西国お遍路“行雲流水”

西国三十三所や四国八十八ヶ所を雲のごとく水のごとく巡礼した記録

西国三十三所 第九番札所 南円堂 ~国宝のデパート 現代の鹿野苑・興福寺~

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興福寺 南円堂

西国三十三所の第九番札所は、興福寺こうふくじ南円堂なんえんどうです。他の札所と異なり、山号はありません。観音霊場としては興福寺全体ではなく、興福寺の一角にある南円堂が霊場となります。ただ、本稿では興福寺全体についてもご説明します。

興福寺南円堂の巡礼情報

興福寺は奈良の中心部、ど真ん中にあります。まさに古都奈良を代表する寺院であり、春日大社や大仏で有名な東大寺もすぐ近くにあります。興福寺はそれらの寺社とともに、「古都奈良の文化財」として世界遺産に登録されています。境内は奈良公園と一体化するようになっており、現代でも訪れる人が後を絶たない、憩いの場ともなっています。

興福寺の縁起

興福寺の成立縁起は、興福寺のホームページに記載されています。

興福寺ホームページ「興福寺の歴史」(2021.4.28閲覧)

年表形式で全体を俯瞰した後、「略史」という形で成立の縁起について説明しておられます。それによると、興福寺に至るまでに、藤原氏(当初は中臣氏)が都の変遷とともに山階寺やましなでら厩坂寺うまやさかでら、そして興福寺と氏寺の所在地を移していったことが分かります。

その山階寺の創設に関しては、『興福寺縁起』*1に興味深い記載があります。

 

舒明天皇じょめいてんのうが即位13年で亡くなられた後、翌年に皇后が皇極天皇こうぎょくてんのうとして即位されました。そうすると蘇我入鹿そがのいるかが権柄けんぺいを握るようになり、政治を恣ほしいままにしました。皇室の威光は衰え、国家が退廃の危機を迎えます。そこで藤原鎌足ふじわらのかまたりがひそかに「軽皇子かるのみこを天皇にお立てしよう」と考えました。やがてその事を達成することを計画して、お釈迦さまと脇侍の菩薩像を造り四天王寺に住むことを発願しました。ついにその願いはかない、像を造ったのです。

 

ここで少し考察を加えさせていただくと、軽皇子とは後の孝徳天皇のことです。我々がよく知る歴史では、中臣鎌足なかとみのかまたり中大兄皇子なかのおおえのおうじ(後の天智天皇)を盛り立てて蘇我入鹿を倒したことになっていますが、この史料によると鎌足孝徳天皇を立てようとしていたとされます。実はこれはかなりデリケートな問題で、近年いわゆる「大化の改新」も歴史的に見直しが進んでいるようで、もしかすると中心人物が中大兄皇子ではなく軽皇子とされる日が来るかもしれません。なお、『興福寺縁起』は昌泰3(900)年に、藤原北家の藤原良世よしよ鎌足6世の子孫)が作成したものとされます。

古代史の謎のような感じに話がそれましたので、本筋に戻ります。

 

その後鎌足が病を得て臥せっていた際、妻の鏡女王かがみのおおきみが「お寺を造って例の釈迦三尊像をお祀りしましょう」と申し出ましたが、鎌足は許しませんでした。再三許しを請うので、鎌足もついに許しました。こうして開かれたのが山階寺です。さらに都が南の飛鳥の地に遷った際、改めて厩坂寺を造営します。さらに、和銅3(710)年に平城京に都が遷ったため、鎌足の後を継いでいた藤原不比等ふひとが春日の地を選び興福寺を建立しました。

 

こうして興福寺が建立されたわけです。『興福寺伽藍縁起』*2によると、中金堂の草創が和銅7(714)年、北円堂が養老5(721)年です。観音霊場である南円堂は、藤原内麻呂うちまろが建立を計画しましたが、途中で亡くなってしまい、息子の藤原冬嗣が弘仁4(813)年に完成させたということです。この供養は弘法大師がなさったとされます。

北円堂南円堂も八角形のお堂で、死者の慰霊のために八角形の建物が建てられたと考えられる、ということについてはすでに「西国三十三所 第六番札所 南法華寺 ~インド請来の巨大石仏のテーマパーク壷阪寺~」で述べました。実は最終末期には八角形の古墳が造られていたそうで、大化の改新前後の時期に造られた八角古墳もあるそうです。古墳も死者のためのものであり、八角円堂も死者のためのものです。古代人の何らかの宗教観によって、八角形の建造物が建てられたのでしょう。

興福寺の見所

興福寺の見所をご紹介します。

南大門跡

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※南大門跡に残る礎石

南大門の跡です。中金堂の正面に位置します。猿沢池から五十二段と呼ばれる階段を登り、三条通を渡ってさらに登るとここに着きます。大きな礎石が南大門の大きさを想像させます。

五重塔

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※五重塔

興福寺五重塔です。南大門跡右手に建っています。天平2(730)年、光明皇后が建立しましたが、数度の被災と再建を経て、現在の建物は室町時代の応永33(1426)年に再建されたものです。塔高は50.1メートルで、奈良時代の特徴を随所に残しつつ、中世の様式が大胆に用いられた塔だとされます。国宝です。

東金堂

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※興福寺東金堂

三つある金堂(現在は二つ)のうちの一つ、東金堂です。五重塔の北側にあります。神亀3(726)年、聖武天皇が建立しました。創建当初は浄瑠璃光世界を表すべく、須弥壇に緑釉のタイルが敷かれていたそうです。5度の被災・再建を繰り返し、現在の建物は室町時代の応永22(1415)年に再建されたものです。堂内に祀られている銅造 薬師如来坐像は国指定の重要文化財で、木造 文殊菩薩坐像、木造 十二神将立像はいずれも国宝です。また、東金堂自体も国宝です。写真は興福寺ホームページ「寺宝・文化財」(2021.4.28閲覧)でご覧ください。

国宝館

数々の国宝が収蔵されている建物です。もともと食堂じきどうがあった場所に昭和34(1959)年に建てられました。東金堂の北側にあります。

国宝

・中金堂 鎮団具(奈良時代)

・木造 金剛力士像(鎌倉時代)

・木造 天燈鬼・龍燈鬼立像(鎌倉時代)

・木造 千手観音菩薩立像(鎌倉時代 像高5.2メートル)

・銅造 燈籠(平安時代)

・銅造 燈籠火袋羽目(平安時代)

・木造 板彫十二神将像(平安時代)

・銅造 仏頭(白鳳時代)

・銅造 華原磬(奈良時代)

・脱活乾漆造 十大弟子立像(奈良時代)

・脱活乾漆造 八部衆立像(奈良時代)

重要文化財

・木造 弥勒菩薩半跏像(鎌倉~南北朝時代)

・木造 化仏・飛天(鎌倉時代)

・木造 釈迦如来像頭部(鎌倉時代 運慶作)

・木造 梵天立像・帝釈天立像(鎌倉時代)

・木造 釈迦如来坐像

写真は興福寺ホームページ「寺宝・文化財」(2021.4.28閲覧)でご覧ください。

中金堂

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※興福寺中金堂

三つある金堂の中でも、最も重要な金堂です。藤原不比等が和銅7(714)年に創建しましたが、その後6回焼失・再建を繰り返し、江戸時代後期の文政2(1819)年に「仮堂」として再建されました。しかし、老朽化が著しかったことから平成12(2000)年に解体し、全面発掘調査を経て2018年に再建が完成しました。木造 四天王立像が国宝、木造 薬王菩薩・薬上菩薩立像、厨子入りの木造 吉祥天倚像、木造 大黒天立像が重要文化財です。写真は興福寺ホームページ「寺宝・文化財」(2021.4.28閲覧)でご覧ください。コロナ禍で拝観が中止されています。

北円堂

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※北円堂

中金堂の西側に建っています。養老5(721)年の藤原不比等の一周忌に際し、元明上皇元正天皇長屋王に命じて建立させました。平安時代末期の治承4(1180)年に被災しましたが、鎌倉時代前期の承元4(1210)年に再建されました。日本に現存する八角円堂のうち、最も美しいとされており、建物自体が国宝です。また、中に祀られている木造 弥勒如来坐像、木造 無著・世親菩薩立像、木心乾漆造 四天王立像のいずれも国宝です。写真は興福寺ホームページ「寺宝・文化財」(2021.4.28閲覧)でご覧ください。

三重塔

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※三重塔

他の建物から一段下がった南西隅に、ひっそりと建っています。平安時代後期の康治2(1143)年、崇徳天皇の中宮皇嘉門院聖子きよこが建立しました。治承4(1180)年に焼失しましたが、すぐに再建されたと考えられています。北円堂とともに興福寺では現存する最古の建造物で、国宝です。

南円堂

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※南円堂

トップの写真では逆光で分かりにくいですが、鮮やかな朱色が残る建物です。藤原冬嗣が父内麻呂の追善のために弘仁4(813)年に創建しました。やはり度々被災しましたが、現在の建物は江戸時代後期の寛政元(1789)年の再建です。正面には上の写真のとおり拝所が設けられており、唐破風がついているなど、江戸時代の様式も反映されています。国指定の重要文化財です。なお、ご本尊の木造 不空羂索観音菩薩坐像、その他、木造 四天王立像や木造 法相六祖坐像も国宝となっています。写真は興福寺ホームページ「寺宝・文化財」(2021.4.28閲覧)でご覧ください。

興福寺南円堂のご詠歌

ご詠歌とは、花山法皇が各札所で詠まれた歌と伝えられています。

はるのひは なんえんどうに かがやきて

 みかさのやまに はるるうすぐも

(春の日は 南円堂に かがやきて

   三笠の山に 晴るるうす雲)

漢字表記、歌の解釈は紀三井寺前貫主前田孝道*3によります。

南円堂興福寺の中の観音さまをおまつりしたお堂ですが、花山法皇がここにお参りされた頃は、春日神社興福寺の所轄でした。この歌の「春の日」の語には、春日神社が掛かっています。またこの「春」は「南円堂」に結びつき、暖かくてやさしく、円満にして欠けたところのない大慈大悲の観音さまのお徳を表現されていると受けとることができます。観音経に「無垢清浄光 慧日破諸闇」とあり、観音さまの汚れなき清浄の知恵の光が、混濁の闇路に迷う衆生の盲を開きたもうことが述べられています。また「三笠の山に……」には雲のかかった三笠山から、「貪とん—むさぼり、瞋じん—いかり、痴ち—おろか」の三毒煩悩に覆われた凡夫(迷い多き衆生)が連想されます。 

私は和歌の解釈が得意ではないので、「春の日」が春日大社にかかっていることは何となく分かりましたが、「三笠」が「貪・瞋・痴」の三毒にかかっているというのは気づきませんでした。しかしちょうどトップの写真を見ていただくと、4月2日の春の日が南円堂に輝いている様子が分かります。俳句の心は写生ですから、「春の日は 南円堂に かがやけり」と読めば立派な俳句になりますね。

興福寺へのアクセス

興福寺ホームページに詳しいアクセス情報が掲載されています。

興福寺ホームページ「アクセス・駐車場案内」(2021.4.28閲覧)

公共交通機関

近鉄「奈良駅」下車徒歩約5分。

お車

第二阪奈道路「宝来IC」から東進。約15分。

奈良県庁前」交差点を南に入ると駐車場あり。50台弱。1000円。

興福寺データ

ご本尊 :不空羂索観世音菩薩

宗派  :法相宗大本山

霊場  :西国三十三所 第九番札所

     西国四十九薬師霊場 第4番

     神仏霊場巡拝の道 第16番

所在地 :〒630-8213 奈良県奈良市登大路町48番地

電話番号:0742-24-4920

拝観時間:9:00~17:00

拝観料 :無料(南円堂)

     中金堂 大人500円 中・高校生300円 小学生100円

     東金堂 大人300円 中・高校生200円 小学生100円

     国宝館 大人700円 中・高校生600円 小学生300円

     国宝館・東金堂連帯共通券

                   大人900円 中・高校生700円 小学生350円

URL   :https://www.kohfukuji.com/

 

第八番 長谷寺 ◁ 第九番興福寺 ▷ 第十番 三室戸寺

境内案内図

興福寺ホームページ「境内案内」(2021.4.28閲覧)

上記サイトに案内図があります。

南坊の巡礼記「興福寺」(2021.4.2)

又兵衛桜の駐車場を12時すぎに出て、一路北を目指します。どこかでランチをと考えて、国道166号線をちょっとだけ南に行ったところに道の駅宇陀路大宇陀があったので、そこに行くことにしました。うどんくらいは食べれるでしょうと。

実際行ってみると、肉うどんの幟が立っています。これはちょうどいいと思い、駐車場に車を停めようとしましたが……。空きがない! ちょうどお昼どきでとても混んでおり、車を停めるスペースがありません。ぐるっと駐車場の中を回りましたが、どこも停められず……。仕方なくそのまま道の駅を出ます。

実はここに来る途中で、ちょっと気になる大衆中華料理店があったので、そこに行ってみることにしました。駐車場も十分広く、車も数台しか停まっていないので、入ってみました! 中国家庭料理 宏泰さんです!

外観、中はまあ普通の大衆中華料理店という感じですね。おかみさんが来られましたが、どうも中国の方?台湾の方?のようです。それよりも驚いたのはその驚愕の値段です。メモするのを忘れていたのですが、他の方のブログを拝見していると、ラーメンセットという名称でラーメンなど麺類10種類のなかから一つ、チャーハンや餃子、麻婆豆腐などのご飯系・おかず系14種類のなかから一つ、それぞれ選べるセットで何と680円(税別)です。その組み合わせは140種類! 毎日お昼に1種類ずつ食べにきても5ヶ月近くかかるというバリエーションの豊富さ! ちなみに私は一番シンプルにしょうゆラーメンとただのチャーハンのセットにしました。なお、中華にしては、少し出てくるのに時間がかかったように思います。お味はいたって普通の中華で、おいしかったです。しかしラーメンもチャーハンも普通に一人前が来ますので、結構お腹いっぱいになりました。

というわけで話も巡礼も寄り道になってしまいましたが、そのまま北上し、いったん名阪国道の福住ICまで出て、天理を経由して国道169号線をひたすら北上します。天理ICを下りてから30分くらい走ったでしょうか、奈良公園に入ります。奈良のど真ん中で、人もかなり増えてきました。「県庁前東」交差点で左に曲がり、次の交差点「奈良県庁前」でまた左に曲がり、奈良公園のなかへ入っていきます。すぐに右手に駐車場がありました。駐車場の写真を撮り忘れていました……。

駐車場の受付からお父さまが出てこられ、駐車場代を徴収されます。結構駐車場の管理はきちんとしておられて、どこに停めるかまでメモされて、誘導されます。さすがに1000円の料金といい、奈良の中心部ですから、きちんと管理していないと1日停めて電車に乗ってどこかに行く人とかがいるんでしょうね。

車を停めてまずはおトイレを探します。ずっと我慢していたので、結構溜まっています。案内図を見ると、境内の南側にあるようでしたので、南側へと向かいます。このとき私はスルーしてしまったのですが、実は南大門跡の右側にキレイなトイレがあったんですね。私はそれに気づかずに猿沢池のほとりにある少し古いトイレまで行ってしまいました。まあ、大した問題ではありません。

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※猿沢池 奥の三角形に見えている屋根が南円堂

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※悲しい物語もあるようです

さて、用を足して急いで境内に戻ります。五十二段という階段があります。仏さまの修行の段階を表すそうです*4

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※鹿太郎(手前の角が伸びそうな方)と鹿子(カメラ目線の方)

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※三条通から見た五重塔

さらに少しだけ上ると、南大門跡です。

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※南大門跡までの階段 見えている屋根は中金堂

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※この芝生は般若の芝と言うそうです 奥は中金堂

このスペースの右側にキレイなトイレがあったんですね……。まあ、もう済んだことです。

気を取り直して車に戻り、巡礼衣に着替えます。まずは南円堂を目指すことにしました。

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※南円堂 ちらほら参拝者がいらっしゃる

さすがに奈良の中心部、結構お参りされている方がいらっしゃいます。多くの方が五重塔の前にたむろしておられます。私はスタスタと南円堂へ。同じく巡礼衣を着られた方もいらっしゃいます。この日は法起院でもそのような方をお見かけしましたが、それまでの札所ではほとんどお見かけした記憶がないんですよね。

南円堂の前に金属で出来た本のようなものが開かれています。

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※「平成観音讃 読み下し」

こ、これは私の中国史の師匠(と勝手に思い込んでいる)陳舜臣先生作ではありませんか! こんなところで先生の足跡に触れることができるとは、何とも不思議なご縁です。また神戸の陳舜臣記念館に行きたいですね。もともとKOEIのゲームの『三國志』にはまってから、小説なんかも読むようになり、陳舜臣先生の『十八史略』を読んで中国史の魅力に目覚め、世界史にはまっていきました。今では世界史の教員をしているくらいです。ですから、私にとっては人生の恩師でもありますね。

南円堂ではもはや手慣れたもので納経を済ませ、納経所となっているすぐ脇の小さな建物でご宝印をいただきます。 無事に観音巡礼は終わりました。とはいえ見応えたっぷりの興福寺ですから、散策を続けることにします。

白洲正子さんが『西国巡礼』*5で評価しておられた、三重塔を見に行きます。三重塔南円堂から左下、つまり南西の一段低いところにあります。

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※三重塔と桜

何と、意外と人がいらっしゃいます。座って写生されている方が何人かいらっしゃいます。また、若い女性が熱心に写真を撮っておられます。さすが知る人ぞ知る名所なのでしょう。

どこからでも見える五重塔とちがって、人は見落しがちだがこの塔は捨てがたい。平安朝の優雅を残して、人知れず立っている姿には、しっとりとした落ちつきがある。

白洲さんは上のように述べておられますが、今では通の人は知っている名所となっているようです。

そこからはそのまま北へ上がっていくことができます。

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※背面から見た南円堂

南円堂を右手に見ながら進むと、正面に北円堂が現れます。

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※南から見た北円堂

南円堂は朱色が映えますが、一方の北円堂は侘びたたたずまいですね。

境内の北側では整備が行われており、このまま中金堂を遠巻きにしながら五重塔の方へ戻ります。東金堂の前を通り、国宝館の前にある駐車場に到着です。

駐車場で巡礼衣を脱ぎ、一拝観者となってまずは国宝館へ行きます。東金堂とのセットで拝観料が900円、また国宝館の目録が100円とのことで、1000円をお支払いし、中に入ります。お寺の一施設というよりは、もはや博物館です。仮にこの建物が興福寺からかなり離れたところにあったとしても、十分に人を集められるでしょう。それぐらいすごい展示内容です。写真は興福寺ホームページ「寺宝・文化財」(2021.4.28閲覧)でご覧ください。

まず、目に留まったのは国宝の金剛力士像です。残念ながらそれぞれ片腕が失われてしまっていますが、それを補って余りある躍動感、迫力です。鎌倉時代の制作で、像高がともに1.54メートル前後ですから、ほぼ当時の人の等身大だったのでしょう。

続いて面白いのが、これまた国宝の天燈鬼立像、龍燈鬼立像です。これも今にも動き出しそうな造形で、とてもユニークな木像です。両者ともに鎌倉時代の作で、とくに天燈鬼の方はあの運慶の子である康弁が制作したことが分かっています。龍燈鬼も同時期の作成とのことですので、おそらく運慶門下の制作でしょう。

国宝館の真ん中に鎮座ましますのが、やはり国宝の千手観音菩薩立像です。もともとこの地に建っていた食堂ご本尊だったとのことで、度重なる災厄を免れ、現在も同じ位置に立っておられるそうです。像高が約5.2メートルあり、この食堂内では最も大きな仏像です。

また、運慶制作とされる釈迦如来像の、頭部だけが伝わっています。もともとは西金堂ご本尊だったそうですが、1717年の火災時に頭部のみ救出されたそうです。螺髪もかなり剝げ落ちてしまい痛々しいお姿ですが、そこはやはり運慶の作と伝えられるだけあり、重厚な力強い表情をしておられます。これは重要文化財です。

そこからぐるっと北回廊ギャラリーを回り、東側の展示スペースへと行きます。まず目を引くのは、国宝の板彫十二神将像です。薬師如来の眷属として、東金堂ご本尊の台座にはめられていたと推定されるそうです。一体一体がそれぞれ思い思いのポーズをとっており、レリーフでありながらやはり動き出しそうな躍動感があります。怒ったような表情や困ったような表情もあり、一尊一尊個性が強いです。

十二神将像から振り返ると目に入ってくるのが、これまた国宝とされる銅造仏頭です。これは天武14(685)年の制作とされます。白鳳彫刻の傑作とされますが、応永18(1411)年の火災で首から下が失われたそうです。古代仏らしく、ミステリアスな表情が印象的です。

最後の展示スペースに待ち構えているのが、すべて国宝の十大弟子立像と八部衆立像です。いずれも天平6(734)年の制作で、脱活乾漆造です。平安時代以降は衰えてしまった制作技法で、心木を組んだ上に粘土で形を作り、その上に麻布を被せて漆で固めてから、中の粘土を取り除き、木屑漆で表面を調整していくというやり方です。木製や金属製の像と比べると大変軽く、八部衆立像はいずれも15kg前後ということですから、火災の際も持ち出しやすかったため、現存しているとのことです。それぞれ個性が表現されており、十大弟子では年長者や若年者、八部衆では憤怒相や鳥面などの違いはありますが、最も有名な阿修羅像を含めてどことなくあどけない表情をしています。これは発願者である光明皇后のお考えが反映されているそうで、純粋な子どもの表情こそ仏像の表情としてふさわしいと考えられたのかもしれません。とくに沙羯羅像の表情は「ぼくちゃん」と呼びかけたくなる可愛らしさです。

とまあ、賢しらに説明をしておりますが、これは目録を見て書いているだけなんですよね。実は、国宝館に入ってから気づいたのですが、眼鏡を忘れていたのです! まあ普段も裸眼で生活しているので、まったく見えないわけではないのですが、展示のキャプションがちょっと遠いところにあるとぼんやりしててはっきりとは読めないレベルです。博物館に行くときにはいつも眼鏡をしているのですが……。

しかしまあ、ほとんどの仏さまの表情なんかは間近で見ることができますので、目が悪い方でも大丈夫です。

この反省を踏まえて、東金堂は眼鏡を着けて行ったのですが、ここは建物内部は本当に前面の少しのスペースしか入れず、国宝館のような博物館形式とは違って、お堂として大きな仏像が並んでおられるだけだったので、眼鏡がなくてもよかった感じでした。おまけにお寺の方が文化財保護の観点から見守っておられ、何となくじっくりと落ち着いて拝観する、というのが照れくさいというか気恥ずかしい感じだったんですよね。まあ、ここにも四天王立像や十二神将立像など数点の国宝がお祀りされていますので、当然といえば当然です。というわけで、しばらくお参りさせていただき、東金堂を後にしました。幸い、同時に拝観していたのは私一人でした。

それにしても、半端ではない国宝の数です。2014年現在のお話ですが、女性雑誌CanCamのWeb版では、国宝が一番多いお寺は法隆寺で38点、次いで東大寺で29点、次がこの興福寺で25点とのことです*6。建物意外は写真をお見せできないのが残念ですが、ぜひぜひご自身の目でご覧になっていただきたいと思います。本当に国宝館は、ここだけを目当てに訪れても十分なくらいの価値があります。

というわけで皆さんも! Let's start the Pilgrimage West!

 

南坊の巡礼記「法起院」(2021.4.2) ◁ 南坊の巡礼記「興福寺」(2021.4.2)

南坊の巡礼記「興福寺」(2021.4.2) ▷ 南坊の巡礼記「三室戸寺」(2021.4.7)

 

最終更新:2021.5.27

*1:所収 塙保己一編『群書類従 第24輯 釈家部』八木書店(2013)

*2:所収 塙保己一編『続群書類従 第27輯下 釈家部』八木書店(2013)

*3:前田孝道『御詠歌とともに歩む 西国巡礼のすすめ』朱鷺書房(1997)

*4:奈良市教育委員会ホームページ「もっと奈良っちゃう」2021.4.28閲覧

*5:白洲正子『西国巡礼』講談社(1999)

*6:CanCam.jp「国宝がいちばんたくさんある都道府県はどこ?意外と知らない国宝雑学クイズ」2021.4.29閲覧