西国三十三所の第十一番札所は、深雪山みゆきやま上醍醐かみだいご・准胝堂じゅんていどうです。観音霊場としてはいわゆる醍醐寺と呼ばれる下醍醐ではなく、上醍醐の准胝堂が霊場となります。しかし、平成20年の落雷による火災で准胝堂は焼失、現在は下醍醐の観音堂が代わりの札所となっています。なお、本レポートでは上醍醐・下醍醐を合わせた醍醐寺全体について説明します。
醍醐寺(准胝堂)の巡礼情報
醍醐寺は京都の東南、伏見区にあります。伏見と言えば昔から多くの日本酒の蔵元が存在しており、それだけお水の質がいい、ということです。豊臣秀吉が豪壮なお花見を行ったことでも知られ、現在は「古都京都の文化財」として世界遺産にも登録されています。
醍醐寺の縁起
醍醐寺の成立縁起は、醍醐寺のホームページに記載されています。
それによりますと、深草の貞観寺におられた聖宝理源大師が、上醍醐にお堂を建立されたのが始まりとされます。
この辺りのいきさつに関しては、ホームページにも記載がありますが、『醍醐寺縁起』*1や『醍醐寺要書』*2を参照しながら説明していきたいと思います。
『醍醐寺縁起』によると、笠取山にある醍醐寺の創建は次のように語られています。
根本尊師(『醍醐寺要所』では「聖宝」とある)は、各地の名山を訪ね歩きましたが、修行のお寺を建てるのにふさわしいところを見つけることができずにいました。普明寺(貞観寺と同じか)にて七日間、仏法にふさわしい霊地を見つけたいと祈っておられたところ、その祈願に応えるように、五色の雲が笠取山にそびえました。そこでこの山に登ってみると、何だかうれしくなり、故郷に帰ったような気分になりました。この地にお寺を建てることを決意します。
この地には一人の老翁がいました。老翁は泉の水を飲んで「醍醐味だ!」と称賛していました。そこで尊師が、「ここにお寺を建てて仏法を広めようと思いますが、ここに長く住むことはできるでしょうか」と問われたところ、老翁は「この山は古い仏さまが修行されたところで、神々がお守りされているところです。必ずや仏法の花を咲かせましょう。ちなみに私はここの地主神です。長く和尚さまにこの地を献上しますので、仏法を広めて人々をお救いください。私もともにお守りしましょう」と語りました。
「醍醐味」という言葉がありますが、「醍醐」とは乳製品の最上のものを指します。つまり「醍醐味」というのは、最上の味だ、ということになります。そして、『醍醐寺縁起』の注釈によると、この老翁は横尾明神とされます。聖宝理源大師は、土地の神からお寺建立のお墨付きを得たのでした。
老翁は言い終わると姿を消し、しばらくして鳥が「仏法僧」と唱えます。尊師は涙を流して喜びました。そこでこのことを上奏し、延喜上皇(醍醐天皇のことか)がこれを嘉され除病延命の根本堂舎を建立され、恵利僧都が制作した薬師如来像を安置されました。尊師は次いで、准胝堂を建て、七准胝仏母(准胝観音を指すか? もしかすると七観音、七番目の観音という意味かも)を安置すること、朝敵降伏のために五大堂を造営することを願い出られました。こうして貞観16(874)年6月1日、准胝観音・如意輪観音並びに諸堂のご本尊の御衣木みそぎを加持され、手ずから柱を立てて造営を始められました。
貞観18(874)年6月18日、准胝観音・如意輪観音を彫刻され、大事業は終わりました。准胝観音は立ち上がって歩行し、内陣に入って行かれました。如意輪観音も同じく准胝堂に安置しました。すると如意輪観音は自ら東の山に登り、石山に御座されたので、尊師は苔をむしってお堂を立て、尊崇して昼となく夜となくお参りされました。そうすると如意輪観音さまは尊師に話しかけられました。「この山は補陀洛山である。ここが教えの地であり、補陀洛山の中心である。金剛宝葉石があり、私はこの上に坐す。十方世界の衆生の苦楽を観照し、昼夜つねに苦を抜き楽を与えよう」と。今の如意輪堂がこれです。
如意輪観音が自ら出て行ったことに関しては、民俗学者の五来重さん*3が次のように述べておられます。
如意輪観音さんは准胝観音さんと同居するのが嫌だというので出たわけではありません。開山堂のすぐ下にある如意輪堂は、建てたときから金剛宝葉石という石の上に立っていました。
お水取りで有名な二月堂の十一面観音も岩盤の上に立っていて、内陣・外陣の覆屋おおいやを建てています。長谷寺の十一面観音も岩盤の上に立っています。床の上から拝みますと、お足元が岩に入っているものですからお姿の下の部分が見えません。そういうふうに立つのが山岳寺院の本尊のあり方です。
こうして見てくると、この上醍醐のご本尊は准胝観音さまですが、札所の起源として、准胝観音と如意輪観音の両方が重要な役割を果たしたことが分かります。結果、自分で准胝堂に入られた准胝観音さまと、勝手に岩の上に行かれた如意輪観音さまが、それぞれ別々のところにお祀りされることになったわけです。
この如意輪観音さまがなかなかユニークで、ときどきお姿が見えなくなると『縁起』に書いてあります。なぜかというと、近江国の石本寺というところでも祀られていたのです。しばしば行き来していたということなのですが、なぜかご自分から石本庄の人々に、「私の正体は生身の准胝観音である」と夢に現れて名乗られたそうです。と考えると、ここの准胝観音と如意輪観音は二体一尊とでも言うような、仏像としての身体は別々だけれども、実は同じ仏さま、という関係なのかもしれません。
そしてこの准胝観音さまは非常に霊験あらたかで、醍醐天皇がこのご本尊をお祀りされてから、後の朱雀天皇・村上天皇という後継ぎがご誕生になったそうです。こうして皇室をはじめとして人々の尊崇を集め、上醍醐に続いて下醍醐も整備されたということです。
下醍醐の見所
下醍醐(いわゆる醍醐寺)の見所をご紹介します。
総門
※総門
広壮な寺域の総門です。総門をくぐるとすぐ左側に拝観受付があります。奥に見えるのが仁王門です。
唐門
※唐門
門跡寺院である三宝院の門の一つで、朝廷からの使者を迎えるときだけ開門したとされます。安土・桃山時代の慶長4(1599)年の建立で、2010年に創建当時の壮麗な姿に修復されました。西国三十三所の門前には「下馬」と書いている石碑が建っていることが多いですが、ここは「下乗」となっています。国宝です。三宝院に関しては、表書院も国宝となっています。なお、三宝院の詳細については、醍醐寺の下記ページをご覧ください。
西大門(仁王門)
※西大門(仁王門)
下醍醐の境内の入口となる西大門です。仁王さまが祀られている、仁王門となっています。江戸時代初めの慶長10(1605)年に豊臣秀頼が再建しました。建物は京都府の指定建造物となっています。
金剛力士像
※阿形
※吽形
二尊の金剛力士像はもともと南大門(現存せず)に祀られていたものです。平安時代後期の長承3(1134)年に仏師勢増・仁増によって造立されました。国指定の重要文化財となっています。
清瀧宮
※清瀧宮本殿
醍醐寺の総鎮守である清瀧権現せいりゅうごんげんをお祀りする鎮守社です。平安時代後期の永長2(1097)年の建立で、上醍醐から准胝観音さま、如意輪観音さまのご分身をお遷しし、お祀りしました。現在の本殿は室町時代の永正14(1517)年に再建されたもので、国指定の重要文化財となっています。本殿の前には拝殿もあり、安土・桃山時代の慶長4(1599)年に座主義演僧正により整備されました。
金堂
※金堂
醍醐天皇の勅願で平安時代中期の延長4(926)年に建立されました。二度の焼失を経て、現在の金堂は豊臣秀吉によって紀州の湯浅から移築が計画され、秀頼の時代の慶長2(1600)年に完成しました。ここに安置されている薬師如来坐像が醍醐寺のご本尊です。しかし醍醐寺ほどの大きなお寺がわざわざ和歌山の湯浅からお堂を移築してきた、というのは大きな驚きです。なお、この湯浅からの移築については、一般社団法人和歌山建築士会のホームページ*4に論考が掲載されています。一部引用させていただきます。
この大きなお堂が湯浅のどこにあったのか、「義演准后日記」では「紀州湯浅ノ本宮(堂?)」とあるだけで具体的な場所は書かれていません。江戸末期の地誌「紀伊続風土記」では”満願寺”から移したもの、とされていますが、その満願寺の奥の院と伝承されているのが”勝楽寺”です。満願寺もしくは勝楽寺の周辺に建っていたという説が有力ですが、実際の場所は未だに分からないそうです。とはいえ湯浅にあった建物が京都醍醐寺に400年以上を経て今も建っていることに変わりありません。
時を超え、地域も越えて現在に伝えられているこの金堂は、国宝として今も大切にされています。
五重塔
※五重塔
醍醐天皇の菩提を弔うために、長子の朱雀天皇が承平6(936)年に着工し、次子の村上天皇の天暦5(951)年に完成しました。高さは約38メートル、そのうち相輪が13メートルもあります。京都府下で現存する最古の木造建築物とされます。国宝です。
不動堂
※不動堂
五大明王が祀られる不動堂です。紫灯護摩道場として、現在も数々の祈願が行われます。
祖師堂
※祖師堂
※弘法大師・理源大師の両坐像
江戸時代初めの慶長10(1605)年に座主の義演によって建立されました。真言宗の開祖である弘法大師空海と、醍醐寺の開基である理源大師聖宝の両大師がお祀りされています。
観音堂
※観音堂
1930年に山口玄洞居士の寄進により建立されました。林泉・弁天堂・鐘楼・伝法学院などを総称して大伝法院と称します。すべて山口玄洞居士の寄進です。上醍醐の准胝堂が焼失してからは、この観音堂が西国三十三所第十一番札所の代行をしています。
※鐘楼
※弁天堂
上醍醐の見所
上醍醐の見所をご紹介します。
女人堂(成身院)
※女人堂(成身院)
上醍醐への登山入口となっています。古来多くの修験の山は女人禁制とされていましたので、女性はここから上醍醐の諸仏を拝んだとされます。現在の本堂は江戸時代初期の再建で、ご本尊として山上の准胝観音さまのご分身がお祀りされています。本堂の前には山側から不動明王、理源大師、弥勒菩薩、役行者、地蔵菩薩がお祀りされています。成身院はもともと後嵯峨天皇の皇后であった大宮院の祈願所で、慶長年間には三宝院に隣接するところにあったそうです。女性が建立された院ということで、後世この女人堂との混同が生じ、両者が一体化したのでしょう。
清瀧宮拝殿
※清瀧宮拝殿
平安時代後期の寛治2(1088)年に建立されましたが、現在の建物は室町時代の永享6(1434)年に再建されたもので、国宝です。寝殿造の手法を活かした建物で、前面部は崖の上にかかる懸造の構造となっています。
醍醐水
※醍醐水の霊泉
縁起の項で述べた、「醍醐味」のする霊泉です。現在は飲むことができません。
准胝堂跡
トップの写真が准胝堂の跡地です。理源大師が建立されたものがオリジナルですが、度々被災し、最後の建物は1968年に再建されたものでした。2008年の落雷による火災で焼失し、現在は再建のための準備段階です。再建のためのご寄進をすると、芳名帳に名前が記載され、永くその浄心が伝えられるとともに、特製の記念品をいただくことができます。
薬師堂
※薬師堂
延喜13(913)年に醍醐天皇の勅願で創建されました。現在の建物は平安時代後期の保安2(1121)年の再建で、国宝です。上醍醐においては現存する最古の建造物で、平安時代の遺構として大変貴重なものです。ご本尊だった薬師如来、日光・月光菩薩の三尊像は理源大師の弟子の会理僧都の作とされます。三尊像も国宝で、保存管理の観点から、現在は霊宝館の平成館に安置されています。
五大堂
※五大堂
醍醐天皇の勅願にて延喜年間に創建されました。ホームページには延喜13(913)年とありますが、現地の案内板には延喜7(907)年の創建とあります。この辺の事情は『醍醐寺縁起』等を参照しても審らかではないようです。現在の建物は1940年に再建されたものです。中には不動明王・降三世夜叉明王・軍荼利夜叉明王・大威徳明王・金剛夜叉明王の五大明王が祀られており、修験道の聖地としての雰囲気を湛えています。
如意輪堂
※如意輪堂
如意輪堂は准胝堂とともに、醍醐寺の開祖理源大師が最初に建立したお堂です。貞観18(876)年のこととされています。如意輪観音の来歴については縁起の項で述べたとおりです。現在の建物は江戸時代初めの慶長11(1613)年に建立されたもので、国指定の重要文化財となっています。
開山堂
※開山堂
醍醐寺の開山の祖である理源大師聖宝をお祀りしたお堂です。弟子の観賢が理源大師をお祀りするために、平安時代中期の延喜11(911)年に建立しました。現在の建物は江戸時代初めの慶長11(1606)年に豊臣秀頼によって再建されたもので、国指定の重要文化財となっています。また、堂内に安置されている聖宝理源大師像は鎌倉時代の弘長元(1261)年に造立されたもので、こちらも国指定の重要文化財となっています。
上醍醐・准胝堂のご詠歌
ご詠歌とは、花山法皇が各札所で詠まれた歌と伝えられています。
ぎゃくえんも もらさですくう がんなれば
じゅんていどうは たのもしきかな
(逆縁も もらさで救う 願なれば
准胝堂は たのもしきかな)
漢字表記、歌の解釈は紀三井寺前貫主前田孝道師*5によります。
逆縁とは仏に反抗し、仏法をそしること、あるいは恨みや憎しみ等のように順縁の反対です。そこでこの御詠歌の意味を考えてみましょう。
「仏をそしり、けなす、逆縁のものさえ、もらさず救い取らせようという観音さまの慈悲のみ心は有り難い。けわしい山をよじ登ってこのお堂にお参りしてみると、ここ上醍醐寺の御本尊准胝観音さまは寛大にして功徳無辺のみ仏。有り難きかな、勿体なきかな。まこと頼りがいのある観音さまであるよ、何とぞ導き給え!」と受けとることができましょうか。
唐突に「逆縁」という言葉が出てくるのが少し気になります。西国三十三所の他の札所のご詠歌でも、そもそも「縁」という言葉すら使用されている例がないんですね。そこで私が注目したのは、開山堂の縁側です。
※開山堂側面
開山堂の現地にある案内板には、次のように書かれています(なお、引用文中の( )内の文字は不明瞭な箇所)。
其の様式に於ては注意を要する点が多々ありが外観に於ては、側面前端の間の扉(で?)ここでは縁が切断されており、扉が亀腹(山or上?)にまで達しておることである。
この、注意を要するとされている「縁」と、ご詠歌の「逆縁」が何らかの関係があるように感じて仕方がありません。
また、「たのもしき」は粉河寺のご詠歌と同じで「頼母しき」で、母性を象徴する准胝観音さまと結びつけられる言葉です。
醍醐寺へのアクセス
醍醐寺ホームページに詳しいアクセス情報が掲載されています。
公共交通機関
京都市営地下鉄「醍醐駅」下車。醍醐寺まで徒歩約10分。醍醐寺から上醍醐までは徒歩約60分。
お車
名神高速道路「京都東IC」から南下。約20分。
境内南西側に駐車場あり。5時間まで1000円。以降30分ごとに100円加算。100台程度。
※なお、車高が高い場合大型と判定されて料金が2倍となる
※手前の駐車場から左奥が境内、右奥にも広い駐車場がある
醍醐寺データ
ご本尊 :准胝観世音菩薩
宗派 :真言宗醍醐派総本山
霊場 :西国三十三所 第十一番札所
十八本山巡拝 12番
西国四十九薬師霊場 第39番
近畿三十六不動霊場 第23番
役行者霊蹟札所
神仏霊場巡拝の道 第126番
所在地 :〒601-1325 京都市伏見区醍醐東大路町22
電話番号:075-571-0002
拝観時間:下醍醐
9:00~17:00(夏期)
9:00~16:30(冬期)
上醍醐
9:00~15:00(夏期)
9:00~14:00(冬期)
拝観料 :下醍醐
伽藍・三宝院庭園 大人1000円 中・高校生700円
三宝院御殿 大人(中学生以上)500円
霊宝館本館・平成館 大人(中学生以上)500円
入山料 :上醍醐
大人600円(下醍醐の拝観券を持っている場合500円)
中・高校生400円(下醍醐の拝観券を持っている場合300円)
URL :https://www.daigoji.or.jp/
第十番 三室戸寺 ◁ 第十一番 上醍醐・准胝堂 ▷ 第十二番 正法寺(岩間寺)
境内案内図
上記サイトに案内図があります。
南坊の巡礼記「醍醐寺」(2021.4.7)
さて、三室戸寺を後にして、JR黄檗駅でスタンプを押してもらいます。そこから醍醐寺まで向かいますが、車で15分程度です。近いですね。10時過ぎには醍醐寺の駐車場に到着しました。快調なペースです。
駐車場は5時間で1000円となかなかの値段ですね。これまでの札所では最高額ではないでしょうか。興福寺も1000円でしたが、時間制限はとくになかったように思います。
駐車場から左に向かうと、右側には霊宝館があります。そのまま北側に進むと正面の右側に唐門が見えてきます。国宝です。
※唐門 菊のご紋が眩しい
2011年に修理をされたそうですがすごくキレイです。ここで少し写真を撮って、右を向いたら仁王門、左を向いたら総門です。総門までの手前に総合受付があります。
拝観にお金がかかるのか受付のお姉さんに聞いたところ、春の特別拝観中で伽藍・三宝院庭園・霊宝館庭園の三点セットで1500円とのことでした。数年前にお花見をかねて来たときも、このセットにしたような気がします。
※醍醐寺の仁王門 お寺参りというよりはハイキングという人が多い
というわけで、まずは伽藍エリアを訪ねます。記憶では桜がとてもきれいだったように思います。このお寺は豊臣秀吉が大規模なお花見を挙行したお寺で、平成の世の中(当時)になってもお花見を売りにしておられたはずです。いくらかかるのか分かりませんが、寄進すると自分の名前が書かれた立て札とともに桜を植樹してくれた(自分で植える?)ような気がします。
というわけでまずは仁王門をくぐります。
あれ?こんな感じだったかな?というのが第一印象でした。
※謎の伐採エリア
後で調べたところ、2018年の台風21号で3,000本もの倒木、南門や清瀧宮などの建物の損傷など、4億6,000万円もの被害が生じていたそうです。どうりで、本当に華やかな浄土のようなお寺という印象があった醍醐寺でしたが、何だか少し殺風景な感じがしたわけです。
※この幕で通るところを誘導される
伽藍の入口からしばらくは桐文の紅白幕がずっと続いていましたが、お祭り感を演出しているというだけではなく、見せたくないところを隠すという意味もあったのかもしれません。この辺りは伽藍が文字どおりガラーンとしていて、台風の風がものすごく吹き荒れたのでしょう。近年は台風の被害も拡大してきていますから、何とかしないといけませんね。
※清瀧宮拝殿の裏側
とくに順路の指定がありませんので、目についたものを追いかけて進みます。この拝殿も一応1599年の創建らしいですね。
※鐘楼その1
醍醐寺の鐘楼は袴腰ではないですね。しかも楼というほどの建物ではないです。鐘舎?とでも言いましょうか。醍醐寺の規模のお寺から考えると、意外と小さくてびっくりします。
※下から見た五重塔
国宝の五重塔です。さすがに精緻な木組みで造られています。中にある「両界曼荼羅」と「真言八祖壁画」も絵画として国宝に指定されているそうです。
※不動堂の遠景
トラックが停まっており、園丁のお父さんが休んでおられます。4月とはいえ快晴で結構気温も高くなってましたからね。
※横から見た観音堂
観音堂は正面からは入れません。横に回り、この写真の左側から上っていきます。スロープのようになっていたでしょうか。木の板のところを進んで行きます。山用の靴なので、丁寧に歩かないとゴツゴツと大きな音がしてしまいます。
観音堂の中は当然写真撮影禁止です。中に入ると左側に仏さまが並んでおられます。中心におられるのがご本尊の准胝観音さまだと思われます。やはり山の上のご本尊さまは准胝堂とともに焼失してしまったようです。元々のご分身の一つか何かが、現在のご本尊ということなんでしょう。
三人のお坊さまが読経の最中でしたので、声を出してお経を読むことはやめておきました。心中で納経をさせていただき、ご宝印をいただくことにします。少しシステムが変わっており、事前に申込書のようなものに授かりたいものと合計金額を記入し、レジのお姉さんにそれを渡してお金をお支払いします。そして領収印の押されたその紙を持って納経所の方へ行きます。両方とも、観音堂の内陣にあります。
さて、これで第一段階がクリアです。いよいよ、昔の人は偉かった、上醍醐へと向かいましょう。ここから左手に弁天池を見ながら東へと進みます。そうすると、伽藍の終点に到着です。昔の動物園などによくあった、回転する鉄のゲートがあります。一度出たらもう戻ってこれない方式です。と、ちょっとここで慌てました。実は金堂に人が多かったので飛ばしていたんですね。これはマズイ、と慌てて金堂まで戻ります。今度は人がいませんでした。ラッキーでした。
※斜めから見た金堂 均整のとれた大きな屋根が美しい
金堂ですから、醍醐寺の本堂ということになります。さすがに素晴らしい建築です。これも後で知りましたが、和歌山から移築されたとか。どこにこんな立派な建物が残っていたんでしょうか。醍醐寺に移ったから立派に見えるのか、もともと立派だったから醍醐寺に移ったのか。面白いですね。
これで心置きなく下醍醐を後にすることができます。上醍醐へ行きましょう。とここで、重大なことに気がつきました。拝観券がない!
さんや袋の一番取り出しやすいところに、スマホとともに入れていたのですが……。そりゃこれだけスマホを出し入れしていたら落としますよね……。この時点で三宝院と霊宝館はスキップ決定です。
気を取り直して外に出ます。
※ゲートを出てすぐのところ 奥に女人堂がある
ゲートから出てみると、もう森の中です。そして、札所の石碑があります。そういえば今まで見ていなかったような気がします。落ち込んだ気分も少し上がります。
女人堂の受付でお母さまに入山料をお支払いします。伽藍を見て来たと言うと、600円が500円になりました。ご親切にも、「上醍醐では納経はできませんよ」と教えてくださいました。拝観券をチェックされなかったので助かりました。
さて、11時ちょうどくらいに山登りの開始です。
※一丁の丁石 何丁まで続くのだろう……
そして、出ました! 一丁の丁石です。これが何丁まで続くのでしょうか。四番札所の槇尾山施福寺せふくじの丁石は八丁からのカウントダウン方式でしたので、自分が何パーセント進んだか分かりましたが、ゴールが何丁か知らずに登っていくのはなかなかキツイですね。結論から言うと、ゴールは十九丁でした。
※史跡醍醐寺境内の石碑 山道を予感させる
※上醍醐への山道 これはまだ序盤
序盤の山道はかなり歩きやすいですね。サクサクと進んで行けます。途中で30~40歳代くらいのお姉さま3人組を追い抜かしました。挨拶を交わします。ちなみにこの3人組の方は、私が下山を開始してから10分程度のところでまたすれ違いました。割とゆっくり登っておられたようです。
※五丁の丁石
この辺まででだいたい15分くらいでしょうか。まだまだ歩きやすいですね。ただ、施福寺に行ったときよりも息が上がります。ちょっと体が重かったんですよね。疲れがたまっていたんでしょうか。
※九丁の丁石
※不動の滝
九丁を過ぎると程なくこの不動の滝に到着です。ここがちょうど中間地点です。ここには小屋のようなものもあって、ベンチもあって座って休むことができます。
私も少しだけ休憩し、またすぐに登り始めます。ここまででほぼ30分です。施福寺だったらもう着いているわけですから、その倍のしんどさがあるということですよね。
※十五丁の丁石
十五丁の丁石です。何となく傾斜が急だということが伝わりますでしょうか。ここまででほぼ45分かかっています。しかし、もうちょっとです。
※上醍醐の案内板
この案内板がある辺りから、いったん登りが終わります。向こうから来られたお父さまが、「あと15分くらい」と励ましてくださいました。山はこういう交流があるのがうれしいです。元気をもらい、岩場のようなところをしばらく下っていきます。
※十八丁の丁石とトイレ
下りが終わったところにこの丁石とトイレがあります。トイレというよりは便所といった方がいいかもしれません。
※上醍醐事務所入口
寺務所の入口がありますが、特別な用事のない限り行ってはいけません。昔はこちらでご宝印がいただけたのでしょうか。横に参道と書いてありますので、そちらに進みましょう。
※十九丁の丁石
すぐに十九丁の丁石があります。ここが准胝堂への石段の真下になります。
※准胝佛母堂の石碑 この上に准胝堂がある
この石段を登っていくんですね。少し登ると右側に醍醐水の霊泉、左側に清瀧宮の拝殿があります。
※醍醐水霊泉の社
昔は飲むことができたらしいですが、現在は扉が閉じられていて飲むことができません。中に、井戸のようなものがあります。私は自分で飲み物を持って行ったので大丈夫でしたが、飲み物が尽きた状態でこのお水を飲むことができたら、それこそ「醍醐味!」と叫んでしまうのでしょうね。
※奥が准胝堂のあった跡地
石段を登り終わると、この跡地に到着です。観音巡礼としては、ゴールということになります。ちょうど12時くらいになっていました。
それにしても……。いやあ、寂しいものですねえ。しかし、これで古人と同じ苦労を味わうことができました! 本来ここで納経することができ、ご宝印をいただくことができれば感慨もひとしおだったでしょう。
※上醍醐の案内板 まだまだ上もある
案内板を見ると、上醍醐はまだこれからが本番のようです。国宝や重要文化財もあるみたいですね。以前来たときにはこの奥には行かなかったのですが、今日はまだ日も高いですし、行ってみることにしました。
※薬師堂
これが国宝の薬師堂ですね。山の上の伽藍だけあって、意外と小さなものです。まあ、建築様式など、詳しいことが分からない素人ですから、下醍醐の金堂を見たときの方が印象深かったですかね。
そこからまた10分弱登っていくと、伽藍のなかで最も標高が高いエリアに到達です。
※すぐ上が最も標高が高いエリア 鐘楼が見える
※上醍醐の案内図
これで見ますと、だいぶ上の方まで上がってきたということが分かります。まさに山上の伽藍ですね。上醍醐だけでも、他の札所レベルの規模があります。
※下から見た五大堂
案内板から左の方に行くと五大堂です。
※五大堂前の修験者の像
修験道、山岳仏教らしいお堂です。手前には護摩を焚く壇があり、このような銅像も立っています。おそらくモデルはいるんでしょうが、ちょっと分からないです。右は類例から考えると、役行者のように思えます。
堂内にも多くの尊像がお祀りされています。開扉されていますので、中をゆっくりと見ることができます。密教の世界観が表現されています。
しかしよくよく考えると、近くにお寺の方がいらっしゃるわけでもないので、不用心なような気がします。2019年10月31日に沖縄の首里城が火災で焼失しましたが、上醍醐のような人気ひとけのないところは火災の心配がより大きくなりますよね。実際に准胝堂は燃えてしまっているわけですし。仮にも国宝などと国が指定しているのであれば、それを保存・管理するための施策をもっと充実させる必要があるように思います。五大堂は国宝ではないですが。
そこから戻り、案内板の右側の方に進みます。如意輪堂の横を通り、開山堂に着きます。この辺りが醍醐山の山頂で、標高が450メートルあるようです。
※醍醐山山頂
この開山堂のあるエリアが山頂なんですね。周囲が木で覆われていますので、見晴らしはそれほどよくありません。
※京都市作成の開山堂案内板 醍醐寺作成のものと内容が少し異なる
※地蔵堂
開山堂の前から少し下に降りることができます。ちょっとだけ開けたところがあり、白河天皇皇后賢子さまと3人の皇女さまの御陵があります。ここは眺望もよいところです。それにしても、なぜか上半身裸のおじさんと青年がいらっしゃったんですよね。どういう組み合わせなんでしょう。どうやらシャツを乾かしているようでしたが、女性が来られたらちょっと驚かれるかもしれません。
※白河皇后陵
山上でお参りすべきところはお参りし終わったようです。下山を開始します。
※経蔵跡
上りは薬師堂経由で来たので通らなかったのですが、真っ直ぐ下りる道にはこの経蔵跡があります。小ぢんまりしたものです。
行きと違って帰りは楽なものです。サクサクと下りていきます。途中で何人もの方を追い抜かします。ただ、足元が悪いので気をつけないとぐねって捻挫をすると思います。私の場合はお杖が活躍してくれましたので、少々滑っても大丈夫でした。
※山の中のハト
その辺によくいるドバトかと思い、山の中では珍しいので写真を撮りましたが、どうやらキジバトという種類のようです。まったく私を怖がりません。通り過ぎてから写真を撮ろうとしたら、こちらを向いてくれませんでした。
女人堂のところまで下りてくると、下醍醐の伽藍の南側を通って駐車場の方へ帰ることになります。西大門、唐門の前を通って、元の駐車場へ到着です。時刻は13時過ぎになっています。
山歩きをしたのでかなりお腹が空いています。醍醐寺総門前にあるしも村という蕎麦のお店に目星をつけていたので、行ってみます。しかし、まさかの定休日!
他を探せばもっといろいろあったんでしょうが、もう外を歩くのも面倒くさい気分になっていましたので、駐車場の横にある雨月茶屋にすることにします。こういうところは天ぷらそばで1,800円くらいするイメージです。
しかし、入ってみると驚きました。確かに、ご膳系は一番安い雨月でも1,760円しますが、三宝そばという天ぷら入りそばは1,210円でした。海老天が2尾入っており、すもしというお寿司2切れとゴマ豆腐のような小鉢がついてのこのお値段です。上等でしょう。ただ、なぜか私の好きなにしんそばは雨月と同じ1760円です。
そばにもすもしにもガッツリとしいたけが入っていましたので、しいたけを抜いてほしいとお願いすると、すもしを筍ご飯に変えてくださいました。これはありがたいサービスです!
というわけでお腹もいっぱいになり、醍醐寺を後にします。駐車場代は1100円になってしまいました……。
それにしても、5時間で満足することができないボリュームのお寺です。拝観券をなくしたので三宝院庭園と霊宝館庭園を飛ばしてこれですからね。今度はぜひ三宝院庭園と霊宝館庭園も見てみたいと思います。
というわけで皆さんも! Let's start the Pilgrimage West!
南坊の巡礼記「三室戸寺」(2021.4.7) ◁ 南坊の巡礼記「醍醐寺」(2021.4.7)
南坊の巡礼記「醍醐寺」(2021.4.7) ▷ 南坊の巡礼記「元慶寺」(2021.4.7)
最終更新:2021.5.27