西国お遍路“行雲流水”

西国三十三所や四国八十八ヶ所を雲のごとく水のごとく巡礼した記録

西国三十三所 第二十一番 穴太寺 ~「なで仏」と「身代わり観音」を祀る 室町時代の美しき庭園~

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穴太寺

西国三十三所の第二十一番札所は、菩提山ぼだいさん穴太寺あなおうじ(あなおじ/あのおでら)です。京都市の北西、亀岡市にあるお寺で、巡礼のルート的には少し外れるような印象を受けます。逆に言うと、わざわざ足を運んでいたということであり、それだけご霊験のあらたかな観音さまの霊場として知られていたということでしょう。

穴太寺の巡礼情報

穴太寺は、亀岡市内の中心部から少し離れた盆地の中にあります。亀岡自体がすでに山間の土地ですので、お寺が平地に建っているといっても、すでに標高は100メートル以上あります。周辺には民家もありますが、大きな通りからは少し外れており、とても閑静な雰囲気のあるお寺です。「安寿と厨子王」伝説の厨子王ずしおうが一時期かくまわれていたともされ、厨子王丸肌守御本尊をお祀りしています*1

穴太寺の縁起

穴太寺はホームページをお持ちではありませんが、詳しい縁起はパンフレットで見ることができます。また、『丹波国穴太寺観音縁起』*2や、『今昔物語集』巻十六*3などに記載があります。それらを総合しますと、次のようなお話になります。

 

文武天皇の慶雲2(705)年、大伴古麿が薬師如来をご本尊としてこのお寺を建立した、とされます。なお、大伴古麻呂という人物は実在し、753年、唐の役人に従わず日本への密航を目指していた鑑真和上を独断で連れ帰った気骨の人として知られています。同一人物かどうかは分かりませんが、年代的にあり得ないことではないとはいえ、少し難しいように思います。別人と考えた方がよさそうです。

その後300年余りが過ぎて平安時代になり一条天皇の御代のこと、丹波国桑田郡曽我部に郡司宇治宮成という者がいて、その妻はとても信仰心の篤い人だったそうです。ちなみに『今昔物語集』では妻は登場しませんが、後の所業をあわせて考えると、妻が登場した方が話も合いますし、パンフレットの「縁起」でも妻が登場しています。

妻が宮成に観音菩薩を造ることを勧め、宮成が京都から仏師の感世を招いて観音像を造立させたそうです。これは寛弘7(1010)年のこととされます。

三か月で感世は美麗な観音菩薩像を作り上げましたが、宮成は謝礼として上げた馬が惜しくなってしまい、感世が都へ帰る途中で待ち伏せし、矢を放って感世を殺し、馬を取り返したのでした。上で述べましたが、このような所業を行う宮成が観音さまの像をお造りしよう!とはなかなかならないと思います。

その後、仏師の家からとくに感世に関する問い合わせもないことを訝しんだ宮成は、家来をやって感世の家を訪ねさせました。すると、馬は仏師の家につながれており、感世も元気に生きていたのでした。この知らせを聞いた宮成が厩舎を見てみると馬の姿は忽然と消えており、慌てて観音像を見てみると、観音さまに矢が刺さっていたのです。宮成は己の行いを恥じ、前非を悔いて深く観音さまに帰依するようになったそうです。その後、穴太寺の薬師如来さまに観音さまの矢傷を治してもらいたいと、穴太寺に「身代わり観音」として奉納された、ということです。

穴太寺の見所

穴太寺の見所をご紹介します。

仁王門

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※仁王門

穴太寺山門です。17世紀中ごろの建立と思われるそうですが、改造の痕跡が多く、正確な建立年代は分からないとのことです。京都府の登録文化財となっています。

鐘楼

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※鐘楼

江戸時代中期の宝暦9(1759)年の建立とされます。京都府の登録文化財となっています。

多宝塔

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※多宝塔

江戸時代後期の文化元(1804)年の再建とされます。内部は、禅宗様の須弥壇に釈迦如来と多宝如来の二尊をお祀りしているそうです。京都府の指定文化財となっています。

本堂

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※本堂

江戸時代中期の享保20(1735)年の再建です。向拝が広く造られてあり、吹き放ちの外陣が特徴とされます。ご本尊の薬師如来像と聖観音像は秘仏で、お前立ちの聖観音像のみ拝顔することができます。建物は京都府の指定文化財となっています。内陣の右奥には鎌倉時代制作とされる釈迦如来大涅槃像、いわゆる「なで仏」が横たわっておられ、身体の悪いところをなでると治ると言われています。

念仏堂

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※念仏堂

本堂の東側に位置しています。江戸時代中期の宝永2(1705)年に建立されたとのことです。常念仏堂とも言われ、穴太寺中興2代の禅海がこの地で念仏を広めたと伝えられています。ご本尊は阿弥陀如来像です。京都府の登録文化財となっています。

地蔵堂

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※地蔵堂

念仏堂の脇にある地蔵堂です。横には宇治宮成の墓所があります。

円応院

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※円応院表門

本堂の西側に位置する方丈庫裏円応院と呼ばれ、南側に京都府指定名勝の庭園と、西側に露地の庭を持つ書院造の建物です。穴太寺中興初代の行廣江戸時代前期の延宝5(1677)年に造営したもので、本堂とは渡り廊下でつながっています。表門は宝永2(1705)年に建立された薬医門です。白洲正子さん*4によると、西側の露地庭から望めるのは丹波の愛宕山である、とのことです。残念ながら現在、西側には佐川印刷 亀岡グラウンドが存在しており、無粋なネットがせっかくの景色を損なってしまっています。

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※西側の露地庭

穴太寺庭園

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※穴太寺庭園

円応院の南側にある庭園です。多宝塔を借景として取り入れ、築山と池で高低差を表現しています。白洲正子さんの『西国巡礼』には、「室町時代の石庭で、最近発見されたものらしい」と書かれています。

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※障子窓から庭園を望む

穴太寺のご詠歌

ご詠歌とは、花山法皇が各札所で詠まれた歌と伝えられています。

かかるよに うまれあうみの あなうやと

 おもわでたのめ とこえひとこえ

(かかる世に 生まれあう身の あな憂やと

   思はで頼め 十声一声)

漢字表記、歌の解釈は紀三井寺前貫主前田孝道*5によります。

「かかる世に……」とは、悩み苦しみの多いこのような世の中に、ということです。私たちの今生きているこの世の中は、うっとうしいことの多い、定めなき世の中で、「浮世」といわれます。み仏であるお釈迦さまが入滅されて千年または千五百年すると、仏説のとおり修行して悟る者のない、教法のみ残る末法の時代に入るといわれていました。いわゆる「五濁悪世」(社会が汚れ、邪悪な思想がはびこり、欲望が渦巻き、人の資質が低下し、寿命が短くなる)の世の中になるということなのです。「生まれあう身の」は、生まれあわせたわが身ということです。「あな憂やと」は、ああうっとうしいことだなあーと理解できます。またこの言葉には穴太寺の「あのう」が掛かっています。

和歌の解釈としては前田孝道師の述べておられるとおりだと思いますが、少しだけ考察を加えたいと思います。

まず、「あなうやと」の部分です。漢字では、「あな憂やと」と当てていますが、実際、平安時代後期に三十三所巡礼を行った覚忠(1118~1177)は、穴太寺のことを「穴憂寺」と表記しています*6。両者には何かつながりがあるように思われます。

また、「十声一声」の部分ですが、穴太寺には常念仏堂があることと関係していると推測されます。五来重さんは『西国巡礼の寺』で、「それにしても不断念仏が続いている、常念仏が続いているというのは、いいことです。穴太寺ではそういうことは全然なくなってしまいました」と書かれています*7。今はなくなってしまったけれども、昔はやっていたということです。おそらく穴太寺では常念仏をやっており、「南無阿弥陀仏」という声が何十回、何百回と繰り返されていたのでしょう。「十声一声」というのはそういう様子を表しているようにも思います。

穴太寺へのアクセス

京都府観光連盟公式サイト「京都府観光ガイド」に詳しいアクセス情報が掲載されています。

www.kyoto-kankou.or.jp(2021.6.5閲覧)

公共交通機関

JR「亀岡駅」から京阪京都交通バス「穴太寺前・穴川」行に乗車、「穴太寺前」下車徒歩1分(「亀岡駅」から約20分)。

お車

京都縦貫自動車道「亀岡IC」から南西に約5分。

穴太寺駐車場(管理者グリーンフィールド)あり。約50台。500円。

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※穴太寺駐車場

穴太寺データ

ご本尊 :聖観世音菩薩

宗派  :天台宗

霊場  :西国三十三所 第二十一番札所

     神仏霊場巡拝の道 第130番

     数珠巡礼

所在地 :〒621-0029 亀岡市曽我部町穴太東ノ辻46

電話番号:0771-22-0605

拝観時間:8:00~17:00

拝観料 :無料(本堂内陣・庭園500円)       

 

第二十番 善峯寺 ◁ 第二十一番 穴太寺 ▷ 第二十二番 総持寺

南坊の巡礼記「穴太寺」(2021.4.21)

十輪寺を11時前に出発し、まずはJR「向日町駅」に行ってスタンプをもらいます。そこから北上して国道9号線に合流しました。9号線に乗ってしまえば、亀岡まではすぐです。この9号線を走っていると、いつも気になるのが篠村八幡宮です。足利尊氏が鎌倉幕府打倒の兵を挙げて六波羅を目指したのがこの地とされているのです。しかし、今回は西国巡礼なのでパスします。本当にいつかは行きたいと思います。 

さて、12時少し前には亀岡の中心街へ入ってきました。昼食をどうするか考えていたのですが、JR「亀岡駅」前にイオンがあるとのことだったので、そちらに行ってみることにしました。イオン亀岡店の3階にレストラン花車があったので、そこで昼食をいただきます。曜日によってセットが変わるようなのですが、私はチャーハン、唐揚げ、ギョーザのセットにしました。940円くらいだったと思うのですが、イオンの株主カードで1割引きということで、800円台で食べることができました。イオンの株主カードは本当に優秀なヤツです。

お腹も満足したので、穴太寺を目指します。ナビに従うと国道372号線を通り、「風ノ口」交差点で斜め右に入って府道406号線を道なりに進みます。ただし、ここは結構細い道です。ちょっと遠回りになりますが、国道372号線を「重利」の交差点で右に曲がり、するとそのまま国道372号線が続いている(※「重利」の先は国道423号線になる)ので、しばらく372号線沿いに走り(※国道372号線は途中で左に曲がって続く)、亀岡運動公園の中に入って「亀岡運動公園前」交差点から左折して南下するルートの方が広い道です。私は帰りにこちらの道を通りました。

穴太寺山門前から南に少し下ったところに穴太寺駐車場があります。BOXがあってお父さまがいらっしゃったので、駐車料金500円をお支払いしました。ただ、手前にあぐびいというハチミツなどを売っているお店があり、その前にも2~3台停められるようになっています。駐車料金は同じくらいだったと思います。広くて停めやすいのは穴太寺駐車場ですし、距離はそれほど変わりません。

駐車場から出て、山門を見るとこんな感じです。なお、このとき南側から白衣を着て歩いてくる年配の女性をお見かけしたのですが、その方はもしかすると善峯寺でお見かけした方なのかもしれません。お話などはしていないので、まったく定かではありませんが。

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※駐車場から望む山門

山門前の道路は、たまに車が通ります。12時45分ごろ、穴太寺に到着です。

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※穴太寺山門前

境内に入って左を見ると、多宝塔が見えます。

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※境内入ってすぐ

正面はこんな感じです。本堂が見えます。右手の建物は手水舎です。

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※境内入って正面

ここには載せませんが、境内入ってすぐの右手側には鐘楼があります。善峯寺が大きかったので、穴太寺は少し小さく感じます。

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※穴太寺説明板

穴太寺には説明板というものがあまりなかったように思います(発見できていないだけかもしれませんが……)。この日本遺産が作成した案内板だけはきちんと見ました。

多宝塔に寄ってから本堂へ向かいます。納経は、本堂外陣で済ませます。内陣に入るには、左側の建物(※円応院で拝観料を支払う必要があります。案内も貼ってあります。

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※本堂外陣

納経を済ませると、いったん本堂から離れて右側の建物へ行きます。そこが納経所です。納経所の前には藤棚があり、キレイに咲いていました。

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※藤棚 右が地蔵堂 左は念仏堂

十輪寺のように鬱蒼とはしておらず、陽光との兼ね合いがとても美しいです。

ご宝印をいただいてから、拝観受付のある建物へと向かいます。本堂外陣では何人かの参拝者がいらっしゃいましたが、内陣庭園には誰も入ってこられませんでした。

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※内陣・庭園拝観の案内

受付で500円をお支払いし、パンフレットをいただいてまずは本堂内陣へ向かいます。建物同士は、このような渡り廊下でつながっています。本日2個目の渡り廊下です。

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※渡り廊下

本堂内陣には、障子戸を開けて入ります。とっかかりがなくて開けにくかったです。

内陣は少し薄暗いです。写真撮影ができませんので、ぜひ皆さんご自身の目でお確かめください。ご本尊の薬師如来像、札所本尊の聖観音像は秘仏で、お厨子の中におわします。右側のお前立ちの聖観音像だけを拝することができます。そして、その右側の奥にいらっしゃいました。「なで仏」さまです。お布団をかぶっておられます。

パンフレットによると、1896年に本堂の屋根裏で発見されたということで、ほぼ等身大の大きさですから、非常に奇特なことだと思います。布団をめくって、私も悪い部分をさわらせてもらいました。首と肩がやたらと凝っていてむしろ痛いくらいなので、撫でさせていただきました。すると翌日には少し軽くなってたように思いました。あまりにも皆さんがなでられるので、だんだんてかってきています。

渡り廊下を戻ります。円応院ではまず西側の露地庭を見ることができます。

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※西側の露地庭

矛盾する言葉ですが、日本の庭園の美しさは、「人工の自然」にあると思います。人の手で、宇宙や自然そのものを写しとるのが、作庭の醍醐味でしょう。背後の愛宕山も借景となっていたわけですが、そこに無粋な「人工そのもの」のネットが建てられています。これは本当に何とかならないものでしょうかね。もちろん、ネットがないとボールが飛んできて危ないのですが……。

続いて、南側の庭園へ行きます。実は私は最初、西側の庭園しかないと思って意外と小さいなと思っていたのですが、本命はこちらでした。しばらく縁側に座り、眺めさせていただきます。まさに「人工の自然」の美にあふれています。

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※庭園北西側から見た多宝塔

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※庭園の南西側

室内に戻り、障子窓から外を見てみると、かなり映える写真がとれました。

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※障子窓から望む庭園

「そうだ 京都、行こう。JR東海」と言いたくなるような景色です。

書院の中には、明治天皇所縁の品々もかざられていました。来歴はちょっと分かりません。

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※明治天皇御物

受付のお姉さまにお礼を言い、円応院を出ます。本当に皆さん、こちらの方に来られません。穴太寺に来たらここを見ないともったいないと思いますよ。

後からパンフレットをよく見てみると、宇治宮成の墓所などもあったようですが、この時はまったく気づきませんでした。あともう1か寺、総持寺を打たないといけませんので、先を急ぎます。13時25分ごろ、穴太寺を出発しました。

寺域自体がそれほど大きなお寺ではないため、拝観時間はそれほどかかっていません。もし時間があったら、庭園を眺めながらのんびりと過ごしたいなと思いました。

というわけで皆さんも! Let’s start the Pilgrimage West!

 

南坊の巡礼記「十輪寺」(2021.4.21) ◁ 南坊の巡礼記「穴太寺」(2021.4.21)

南坊の巡礼記「穴太寺」(2021.4.21) ▷ 南坊の巡礼記「総持寺」(2021.4.21)

 

最終更新:2021.6.6

*1:西国三十三所札所会ホームページ「穴太寺」2021.6.5閲覧

*2:宮内庁書陵部図書寮文庫蔵『丹波国穴太寺観音縁起』2021.6.5閲覧

*3:国会図書館デジタルコレクション『今昔物語』(所収『国史大系 第16巻』)2021.6.5閲覧

*4:白洲正子『西国巡礼』講談社(1999)

*5:前田孝道『御詠歌とともに歩む 西国巡礼のすすめ』朱鷺書房(1997)

*6:『寺門高僧記』 所収 塙保己一編『続群書類従 第28輯上 釈家部』八木書店(2013)

*7:五来重『西国巡礼の寺』角川書店(1996)