西国三十三所の第二十番札所は、西山せいざん善峯寺よしみねでらです。京都市の西にある広大な西京区の山の上にあり、西側から京都市内を一望する山のお寺です。徳川綱吉の母であった桂昌院との所縁が深いお寺としても知られています。
善峯寺の巡礼情報
善峯寺は文字どおり、西山の峯に三万坪もの広大な寺地を持つ山のお寺です。その境内を回遊するような形で参拝することができ、人工の庭園美と自然の景観の美しさ、また京都市内を見下ろす景色の雄大さを味わうことができる、有数の名勝地です。
善峯寺の縁起
善峯寺の成立縁起は、善峯寺のホームページに詳しく記載されています。
www.yoshiminedera.com(2021.6.2閲覧)
それによりますと、善峯寺は平安時代後期の長元2(1029)年、比叡山横川の恵心僧都源信の弟子であった源算上人が創建したとされます。このとき源算上人は47歳で、小さなお堂を建てて自作の千手観音像をご本尊として安置されたそうです。長元7(1034)年に後一条天皇から勅願所と定められ、「良峯寺」の寺号が下賜された、とのことです。
ちょっと簡潔に過ぎると思いますので、いくつかの伝承について補足していきたいと思います。
民俗学者の五来重さん*1によりますと、源算上人は誕生に際し、少し可哀そうなエピソードがあったそうです。『拾遺往生伝』*2には、次のようなことが書かれています。
~源算上人は因幡の国の人です。母親が上人を懐妊していた間、心身に不調が多く、生まれたときに不詳の子だとして路上に棄ててしまいました。しかし馬や牛に踏まれることなく、鳥や獣が来ても上人を傷つけることがありませんでした。三日たっても死ぬことなく、ぴんぴんしていました。隣人が可哀そうに思い、拾って育ててやりました。~
何と、源算上人は生まれた直後に母親に棄てられてしまったわけです。このお話がもっと古い時代であれば伝説に過ぎない可能性が高くなると思いますが、平安時代の後期のお話なので、ある程度は史実を反映しているように思います。なかなか壮絶な生い立ちだと思います。
さらに、西山に入ってからも大変な経験をしておられます。
~初めて西山の良峯に入ってからは、流れに漱くちすすぎ石に枕して自然とともに生活をし、命を顧みずに修行に明け暮れました。ある夜のこと、激しい雷が西山に落ちて山は震動し、樹木はことごとく倒れて鳥獣はみな死んでしまいました。翌日里の者が見に行ってみると、上人だけが生きておられました。見た者はこれを奇異なことだと思いました。
上人がこの地にお寺を建立しようとされましたが、岩がごろごろと転がっており、それを取り除くことができませんでした。すると夢の中にお坊さまが現れておっしゃることには、「案ずることはない。助っ人を与えましょう」とのことでした。その夜、野生の猪数千頭がその地を削って平らにし、思っていたとおりのお寺を建立することができました。~
まず、上人が神仏のご加護がある特別な人だということが書かれています。そして、超自然的な力のおかげでお寺を建てることができた、と伝えられているわけです。
このような源算上人のご遺徳により、このお寺はその後皇族との関わりも深まり、青蓮院門跡から多くの親王が入山されたそうです。
善峯寺の見所
善峯寺の見所をご紹介します。
山門(楼門)
※山門
江戸時代中期の正徳6(1716)年に建立されました。楼上に祀られていたご本尊文殊菩薩像と脇侍二天は、現在文珠寺宝館に奉安されているそうです。楼下の金剛力士像は、運慶の作で源頼朝の寄進と伝えられているとのことです。
※阿形?
※吽形?
観音堂(本堂)
※観音堂
江戸時代前期の元禄5(1692)年、江戸幕府第5代将軍徳川綱吉の生母である桂昌院の寄進により再建されたそうです。ご本尊の千手観世音菩薩像は仁弘法師の作とされ、秘仏となっています。脇本尊の千手観世音菩薩像は源算上人の作で、京都洛西観音霊場の第1番札所のご本尊とされます。
鐘楼堂(つりがね堂)
※鐘楼堂
江戸時代前期の貞享3(1686)年、徳川綱吉の母の桂昌院により建立されたそうです。ちょうど綱吉が厄年にあたっていたことから、厄除けの鐘と伝えられています。
護摩堂
※護摩堂
ご本尊として五大明王が祀られています。江戸時代前期の元禄5(1692)年に、桂昌院により建立されたそうです。
遊龍の松
※遊龍の松
樹齢600年以上、枝の全長が37メートルに及ぶ五葉松です。龍が遊んでいるように見えることから、江戸時代末期の安政4(1857)年、花山前右大臣家厚により「遊龍の松」と命名されたそうです。国の天然記念物に指定されています。
多宝塔
※多宝塔
江戸時代初期の元和7(1621)年、賢弘法師により再建されたとのことで、国指定の重要文化財となっています。ご本尊として、愛染明王が祀られています。
経堂
※経堂
江戸時代中期の宝永2(1705)年、桂昌院により建立されたそうです。鉄眼版一切経が納められています。お祀りされているのは、6世紀の中国南北朝時代の僧で、傅大士ふだいしという方です。現在は、絵馬堂にもなっています。
開山堂
※開山堂
江戸時代前期の貞享2(1685)年に桂昌院によって建立されたそうです。元禄5(1692)年の建立との説もあります。開山の源算上人のご廟所となります。上人がお亡くなりになられたとされる、117歳の尊像がお祀りされています。
幸福地蔵
※幸福地蔵
300年以上前に造立されたお地蔵さまで、幸福しやわせをまねくお地蔵さまとされています。
鎮守社
※鎮守社
当山守護の鎮守社で、すべて江戸時代前期の元禄5(1692)年に建立されたそうです。左から十三仏堂・弁財天堂・毘沙門天堂・護法堂です。
宝篋印塔ほうきょういんとう
※宝篋印塔
鎌倉時代に慈鎮和尚が伝教大師筆の「法華経」をお納めになったと伝えられているそうです。包み紙には、「法の花 伝え教へし 筆の跡 良峯寺の 宝ともなれ」と書かれていたそうです。
桂昌院廟
※桂昌院廟
桂昌院の遺髪を納めているご廟所です。善峯寺の現存する伽藍の大半を建立したのが江戸幕府第5代将軍徳川綱吉の生母であった桂昌院です。京都市観光協会のサイトである「京都観光Navi」*3によると、桂昌院はもともと京都堀川西藪屋町の八百屋仁左衛門の娘で、元は女中として大奥へ入り、綱吉を生んだとのことです。また、いわゆる「玉の輿」は桂昌院の元の名前がお玉であったことから生まれた言葉だとされます*4。綱吉に世継ぎが生まれなかったことから、桂昌院は京都などの仏教寺院の再興に努め、生類憐みの令の制定を促して功徳を積もうとしたとされます。
釈迦堂
※釈迦堂
建物は1885年に建立されたそうです。ご本尊の釈迦如来像は、元々この地より2km離れた釈迦岳に祀られていましたが、1880年にこちらに遷座されました。源算上人の作と伝わっており、日本では類例のない合掌姿のお釈迦さまとされます。
※釈迦如来坐像
薬師堂
※薬師堂
江戸時代中期の元禄14(1701)年、桂昌院が両親の菩提を弔うために再建されたそうです。両親が善峯寺のとくにこのお薬師さまに祈念されて娘(後の桂昌院)を授かったとのことで、後世には出世薬師とも言われるようになりました。「たらちをの 願をこめし 寺なれば 我もわすれじ なむやくし佛」という桂昌院の歌が伝えられています。1988年に現在の地に移築されました。
けいしよう殿
※けいしよう殿
尼僧姿の桂昌院の像がある六角形の東屋です。
御陵
※御陵
宮内庁が管理する青蓮院宮墓地です。右から慈鎮和尚、尊祐法親王、尊證法親王、尊寶法親王のお墓となっています。なお、慈鎮和尚は皇族ではなく藤原氏の出身です。
阿弥陀堂
※阿弥陀堂
江戸時代前期の寛文13(1673)年の建立とされています。ご本尊は宝冠阿弥陀如来で、阿弥陀さまを讃えて極楽往生を願う勤行である常行三昧が行われることから、常行堂とも言います。
善峯寺のご詠歌
ご詠歌とは、花山法皇が各札所で詠まれた歌と伝えられています。
のをもすぎ やまじにむかう あめのそら
よしみねよりも はるるゆうだち
(野をもすぎ 山路に向かう 雨のそら
善峯よりも 晴るる夕立)
漢字表記、歌の解釈は紀三井寺前貫主前田孝道師*5によります。
「野をもすぎ、山路に向かう 雨のそら」。巡礼の道中には、晴れの日もあれば雨の日もあります。この御詠歌を詠まれたように、花山法皇も、ご参詣のとき雨に遭われたのかもしれません。
(中略)
「善峯よりも、晴るる夕立」。よしみねの「よし」には、降ってもよし、照ってもよしと思う巡礼の心が込められていると思います。観音さまをひたすら信じて、人生の旅を続ける私たちには、観音さまが必ず、良き方に良き方にとお導きくださるのですから安心です。この御詠歌には、巡礼の心が余すところなく詠み込まれています。
十五番から十九番まで京都市内の札所を回ってきましたが、ここでまた人里を離れて深山に分け入っていくことになります。上の句だけで考えれば、かなり上手な俳句のように思えます。
なお、「野をもすぎ」の部分ですが、中唐の詩人韓愈かんゆの「送温処士赴河陽軍序」という文の中に、「伯楽はくらく一たび冀北きほくの野を過ぎて馬群遂に空むなし」という部分があります。名馬に対する目利きである伯楽が馬所である冀北の野を通り過ぎると、馬はほとんどいなくなってしまう、という意味で、優秀な人材をもれなく登用することの例えです。今でもスポーツの優秀なコーチのことを名伯楽などと言うことがあります。
仮にそれと関連づけるとすると、伯楽は仏さまということになるでしょう。私たち衆生をもれなくお救いくださる仏さまのお力で、雨降りのように苦しい現世も、善峯寺まで行けば夕立が晴れたような浄土に行くことができるのです、というような意味になるかもしれません。あくまで私見ですが、付記させていただきます。
善峯寺へのアクセス
善峯寺のホームページに詳しいアクセス情報が掲載されています。
www.yoshiminedera.com(2021.6.3閲覧)
公共交通機関
JR「向日町駅」から阪急バス「善峯寺」行に乗車、「善峯寺」下車徒歩約8分(「向日町駅」から約40分)。
※「善峯寺」行は1月6日から2月末日の期間は、「小塩」止となります
お車
京都縦貫自動車道「長岡京IC」から北西に約20分。
山門前駐車場あり。150台。500円。
※山門前駐車場
善峯寺データ
ご本尊 :千手観世音菩薩
宗派 :天台宗単立
霊場 :西国三十三所 第二十番札所
京都洛西観音霊場 第1番
神仏霊場巡拝の道 第85番
数珠巡礼
所在地 :〒610-1133 京都市西京区大原野小塩町1372
電話番号:075-331-0020
拝観時間:8:00~17:00(土・日・祝日)
8:30~17:00(平日)
拝観料 :大人500円 高校生300円 小・中学生200円
URL :http://www.yoshiminedera.com/index.html
善峯寺の案内図
www.yoshiminedera.com(2021.6.3閲覧)
上記サイトに案内図があります。
第十九番札所 革堂 行願寺 ◁ 第二十番札所 善峯寺 ▷ 第二十一番札所 穴太寺
南坊の巡礼記「善峯寺」(2021.4.21)
前週が雨で延期となっていた善峯寺の参拝ですが、2021年4月21日に行ってきました。久ぶりに国道171号線を京都方面に向けて走ります。「大山崎」の交差点で左に入り、西国街道を進みます。この辺も懐かしい道です。道はすぐに長岡京市に入り、長岡天満宮、続いて光明寺の前を通ります。この光明寺というお寺がとても大きくてびっくりしました。浄土宗の開祖法然上人のご廟所があるお寺とのことで、立派なのもうなずけます。また機会があれば参拝したいと思いました。
さて、道はすぐに京都市西京区に入ります。山の方に向かう離合困難な細い道をしばらく進み、山道に入ります。むしろ山道の方が走りやすかったかもしれません。道なりに行くと道は大きくカーブしており、そのまま善峯寺の駐車場に入っていく感じになります。9時10分ごろに到着しました。
駐車場はとても広く、100台以上は停められそうだなと思いました。ホームページによると、150台停められるようです。上層と下層があり、下層は日陰になっているので、車が日射しを避けることができます。
上層の駐車場にトイレがあったようですが、私は気づきませんでした。途中のファミリーマート今里彦林店で買い物ついでにおトイレをお借りしましたので、大丈夫でした。天気もよく、かなり暖かいのでトイレも回数が少なくて済みます。
駐車場からはすぐに山門になります。
※駐車場から見た東門 山門はこの左側にある
上の小さな門は東門で、バス停で降りた参拝者はここを通ってくることになるようです。
少し上がります。すると、遊龍の松の碑が建っています。
※山門前の売店 この日は閉まっていた
木々の隙間から見えてきました。善峯寺の山門です。
※垣間見える山門
間近で見ますと、すごい迫力です。
※山門
正確な大きさは分かりませんが、この侘びたたたずまいとアンバランスな豪壮さがとても魅力的です。
何枚か写真を撮ってから山門をくぐります。私の前に参拝者の方が入っていかれましたが、その後、入山受付のお母さまはご用事で少し離れておられました。私は急いでいなかったので、気にしていなかったのですが、走って戻ってきてくださいました。いい方です。この方は帰りの際も、ご丁寧な挨拶をしてくださいました。
入山受付を過ぎると、こんな感じです。
※境内入ってすぐの様子
奥に見えているのが観音堂、つまりこのお寺の本堂です。いきなり本丸に攻め込んだ感じです。
階段を上がって観音堂へと進みます。本堂は内陣に入ることができます。無料です。このときは拝観できなかったのですが、中に書いてあったお知らせを読むかぎりでは、今年中にご本尊を拝顔しておかないと、これから先はずっと秘仏になるそうです。いつから拝観できるのかは、ちょっとはっきりと憶えていませんので、善峯寺にご確認されるのがいいと思います。
※本堂外陣
納経を済ませ、本堂の外陣でご宝印をいただきました。ちらほらと参拝者がいらっしゃいます。上下の白衣を着た、年配の女性の方がいらっしゃいました。午後に穴太寺あなおじを参拝したときにお見かけしたのですが、もしかすると歩いてこられたのかもしれません。
観音堂の右から上に順路が指定されていて、広大な境内を回遊できるようになっています。
※遊龍の松の枝
写真に見えているのは藤棚ではなく、遊龍の松の枝です。横に20メートル近く伸びていってます。自力では支えられないので、棚が作られています。
※遊龍の松の幹
真ん中に写っているのが、遊龍の松の幹になります。意外なほど高さはありません。ここから左右に90度の角度で20メートルずつくらい枝が伸びていってます。
※遊龍の松の説明碑
ここでは全長50メートル余りと書いてありますが、1994年に虫害に遭い、枝を切らざるを得なかったそうです。残念なことです。
さて、遊龍の松のレベルには、他にも経堂や多宝塔、開山堂などがあります。
※経堂内の傅大士像
※多宝塔 右下は護摩堂
※開山堂
経堂ではご住職の方だと思いますが、作業をしておられました。この辺は見所がたくさんあって、結構時間がかかります。
また、開山堂からの眺めは絶景です。
※京都方面を望む
これなんですが、やや北よりの東を向いていると思います。京都市内とは言うものの、伏見辺りしか見えていないのかもしれません。
開山堂から幸福地蔵までの間に、善峯白山・櫻あじさい苑の碑がありました。善峯寺もあじさいの名所のようです。八番札所の長谷寺や十番札所の三室戸寺もあじさいの名所でしたが、あじさいは結構人気があるんですね。
※善峯白山・櫻あじさい苑の碑
それよりも、こちらも十二番の正法寺(岩間寺)に引き続き白山がお祀りされているようです。白山信仰というのは、かなり力を持っているんですね。
このレベルの中心部は少し高くなっており、そこに宝篋印塔と桂昌院廟があります。
※桂昌院廟の説明板
最後に和歌が2首書いてあるのですが、残念ながら反射していてよく見えません。1首目は最後に「やくし仏」と書いてあります。2首目は「南無かんせ音」と書いてあります。2首ともこのお寺の仏さまを詠んだ歌のようです。後から気づきましたが、1首目の歌は薬師堂のところに書いてあるのと同じ歌のようでした。
少し戻ると、幸福地蔵のところです。こんな感じでこちらが少し高くなっています。
※上から見た幸福地蔵のお堂
ここから奥に進むと、鎮守社が並んでいます。手前から護法堂、毘沙門天堂、そして弁財天堂と十三仏堂です。
※弁財天堂と十三仏堂
この奥にまた少し上がるところがあります。登っていきます。本当にいい天気です。写真の映えが全然違います。
※釈迦堂へ上がる石段
5分程度歩いたでしょうか、釈迦堂に到着です。
※釈迦堂
中に入って、お参りすることができます。靴を脱いで、入らせていただきました。
※釈迦堂内陣
独特の肌合いというか風合いのあるお釈迦さまです。中には誰もおられませんし、私以外には参拝する方もいらっしゃいませんでした。
実はこのお寺はここで終わりではないんですね。さらに上に奥之院が続いています。
※奥之院入口
途中に稲荷社があるからでしょうか、狛犬がお出迎えです。まあ、昔はお寺と神社の区別などというものはあってないようなものだったのですがね。
この写真だと鬱蒼としたところに入っていくように見えてしまいますが、きちんと整備された道が続いています。
※奥之院までの道
最後には、少し階段があります。左の道を行くとけいしよう殿に行きます。
※奥之院薬師堂
薬師堂は中には入れませんでした。
※薬師堂
※西国三十三所花山法皇中興一千年記念の香炉
お参りをして振り返ってみると、絶景が広がっていました。
※京都市内を望む どうやら御所の方向らしい
写真ではまったく分かりませんが、Googleマップで見返してみると、どうやら桂離宮を経て京都御所の方角を向いているようです。下界の方がガスっていて少しはっきりしないのが残念です。
ちょっと記憶が定かではないのですが、確か薬師堂からいったん階段を降りて、けいしよう殿に行き、また階段を登ったように思います。薬師堂の裏の方に庭があり、庭の方から薬師堂の写真を撮っていますので、薬師堂とけいしょう殿ではレベルが違うと思うんですよね。
※桂昌院像
しかしこの像、よく見るとめちゃくちゃ怖いです。少し画像を落としているのでそれほどでもないかもしれませんが、かなり睨まれているような気がします。横のワンちゃんのかわいらしさとのギャップがすごいです。ワンちゃんのかわいい攻撃にも、桂昌院さま微動だにせず。
薬師堂の方に戻って、裏の庭へ行きます。
※薬師堂裏の庭園
※庭園側から薬師堂を望む
この辺まではほとんど参拝者の方が来られませんでした。お会いしたのはお一人だけでした。
※十三重石塔
由来は分かりませんが、十三重石塔がありました。
この庭園からだんだん下の方へ降りていきます。ぐるっと回っていくと、青蓮院宮墓地があります。
※墓所への道 狛獅子?
例によっていつもの立て札が建っています。
※宮内庁高札
※慈鎮和尚と3人の宮さまの墓所
※左から観性法橋、證空善恵上人、宇都宮蓮生房の墓所
3人の宮さまの墓所は柵で囲まれていますが、観性法橋らの墓所は柵がありません。これはおそらく皇族とそうでない方との違いだと思います。なぜか皇族ではない慈鎮和尚の墓所も柵の中にありましたが、これは隙間がなく間に柵を建てられなかったからでしょう。
そこからまた下の方に降りていきます。途中、阿弥陀堂がありましたが、残念ながら工事中か何かで、参拝できませんでした。まあ、古いお寺は順番に補修工事を行わなければなりませんので、仕方がありません。
阿弥陀堂から下へ降りていきます。振り返ると、善峯寺歴代親王廟という碑が建てられていました。
※善峯寺歴代親王廟の碑
ここからは観音堂の前に降りていき、来たときと同じ道を戻っていきます。
山門の出口のところでは、名所の見落としなどがないかを教えてくれました。
※山門出口
入ってからここまで、たっぷり1時間はかかりました。初めはとくにどうとも考えていませんでしたが、奥之院まで行ってよかったと思います。西山から望む絶景も見ることができましたし、また境内の草木も手入れが行き届いており、とてもキレイでした。
今回ご本尊を拝むことができなかったので、リサーチしてからまた参拝したいと思います。
というわけで皆さんも! Let’s start the Pilgrimage West!
南坊の巡礼記「革堂 行願寺」(2021.4.16) ◁ 南坊の巡礼記「善峯寺」(2021.4.21)
南坊の巡礼記「善峯寺」(2021.4.21) ▷ 南坊の巡礼記「十輪寺」(2021.4.21)
最終更新:2021.6.5
*1:五来重『西国巡礼の寺』角川書店(1996)
*2:国会図書館デジタルコレクション『拾遺往生伝』所収『日本往生全伝.3』2021.6.2閲覧
*3:京都観光Navi「桂昌院」2021.6.3閲覧
*4:NHK「歴史秘話ヒストリア」“大奥 シンデレラ・ストーリー ~将軍の母・桂昌院 元祖「玉の輿」物語~”2021.6.3閲覧
*5:前田孝道『御詠歌とともに歩む 西国巡礼のすすめ』朱鷺書房(1997)