「大弁才天」と称するそうです。
三重塔
※三重塔
江戸時代初期に焼失したとされていた三重塔でしたが、2000年5月、約350年ぶりに復元されました。古来の工法に基づいて建築されており、内部の四方の壁には真言八祖の画像が描かれているそうです。
宝物殿
※宝物殿
国宝の「法華経序品」を初め、多くの国指定の重要文化財を所蔵する宝厳寺の宝物殿です。ただし、国宝の「法華経序品」など、奈良国立博物館に寄託している所蔵品もあります。貴重な文化財の写真は、宝厳寺のホームページ*4から拝見することができます。
唐門・観音堂
※唐門(手前)と観音堂(奥)
手前の向拝のような部分が唐門、奥のお堂が観音堂で、事実上一体となっています。唐門は唐破風を持つことから唐門と呼ばれ、宝厳寺の唐門は国宝に指定されています。豊臣秀吉は長浜城主を務めていたことがあり、この竹生島にも所縁が深いようで、秀吉を祀った豊国廟に建っていた極楽門を、豊臣秀頼の命によって片桐且元がこの地に移築した、ということです。これは慶長8(1603)年のこととされます。しかし、さらにさかのぼると豊国廟の極楽門はもともと大坂城の極楽橋であったともされ、豊臣家が建てた大坂城の現存する唯一の遺構として、史料的価値の高い建築物だそうです。また、観音堂も同じ年の建築と考えられているそうで、こちらは国指定の重要文化財となっています。西国三十三所の札所としては、こちらが本堂ということになります。傾斜地に建てられており、懸け造りとなっています。ご本尊の千手千眼観世音菩薩は秘仏で、弁才天像ともども60年に一度のご開扉がありますが、次回は2037年の予定となっています。
舟廊下
※舟廊下
観音堂から続く渡り廊下です。舟廊下の呼称は、朝鮮出兵の際に豊臣秀吉のご座乗船として建造された日本丸の船櫓ふなやぐらを利用して作られたことに由来するそうです。急斜面に建っており舞台造りとなっています。唐門・観音堂と同じく慶長8(1603)年の建造とされ、国指定の重要文化財となっています。なお、奥に続いている都久夫須麻神社本殿は、もともと竹生島の弁天さまが祀られていた本堂であったため、本堂と観音堂を繋ぐために建設されたものだと言えます。
都久夫須麻神社本殿
※都久夫須麻神社本殿
慶長7(1602)年の豊臣秀頼による復興の際、元の建物の周りに京都から移築した建物を入れ込んだ、特殊な構造であるとされます。国宝に指定されています。なお、豊臣秀頼は竹生島の本堂、つまり弁天堂として寄進しましたが、明治初期の神仏分離の際、都久夫須麻神社の本殿とされました。格天井ごうてんじょうの花の絵や襖絵は、安土・桃山時代後期に活躍した狩野光信の筆と伝えられているそうです。
宝厳寺のご詠歌
ご詠歌とは、花山法皇が各札所で詠まれた歌と伝えられています。
つきもひも なみまにうかぶ ちくぶしま
ふねにたからを つむここちして
(月も日も 波間に浮かぶ 竹生島
船に宝を つむここちして)
漢字表記、歌の解釈は紀三井寺前貫主前田孝道師*5によります。
「月も日も 波間に浮かぶ 竹生島」。来る日も来る日も、琵琶湖の水面に月影がきらめき、日光や竹生島の姿が浮かぶがごとくに映って見えます。波間にゆらゆらと揺れるその姿は、見ようによっては人の世の定めなき不安定な姿にも見えはしないでしょうか。
「船に宝を つむここちして」。これは船に宝を積むという言葉から、七福神の宝船が思われます。ここ竹生島は七福神の一人、「日本三弁才天の一」といわれる由緒も深い弁才天さまがおまつりされています。元来観音さまを信仰し、西国三十三所の観音霊場を巡拝する私たちが、ここ竹生島では行基菩薩がおまつりされた弁天さまと観音さまを同時に拝ませていただくことができるのです。
竹生島に行くには、船に乗るしかありません。すると竹生島を参拝した後は、札所のご宝印を授かっているわけです。まさに船に宝を載せたような、そんな気持ちだったことでしょう。また、前田孝道師のおっしゃるとおり、弁天さまとの関わりで宝船も思い起こされます。大胆に解釈するならば、竹生島そのものを一隻の船と見立てて、霊場を宝と考えてこの歌を詠んだ可能性もあります。
宝厳寺へのアクセス
宝厳寺のホームページに詳しいアクセス情報が掲載されています。
www.chikubushima.jp(2021.7.1閲覧)
なお、竹生島への乗船ルートは3港ありますので、ここでも三つのパターンに分けて記載します。
各港へのアクセス
長浜港へのアクセス情報は、琵琶湖汽船のホームページをご覧ください。
www.biwakokisen.co.jp(2021.7.1閲覧)
今津港へのアクセス情報は、琵琶湖汽船のホームページをご覧ください。
www.biwakokisen.co.jp(2021.7.1閲覧)
彦根港へのアクセス情報は、オーミマリンのホームページをご覧ください。
www.ohmitetudo.co.jp(2021.7.1閲覧)
長浜港・公共交通機関
JR「長浜駅」から徒歩約10分。
長浜港・お車
北陸自動車道「長浜IC」から南西に約15分。
駐車場あり。約30台。無料。
※満車の場合は、豊公園駐車場を利用すること。380台。最初の3時間無料
今津港・公共交通機関
JR「近江今津駅」から徒歩約5分。
今津港・お車
名神高速道路「京都東IC」より琵琶湖西縦貫道路(西大津バイパス~(略)~高島バイパス)「今津南ランプ」 から東へ約5分。
駐車場あり。約40台。無料。
彦根港・公共交通機関
JR「彦根駅」から無料シャトルバスあり(「彦根駅」から約8分)。
彦根港・お車
名神高速道路「彦根IC」から北西へ約10分。
駐車場あり。多数。無料。
宝厳寺データ
ご本尊 :千手千眼観世音菩薩
宗派 :真言宗豊山派
霊場 :西国三十三所 第三十番札所
びわ湖百八霊場 第44番札所
神仏霊場巡拝の道 第138番
所在地 :〒526-0124 滋賀県東浅井郡びわ町早崎竹生島1664
電話番号:0749-63-4410
拝観時間:9:30~16:30(観光船のダイヤ次第で変動あり)
拝観料 :無料(宝物殿拝観料は大人300円、小人250円)
ただし、入島料として竹生島奉賛会が徴収。大人400円、小学生300円
URL :https://www.chikubushima.jp/
宝厳寺の境内案内図
下記サイトに案内図があります。
www.chikubushima.jp(2021.7.2閲覧)
第二十九番 松尾寺 ◁ 第三十番 宝厳寺 ▷ 第三十一番 長命寺
南坊の巡礼記「宝厳寺」(2021.5.3)
2021年5月3日、竹生島クルーズに乗船して竹生島に行ってまいりました!
船は予約しておいた方が確実だと思い、前日に9時30分の長浜港発のクルーズの予約をしておきました。和歌山から長浜に行ったときに3時間以上かかった記憶があったので、早めに出発しようと思い、4時30分に起床しました。これは今までで最も早い起床時間です。この日は竹生島の宝厳寺を含めて、滋賀県の3か寺を巡礼する予定だったので、早めに行動したわけです。結局準備に時間がかかってしまい、6時45分に自宅を出発しました。
茨木ICから名神高速道路に乗り、一路長浜ICを目指します。しかし当然、和歌山発と大阪発ではかかる時間がまったく違います。かなり早く着きそうな感じでした。そこで8時10ごろに彦根ICで高速を降り、下道で湖岸を走っていくことにしました。これはこれで快適なドライブです。
実はもう1点、気になっていたことがありました。というのも、前日にGoogleマップで調べていた際、この長浜港の近くに長浜びわこ大仏なるものがあったからです。ちょっと興味が湧いていたので、時間があれば行ってみようと思っていました。そして、実際に時間は余っています。しかも、長浜港までの通り道ですから、これは行かないわけにはいきません。
8時40分、長浜びわこ大仏のある良疇寺りょうちゅうじに到着です。このお寺はびわ湖百八霊場で宝厳寺の次の第45番札所に入っているくらいですので、この地域でもある程度有名なお寺だと思います。不詳私は、まったく存じ上げておりませんでしたが。
駐車場に車を停めて、お寺に入ります。駐車場は県道2号線さざなみ街道に面していますが、お寺にとっては裏側に位置しており、大仏さまも後ろ姿を拝む形になります。
境内はとても整備されていて、キレイでした。ご朱印をいただかなかったので、独立したレポートは作成しませんが、簡単にご紹介させていただきたいと思います。
※良疇寺山門
山門は道路とは反対側の住宅地の方にあります。山門の外からも大仏さまのお姿を拝むことができます。
※良疇寺外観
境内から大仏さまを拝ませていただきました。
※長浜びわこ大仏(阿弥陀如来立像)
この大仏さまは青銅製で、高さは約28メートル、重さは約88トンあるそうです。奈良の大仏さまが立ち上がったとしても、はるかに及ばない大きさです。台座の高さも数メートルあるので、余計に高く感じますね。
写真は掲載しませんが、このお寺は庭園も手入れされていてとても美しいので、長浜港から宝厳寺にアクセスする場合は、あわせて参拝されることをお勧めします。
さて、本題に戻りましょう。ここから長浜港は車でもう5分程度です。9時ちょっと前に駐車場に到着ですが……。ちょっとイヤな感じです。車がいっぱいです! 滋賀県には緊急事態宣言が発令されていないからか、結構大勢の方が竹生島クルーズを利用されているようです。
ガードマンの方におうかがいすると、満車ということでしたので、岸壁に停めてください、と案内されました。確かに岸壁に車がたくさん停まっています。釣りをされている方が多いようです。なお、岸壁とはいえ駐車場らしくきちんと白線が引かれていました。管理者はどなたかちょっと分かりませんが、皆さんが停めておられますし、大丈夫だと思います。
時間が30分近くあるので、竹生島クルーズの乗り場で切符を購入しようと思い、とりあえず軽装で窓口に行きました。すると、次の便の切符はしばらくしてから販売する、ということです。まあ、こちらは予約もしてありますので、乗れないことはないと思いますが、できれば早く切符を売って欲しいなと思いました。
9時10分を過ぎてから、切符の販売が始まりました。後から来たのに先に並ぶ人がいて、ちょっと不快です。私は先に来られていた方の後ろに並びました。
ところで皆さん、JAFの会員になっておられますか? JAF会員は乗船料が1割引きになります。これは利用しない手はありません。正規料金は3,130円ですが、私は2,820円で乗ることができました。 なおこれは往復の料金ですので、片道で考えると意外と安いですよね。
切符を買ってから車に戻り、身支度を整えました。すでにそこそこの行列ができています。当然、巡礼の格好をしている人はいません。割と子供連れのご家族が多い印象でした。しかし、当然船内での感染リスクは高まるわけですから、あまり感心できませんね。まあ、私も乗りますけども。
※リオグランデ号
行きに乗船したのは、リオグランデ号です。全長27.7メートル、94.0トン、旅客定員200名、最高速力21.9ノットのクルーザーです。私は後部のオープンデッキに座りました。
軽快なエンジン音とともに、クルーザーは滑り出すように出航しました。振り返ると、なぜか天気がかなり悪く、長浜びわこ大仏がとても小さく見えます。
※出航直後の様子
5月とはいうものの湖北の風は冷たく、30分の船旅は結構寒いものでした。最高速度から考えると、時速で40km/hくらいでしょうか。そりゃ寒いですよね。私より少しお若い感じのご夫婦は途中で船内に避難されたくらいです。私は寒かろうと予測して、服を着こんでおいたので、何とか耐えることができました。
出航してから25分ほどで、竹生島の港が見えてきました。
※竹生島の港が見えてくる
小さく見えている赤い船は、彦根港に帰る船です。井伊の赤備えを模しているんですね。港に泊まっているのは、いんたーらーけん号(びわ湖光秀号)ということで、明智光秀の家紋水色桔梗の色に塗られています。おそらく、今津港から来たヤツですね。
※入港直前の後部デッキ
ご覧のとおり、後部デッキにはほとんど人はいませんでした。寒かったからです。左側に見えている檜皮葺ひわだぶきの建物は、都久夫須麻神社の拝殿だと思います。
10時ちょうど、竹生島港に到着です。皆、一斉に船を降りていきます。まあ、ここで慌ててもしょうがありません。密を避けて、ゆっくりと降りました。
船を降りても、皆さんは慌ただしく参道へと殺到していきますので、港で少し間隔をはさみました。輪袈裟や念珠をしていなかったので、装着します。
※境内案内図
古い境内案内図もありました。
そして……。
※琵琶湖周航の歌碑
出ました、琵琶湖周航の歌の歌碑です。4番の歌詞がこの竹生島を詠っているんですよね。いやあ、大学時代に憶えましたよ。加藤登紀子さんが歌われて大ヒットしたそうですので(※筆者生誕以前の出来事)、年配の方も馴染みがおありでしょう。クルーズ船の船内放送でも時々メロディーが流れていました。
この歌碑の奥、左側から境内に入っていく感じになっています。ほとんど人がいなくなったので、私も進むことにしました。
※竹生島入口
左のアーケード街はお土産物屋さんです。そちらに入口があり、券売機でチケットを購入して、入島料をお支払いしないといけません。私もチケットを購入して、奥に進みます。このアーケード街の一番奥にトイレがあるのですが、かなり匂います。水が貴重な島ですから、なかなか汚水処理が難しいのかもしれません。
アーケード街が終わると、立ちはだかるのが石段です。
※竹生島石段
手前の鳥居には竹生島神社と書かれています。
※二の鳥居
奥の鳥居には、宝厳寺の山号である厳金山がんこんざんと書いてあります。
私でも結構しんどい石段でしたが、杖を突いたおばあさまがご家族に連れられて来ておられました。しかし、ここはちょっと無理があるような気がしました。杖など使っていなかった私の祖母でも、紀三井寺の結縁坂を敬遠したくらいですから、あまりご老人に無理はさせない方がよろしかろうと思います。なお、石段はこの二の鳥居で終わりではありません。
※本尊大辯才天の石碑
ご覧のように、ご本尊をアピールする石碑の横にまだ石段が連なっています。
※島津堂
謂れは分かりませんが、島津堂という建物だそうです。ご本尊の石碑の左側にあります。右側には鐘楼です。
※鐘楼
石段を登っている途中で左上を撮影しました。後から分かったことですが、納経所でした。しかしすごい懸け造りです。地震が起こらないことを祈ります。
※下から見た納経所
さすがの私もひいふう言いながら石段を登り終わりましたが、本堂のレベルに到達して愕然としました。ものすごい行列ができているのです!
最初私は、初詣のときによく見られるような参拝待ちの行列だと思ったのですが、実は納経所に並んでおられた方々でした。そこでほっと胸をなでおろし、人込みをかき分けながら本堂の方へと進みました。しかし、このときは己の認識の甘さに思い至っていませんでした……。
本堂に入りますが、中にもかなりの人がいます。竹生島恐るべしですね。狭い島内であること、GWの真っ只中であること、久しぶりの快晴であること、滋賀県には緊急事態宣言が発令されていないことなど、様々な要因が重なってこのような状況になっていることと思います。今まで回った札所のなかでも、最も参拝者が多いように思います。
※本堂(弁才天堂)
ご本尊の大弁才天はお厨子の中にいらっしゃるようです。
※本堂内陣
何をおいても、参拝させていただきました。ただ、ここは観音さまがお祀りされているお堂ではないようです。初めて来ましたので、少々勝手が分かりません。
この弁天さまは写真に撮っても大丈夫なようです。
※弁天像
ここには、いろいろなものが販売されています。物色していると、少し時間がかかってしまいました。先へ進みましょう。
五重石塔の裏にある階段を上がっていきます。
※五重石塔説明板 年季が入っている
境内の一番高いレベルには、手前から経蔵らしき建物、三重塔、宝物殿が並んでいます。
※五重塔などが並ぶ
端まで行くと、琵琶湖と湖岸が見えます。どちらの方角が見えているのか分からないので、どの辺が見えているのか何とも言えませんが。
※境内から見た景色
本堂のレベルまで戻り、次を目指します。この段階で、案内板などから観音堂というのが札所になっていることが分かりました。観音堂までの参道に、西国三十三所の観音さまのご本尊をお祀りする奉安殿がありました。
※西国三十三所観世音奉安殿
いわゆるひな壇型が、お堂になっているタイプです。
※奉安殿正面
観音堂には、この奉安殿の奥を下っていく感じになります。登ったり降りたり、狭い島なので大変です。
すぐに、唐門に到着です。
※唐門
この建物に関しては、事前の予習でスゴイということを知っていました。豊臣秀吉との所縁が深いということで、確かに豪壮華麗な感じがします。安土・桃山時代の息吹ですね。
とくに、装飾がスゴイです。
※唐門の破風の装飾
ちょうど陽光の当たる方角になっており、神々しい感じがします。
※唐門入口
唐門に入ると、右奥に進んでいく感じになります。すると、いつの間にか観音堂に入っていました。建物が事実上続いている感じになっています。
観音堂は写真撮影禁止になっています。中でお参りしておられる方はそれほど多くはなかったです。皆さん、回廊を先へと進まれる感じです。私はここを目指して来ているわけですので、丁寧に納経させていただきました。
皆さんに続き、私も回廊を先へ進みます。この観音堂を取り巻くような感じで回廊があります。
※回廊の天井部分 この左内部が内陣となる
中山寺以来の極彩色でしょうか。ここを進むと、すぐ右側に今度は舟廊下が出てきます。
※舟廊下
こちらは一転して侘びたたたずまいです。
このまま奥に進むと、都久夫須麻神社の境内に入ります。もっとも、元々はここまでが宝厳寺の境内、ここからが都久夫須麻神社の境内といった区別などなく、札所としても「竹生島」と呼ばれていたんですがね。「那智山」と同じで、神仏習合の典型のような存在だったのでしょう。
舟廊下はそのまま都久夫須麻神社の本殿に繋がっています。本殿で参拝させていただきました。
※都久夫須麻神社本殿
左に続いている建物が、舟廊下です。本当に、そのまま拝殿に入る感じになります。境内にはいくつかの小さなお社がありました。しかし本当に人が多く、どれもこれも人が写り込んでいるため、ちょっと使いづらいですね。
皆さんの金運が上がりますように、一つ載せておきましょう。
※白巳大神
また、本殿の湖岸側には拝殿がありますが、八大龍王を拝するための場所のようです。
※拝殿
拝殿では、かわらけ投げをすることができます。皆さん、結構トライされています。アトラクション的な感覚かもしれませんね。ただ、名前や祈願を書かないといけないようで、割と手間がかかります。
※宮崎鳥居
あのボートに乗っている人たちを狙って投げましょう。
……うそです。投げたかわらけ(土器)が鳥居をくぐれば、願い事がかなうと言われているそうです*6。
境内から出るところには、しっかり弁天さまがお祀りされていました。国家神道で神仏分離をしようとしても、民衆の信仰心には無関係だということの証拠でしょう。
※招福弁財天
ここで売っていた福小判(300円)は、私も購入して財布に入れております。効果のほどは保証できませんが。
ここからは舟廊下の下の道を最初の石段の方へ戻っていく感じになります。実は最初の石段のところに、右側を指して竹生島神社と書いてありました。なお、国家が定めた正式な神社名は都久夫須麻神社ですが、現在こちらの神社の方では竹生島神社と名乗っておられるようです。
※下から見る舟廊下
舟廊下もしっかりした懸け造りになっていますね。とにかくここ竹生島には、平地がほとんどありません。
そのまま納経所の方へ進みます。上の写真の段階で10時52分でした。これからご宝印をいただいても、11時25分の帰りの便には余裕で乗れるかな?と思いながら納経所まで戻ると、何と!
最初に来たとき以上の行列が!
そりゃそうで、朝早い便よりも遅い便の方が乗客は多いわけで、それに乗って来られた方々が納経所に並んでおられたわけです。これは痛恨のミスでした。
ただ、納経所は4人の方で書いてくださっていますので、結構早く順番が回ってくるのではないか? まあ何とか11時25分の便に乗れるかな?と最初はちょっと侮っていました。
※納経所に並びながら撮った写真 手前のお堂は天狗堂
しかし、これがなかなか進みません。徐々に気持ちが焦りだします。一方で時間はどんどん過ぎていきます。私の後ろに並んでいたのは30代くらいの若い女性お2人だったのですが、お話をされながら並んでおられたので、何となくお2人の現在のお仕事の状況まで分かってしまいました。さらにその後ろには、外国人の方も並んでおられました。
もう、あっという間に時間は過ぎて、11時25分を過ぎてしまいました。まあ、仮に20分にご宝印をいただいていたとしても5分でクルーズ船乗り場まで戻るのは無理だったでしょう。ネットで調べると次の便は12時5分でしたので、まあ許容範囲です。通常期ですと次の便まで80分待ちになるようですから。
途中で列は二又に分かれ、私は左の列に並びました。なぜかというと、笈摺おいずるを何枚も持った女性が右側の列に並んでいたからです。この女性、よく観察していると、20歳前後の娘2人、息子1人に加え、実は左の列にご主人も並んでおられるようでした。あんなに笈摺を出された日には、次の便までも怪しくなると思って左に並んだわけです。
ところが、左の列の方が進むのが早いと見るや、その女性はご主人の方に笈摺を託すではありませんか! やめてくれ~と思いました。左の列に並んだ意味が、まったくなくなってしまいます。ちょっとさすがに注意しようかとも思いましたが、まあ観音巡礼で来ているのだし、広い心をもって我慢しようと思い、何とか思いとどまりました。これが他の場所なら確実に注意しています。
しかし娘さん2人は意外ときちんとしていて、輪袈裟もちゃんと着けています。また、掛け軸(※掛け軸もあったんかい!)を乾かす手順も手慣れたもので、手際よくやっていました。掛け軸を抑える際に経木を使うのですが、私がちょうどご宝印を書いていただいているところに戻さないといけなかったので、私が受け取って返してあげたところ、きちんとお礼も言ってくれました。まあ、娘さんに免じて許すとしましょう。
11時40分ごろ、私も無事にご宝印をいただけたので、クルーズ船乗り場に戻ることにしました。最初の石段を下っていきます。ここは結構傾斜が急なので、気をつけないといけないですね。やはり杖は必須です。ちなみに納経所でなぜ時間がかかったかと言うと、納経所の方々が実に丁寧にご宝印を書いてくださるからでした。今までの札所ではさらさらっと書かれる方が多かったのですが、こちらはかなり時間をかけて書いてくださいます。そりゃ時間もかかるわけです。
ですから、こちらでご朱印をいただきたい、という方は、なるべく朝一番で、しかも船を降りたらすぐに納経所に並ばれることをお勧めします。
※石段を下りていく
行きは上ばかり見てまったく注目していませんでしたが、竹生島神社の方に向かう場所には、境内案内図がありました。
※竹生島神社参拝案内図
かわいらしいオオナマズの絵が描かれています。
売店のあるアーケード街では近江牛まんを売っていました。小腹が空いていましたので、食べたい!と思いましたが、念のため確認します。「しいたけは入っていますか?」。すると返答は……。「入っていますよー」。詰みました。仕方がありません。ちょっともたれるかもしれませんが、カレーパンにすることにしました。しいたけで具のかさ増しをする発想、やめた方がいいと思います。近江牛まんと謳うたうなら、正々堂々と近江牛のみで勝負しましょう!
ほとんどベンチは埋まっており、かろうじて座りにくい少し低いベンチだけ空いていましたので、そこに座ってカレーパンをいただきました。これはこれで、とてもおいしかったです。
ちょっと休憩しましたが、よく見るともう次の便に備えて並び始めている方々がいらっしゃいます。そこで、私も並ぶことにしました。
並びながら撮った写真がこれです。
※下から見上げたた唐門
早めに並んだおかげで、スムーズに船に乗ることができました。ただ、帰りに乗った船がおそらくべんてん号で、後部オープンデッキの椅子数が少なく、外に座れませんでした。仕方なく2階の船内に入り、一番窓際にポツンと座ります。後からどんどん入って来られましたが、5割弱くらいの着席率でしょうか。まあ、何とか許容範囲ですね。これ以上乗船率が高まると、感染リスクがかなり増大するでしょう。
船は12時5分に港を出港し、一路長浜港を目指します。30分ほどで、長浜港に到着です。帰りは窓ガラス越しになってしまうので、写真を撮りませんでした。
港に降りてから、まずは車に戻って軽装になります。JR「長浜駅」でスタンプをもらわないといけないのです。車を停めている護岸から「長浜駅」までは歩いて10分以上かかります。
時刻は12時半を過ぎていましたので、歩きながら昼食を食べることができる場所を探します。ちょいちょいありますが、どれもいまいちピンと来ません。先に「長浜駅」でスタンプをもらうことにしました。
「長浜駅」のエスカレータはさすがに秀吉推しです。
※豊臣秀吉のモザイク画
無事にスタンプをもらい、戻り始めます。
駅から出て大きな通りまで戻ると、正面に長浜城です。
※長浜城
ここは行ったことがあります。鉄筋コンクリート製で、1983年に再建された新しいお城です。フォルムは美しいですね。
結局、この通り沿いにあるそば処善光で昼食をいただくことにしました。さばそうめんなるものが名物であると、聞いたことがあったからです。
お店はそれほど混んでおらず、奥の席を一人で使わせてもらえました。しかし、店員さんはおばあさまのような方がお二人しかおらず、時間がかかりそうな予感がしました。さばそうめんも思っていた以上に高かったです。メニューによると、焼き鯖そうめん単品で900円、定食にすると1,500円もかかります。かなり迷った末に、焼き鯖そうめん単品にしました。おばあさまにお伝えすると、ちょっと意外そうな反応でした。まあ、定食を頼むと思われていたのでしょう。
しかし、時間はさほどかからず、出てきました。そうめんに鯖の味がしみ込んでいて、意外とボリュームがあります。味もとてもおいしいです。カレーパンを食べていたこともあり、十分満足できました。
この後は車に戻り、次の長命寺に向けて出発しました。
それにしても、ちょっとGW真っ只中というのはタイミング的によくなかったですね。じっくりと竹生島を見て回ることができませんでしたので、今度はできれば平日にゆっくりと来てみたいと思います。
というわけで皆さんも! Let's start the Pilgrimage West!
南坊の巡礼記「松尾寺」(2021.4.30) ◁ 南坊の巡礼記「宝厳寺」(2021.5.3)
南坊の巡礼記「宝厳寺」(2021.5.3) ▷ 南坊の巡礼記「長命寺」(2021.5.3)
*1:国会図書館デジタルコレクション『智福嶋縁起』(所収『大日本仏教全書.118』)2021.7.1閲覧
*2:五来重『西国巡礼の寺』角川書店(1996)
*3:滋賀県庁ホームページ「カワウ問題」2021.7.1閲覧
*4:宝厳寺ホームページ「宝物殿」2021.7.1閲覧
*5:前田孝道『御詠歌とともに歩む 西国巡礼のすすめ』朱鷺書房(1997)
*6:竹生島神社ホームページ「建築物」2021.7.2閲覧