西国お遍路“行雲流水”

西国三十三所や四国八十八ヶ所を雲のごとく水のごとく巡礼した記録

西国三十三所 十二番札所 正法寺 ~汗かき観音・雷神・芭蕉 伝説の宝庫岩間寺~

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岩間寺本堂

西国三十三所の第十二番札所は、岩間山いわまさん正法寺しょうほうじ、通称は岩間寺いわまでらです。このレポートでは、人々に親しまれている岩間寺の方を使わせていただこうと思います。大津市にある札所のなかでは比較的知名度が低い方ですが、熊野・吉野と並ぶ日本三霊場の一つとして栄えていた時代もあったそうです。

岩間寺の巡礼情報

岩間寺正法寺)は滋賀県と京都府の県境にある標高445メートルの岩間山の中腹に位置します。本堂は珍しいことに南西を向いており、参拝者は北東の方角にある石川県の白山を遥拝する形になります。縁起の項でも述べますが、白山は岩間寺開基の泰澄大師たいちょうだいしが開山した山で、岩間寺と白山の関係はとても強かったように思われます。現在は醍醐寺の末寺の一つであり、ご山主は醍醐寺岩間寺双方を兼任しておられます。

岩間寺の縁起

岩間寺の成立縁起は、岩間寺のホームページに記載されています。

www.iwama-dera.or.jp(2021.5.5閲覧)

上記ホームページによりますと、縁起は以下のようなものになります。

 

元正天皇の大厄のご病気を、泰澄大師が法力により治療されました。元正天皇がお礼としてお寺を開くことを望まれました。そこで、泰澄大師加賀白山を開きに行かれる途上でこの岩間山を訪れます。すると桂の大樹から千手陀羅尼を感得され、その木で等身の千手観世音菩薩像を刻まれました。元正天皇のご念持仏を胎内仏としてお祀りしてご本尊とし、養老6(722)年に元正天皇の勅願寺として岩間寺が建立されました。

 

また、このご本尊にはユニークなエピソードがあります。

何とご本尊は夜な夜な厨子を抜け出て百三十六地獄を駆け巡り、苦しむ人々を救済されているというのです。そのため、毎朝ご本尊を拝む際には汗びっしょりに濡れておられるので、「汗かき観音」と呼ばれている、とのことです。

恐らくこの山の湿度が高く、夜の間に気温が冷えて結露がご本尊のお身体についたんだと思いますが、観音さまへの信仰心の現れとしてこのようなエピソードを考える先人の発想というのは、面白いですね。

また、もう一つ面白いエピソードがあります。

それは、泰澄大師がこの地に伽藍を建立された際、たびたび雷が落ちて伽藍を焼失したそうです。そこで法力により雷神をつかまえ、仇をなす理由を聞かれたところ、雷は弟子になりたいと申し出ます。大師は快諾し、これ以後、岩間寺を参拝する善男善女には雷の災いを及ぼさないように約束させたそうです。それゆえ、岩間寺は今でも「雷除けのお寺」「雷除け観音」と呼ばれています。

 

さて、白山と岩間寺との関わりについて述べていきましょう。これについては、民俗学者の五来重さんが詳しく論じておられます*1ので、それに依拠します。孫引きの孫引きのようになってしまいますが、史料的制約がありますので、ご了承ください。

五来さんによると、岩間寺の開基とされる泰澄大師の伝記が、鎌倉時代末期の虎関師錬が書いた『元亨釈書』巻十五に出てくるそうです。その中に、「古志郡国上山寺一檀信塔婆を造る」とあるそうですが、古志郡というのは越後にあった郡であり、ここにいた人物である古志大徳こしのだいとくと、越前出身の越大徳こしのだいとく泰澄大師との混同が見られる、といいます。

混同されたとされる古志大徳神融しんゆうという人物だそうですが、泰澄大師神融という名前を拝領したそうで、この混乱については五来さんも、原因についてはよく分からない、と言及しておられます。

以下に、『西国巡礼の寺』に記載されている古志大徳神融の伝を引用します。

古志郡国上山寺に一檀信塔婆を造る。雷電撃破す。檀信改めて造る。雷亦また之これを撃つ。凡三造三壊也。檀信屈せず。然るに雷の撃たざる所以を求むるに、之を聞き往いて檀信に語って曰く、慮おもんばかりを為すことを得ず。忽ちに一童男雲中より落つ。年十五六なる可し。頭髪蓬乱、形貌畏る可し。五処を縛せらる。涙を流して曰く、聖者慈悲をもって吾が暴悪を赦せ。

国上山は良寛さんが住んでおられたことでも知られています。やはり越後の国にある山です。3回お寺を造ったが、3回雷に壊されたということが書かれています。後からやってきたのが「」すなわち泰澄大師で、雷を捕縛したことが書かれています。ただし、五来さんはこの「」が泰澄ではなく、神融だったと述べておられるのです。

つまり、五来さんは岩間寺の縁起とされている越大徳泰澄大師の話が、同じような名前であった古志大徳神融の話と混同されている、と述べておられるのです。そして、平安時代末期の長寛元(1163)年に書かれた『白山之記』に記載されているとおり、泰澄大師が養老3(719)年に白山を開山したことは間違いない、と断じておられます。

そして最後に、次のように結んでおられます。

白山の開山の泰澄岩間寺を開いたというのは、伝記の中の一部を取って作られた縁起です。縁起の種を明かしてしまいましたが、信仰とは、そういうものを超えたものです。あの土地に行ってみると、神秘的なものを感じますから、泰澄が開いたという縁起になるわけです。ことによると、晴れた日には岩間から白山が見えるかもしれません。伊吹山はかなり近いので、伊吹山からは白山が見えます。

南北朝時代に畿内の山々が南朝方について戦火に見舞われ衰退したことから、白山信仰というものは一時期かなり隆盛を極めたそうです。そう考えると、白山の開山である泰澄大師が開基であるお寺、というのは修験道の山寺としてはかなりの箔がつくことになります。もしかするとこうした民間信仰がやがて開山説話を形づくるようになり、岩間寺の縁起が形成されたのかもしれませんね。

また、私が一つ気になったのは、岩間寺ホームページの縁起のところに、次のような箇所があったことでした。

往昔は、後白河(ごしらかわ)・後宇多(ごうだ)・正親町(おおぎまち)天皇等歴代天皇の尊崇厚く熊野、吉野に並ぶ、日本三大霊場の一として隆盛していた。

日本三大霊場というと、熊野・吉野・岩間と数える例は寡聞にして聞いたことがありませんし、様々な数え方があるようですが、白山が入ることが多いようです。古文書等を精査してみないと分かりませんが、このホームページの記述ももしかすると岩間山と白山が同一視、つまり支所や出張所のような考え方がとられていた可能性があるように思います。その証拠の一つに、泰澄大師が勧請したとされる白山妙理大権現が岩間寺に祀られています。あくまで私見として、白山・岩間山同一視説を述べさせていただきました。

結論づけますと、雷が祀られているかどうか、泰澄大師が開かれたかどうか、ということよりも、白山との関係性が非常に強い修験道のお寺の一つだと言うことができます。そして、そのような岩間寺は人々の信仰を集め、西国三十三所の観音霊場の一つにもなった、ということが言えるでしょう。岩間寺の意義や歴史は、縁起の内容そのものよりも人々の尊崇の対象となっていたかどうかが問題なのです。

岩間寺の見所

岩間寺の見所をご紹介します。

ぼけ封じ観音

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※ぼけ封じ観音と鐘楼

近畿十楽ぼけ封じ観音霊場の一つとなっており、駐車場から境内に至る手前にこの観音像があります。ぼけ封じ観音としては、四番目の霊場となっています。観音像の手前には仏足石もあります。

白姫龍神

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※白姫龍神

泰澄大師が白山を開山される際、白馬に乗った美女に会われました。尋ねると「余は白山妙理大権現である」と答えられたので、ありがたく感じたそうです。そして大師は、この岩間山にも白姫龍を勧請されたということです。白山を遥拝するような向きで鎮座しておられます。女性がこの神を崇めると美女になるという伝承があるそうです。

雷神爪掘湧泉

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※大雷神王像

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※雷神霊泉碑 歌は元正天皇御製と伝わる

泰澄大師が降伏した雷神が爪で掘り出したとされる泉です。泰澄大師に降伏して後、雷神は雷の災難を岩間寺参詣者には及ぼさぬことを約束しました。

仁王像

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※仁王像 左の阿形は日陰に溶け込んでしまっている

岩間寺には山門がなく、二尊の仁王像がお守りしておられます。わりと新しい像です。

集会所

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※集会所内部

祭事などを行う集会所です。ぼけ封じほうろく灸などの法要が行われるようです。

大師堂

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※大師堂

1985年の再建で、開山の泰澄大師と宗祖の弘法大師がお祀りされています。

不動堂

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※不動堂

江戸時代の寛政年間、文化年間にも再建を重ねましたが、昭和時代の再建も虫害がひどかったため、現在の建物は1993年に再建されました。不動明王、二童子(制吨迦せいたか・矜羯羅こんがら)像は平安時代中期の制作で、国指定の重要文化財となっています。

芭蕉の池

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※芭蕉の池

『観音霊験記』という書物に、松尾芭蕉岩間寺に参籠してご本尊の霊験を感得し俳風を確立することができたと書かれているそうです。本堂の横には、芭蕉の名句「古池や 蛙とびこむ 水の音」を詠んだと伝えられている池があります。

夫婦桂

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※夫婦桂

泰澄大師ご本尊の千手観世音菩薩を感得したとされたのが、岩間山の桂の大木でした。この夫婦桂はそのときの桂の子孫に当たるそうです。

本堂

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※本堂外陣

現在の建物は、天正5(1577)年、醍醐寺理性院尭助僧正が、正親町天皇の御願を受けて再建されました。またご本尊は、元正天皇のご念持仏で、ご丈四寸八分(約15cm)のインド伝来のエンブダゴン(インドのエンブ川から採れる砂金)による金銅仏千手観音立像で、秘仏となっています。

西国三十三所お砂ふみ道場

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※西国三十三所のお砂ふみ道場

西国三十三所のお砂ふみ道場です。各札所のご本尊が石仏にて再現されています。正確に再現されていると考えられるものもあれば、坐像が立像になっているものもあります。

岩間寺のご詠歌

ご詠歌とは、花山法皇が各札所で詠まれた歌と伝えられています。

みなかみは いづくなるらん いわまでら

 きしうつなみは まつかぜのおと

(水上は いずくなるらん 岩間寺

   岸うつ波は 松風の音)

漢字表記、歌の解釈は紀三井寺前貫主前田孝道*2によります。

この御詠歌の「みなかみは」とは水の源は、との意味です。「いずくなるらん」とは、どこであろうかということです。「岩間寺」には、岩の間を流れる岩清水との意味と、水の源はどこか「言って」いただきたい、聞かせてくださいという問い掛けの心も感じられます。

後半の部分に関しては、五来重さん*3の解釈を引用させていただきます。

岩間寺は、水に縁のある千手観音を本尊としています。御詠歌は「みなかみはいづくなるらん岩間寺 岸うつ波は松風の音」です。ここからは琵琶湖が見えますので、琵琶湖の波を「岸うつ波は」と詠みました。琵琶湖の波のみなかみは岩間寺だと詠もうとしたようです。 

雷神が泉を開いた伝説といい、芭蕉の池の伝説といい、「水」に非常にご縁があるお寺だと言えそうです。

岩間寺へのアクセス

岩間寺ホームページに詳しいアクセス情報が掲載されています。

www.iwama-dera.or.jp(2021.5.5閲覧)

公共交通機関

JR「石山駅」から京阪バス「南郷二丁目東」行、「大石小学校」行または「びわこ池田墓園」行に乗車、「中千町」下車徒歩約50分(「石山駅」から約70分)。

※毎月17日はJR「石山駅」からシャトルバスが運行されます

お車

京滋バイパス「石山IC」から南西へ約10分。

駐車場あり。約20台。無料。

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※駐車場から境内への入口。右は会館

岩間寺データ

ご本尊 :千手観世音菩薩

宗派  :真言宗醍醐派

霊場  :西国三十三所 第十二番札所

     ぼけ封じ近畿十楽観音霊場めぐり 第四番

     びわ湖百八霊場 第二番

     勢多川三山霊場

所在地 :〒530-0869 滋賀県大津市石山内畑町82

電話番号:077-534-2412

拝観時間:9:00~16:30

拝観料 :大人500円

URL   :http://www.iwama-dera.or.jp/

 

第十一番 上醍醐・准胝堂 ▷ 第十二番 正法寺(岩間寺) ▷ 第十三番 石山寺

南坊の巡礼記「正法寺(岩間寺)」(2021.4.8)

京滋バイパスの石山ICで一般道に降りると、すぐに案内板があり、非常に分かりやすいです。道も混んでいなかったため、とてもスムーズでした。滋賀大学の大津キャンパスを左手に眺めながら、県道106号線、千町石山寺辺線を走ります。快適なドライブです。ファミリーマートそがわ千町店のある交差点を右折ということで、これから山に入っていきそうな感じでしたので、飲み物を買うついでにトイレをお借りすることにしました。とここで! またまたやらかしました! スマホがありません!

どこかで落としたのか、いやそう言えば家を出てから見た記憶がありません……。カメラを持ってきていないので、スマホがないと写真も撮れません。ということは、これから岩間寺に行っても写真すら撮れない、ということです。また、 Google Pay を財布代わりに使用していますので、何かを購入する際にも不便です。5秒ほど悩みましたが、仕方ありません。家に帰ることにしました。そもそも、スマホの所在が分からないというのも問題です。

というわけで、スーパーダッシュで家まで戻ります。……ありました。しっかりと、ティッシュの箱の陰に隠れていました。普段椅子に座っているときはそこに置いていますので、そのままにしていたんですね。

まあ、岡山の備前まで行って掛け軸がないことに気づいたのに比べれば、はるかにマシです。気を取り直して、岩間寺へ向かいます。

道は山道に入りますが、離合が困難というほどのところはほとんどありません。走りやすいです。メモリアルパーク大津桜公園墓地を過ぎてすぐに、右側に下っていく道が現れます。しかし鳥居があって「奥宮神社」と石碑が立っていますので、そちらに間違えて行くことはないと思います。むしろ道なりは岩間寺の方へと進みます。そこから10分弱走るとお寺の駐車場に到着です。10時55分でした。まだ何とかリカバリーできそうです。

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※駐車場から境内への入口にある案内板

入山料を支払う受付らしい建物がありますが、この日は閉まっていて、本堂でお支払いをする仕組みになっているようです。

ここから少し下ります。右側に会館が建っており、ここのトイレを使用することができるようです。境内にもトイレはありましたが、明らかに古そうでしたので、この会館のトイレを使わせていただくのがよいと思います。

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※ぼけ封じ近畿十楽観音霊場めぐりの案内板

ぼけ封じの観音霊場があるとは初めて知りました。しかし、超高齢社会の日本では確かにニーズは高そうです。ホームページで拝見したぼけ封じのほうらく灸も大勢の方が参加されていました。非常に「密」(密教の「密」ではない)で、今の時代には見ることができない光景となってしまいました。

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※境内の案内図

案内図を見るかぎり、それほど大きなお寺ではありません。右奥に琵琶湖が描かれていますが、恐らく奥宮神社の方に行かないと見れないのではないかと思います。

駐車場にはバイクが1台停まっていただけでしたので、境内は非常に静かです。お参りのし甲斐があるというものです。

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※沿革案内板

岩間寺の縁起や沿革が書かれた案内板がありました。なぜかおどろおどろしいホラー書体で書かれています。

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※白姫(白山比咩)龍神の説明板

この白姫龍神の右奥の階段から、下の方に降りていくと雷神爪掘湧泉があります。ぐるっと回って、仁王像の裏手、境内の中に戻ってくることができます。

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※仁王像を過ぎて境内に入る 奥の並びに本堂がある

右手に集会所を見ながら、境内の奥へと進んでいきます。

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※境内の奥 右側を見たところ 奥にある階段の上には五社権現があったようだ

大師堂不動堂があり、右を見るとこの階段です。どうも会館の裏手に出るようなのと、居住スペースかもしれないと思い、登りませんでした。後から案内図を見ると、五社権現が祀られている社があったようです。

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※芭蕉の池と達筆すぎる石碑

達筆すぎて素人の私には何と書いてあるのか分かりません。おそらく「古池や」の俳句が書かれているのでしょう。しかし本当に「静寂しじま」という言葉がぴったり合う境内で、カエルが水に飛び込むポタランという音がしたら振り向いてしまいそうです。芭蕉のこの句と関連づけられている池は実はあちこちにあるそうですが、ここであってもおかしくないと思います。

と、本堂納経をしていると、がやがやとにぎやかな集団がやって来られました。10人程度でしょうか。老若男女というほどバラエティに富んでいるわけではありませんが、家族なのか親戚なのか、年齢層もわりとバラつきがあります。

納経所の女性の方におうかがいすると、この岩間寺醍醐寺はご山主が同じだそうです。私は「慈悲の道」を読んでそうなのかな?と疑問を抱いていたのですが、確かだったようです。

納経を済ませ、本堂の外に出ます。境内の左の奥に道が続いていますので、行ってみることにしました。

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※境内の左奥へと続く道

どうやら、ここをずっと行くと上醍醐まで行けるようです。歩いて順打ちをする場合は、この道を向こうから来られることになるわけですね。

と、ここで西国三十三所のお砂ふみ道場があることに気づきました。

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※西国三十三所お砂ふみ道場 左側から一番那智山があり、順番に時計回りに回ってくる

なかなか立派な石像で、結構本格的なものです。各札所でひな壇型だったり、お砂踏みだったり、いろいろなパターンがありますが、ここは結構面白いと思いました。

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※第五番札所葛井寺の千手観世音菩薩像

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※書写山圓教寺参道の第五番札所葛井寺の千手観世音菩薩像

実は葛井寺の千手観世音菩薩は坐像なんですよね。また、腕が本当に1000本以上あるのが特色です。そうした意味では、よく再現できているのはこの圓教寺の像です。

岩間寺の像は坐像ではなく立像ですから、ちょっと違いがありますね。ただ、岩間寺の石像はどれも愛らしいもので、これはこれで有り難いものだと思います。

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※道はさらに境内の奥へと続く……

まだまだ境内の奥へと道が続いているようです。長寿桂というのもそれほど遠くない、と書いてありましたが、この日はまだ石山寺三井寺を参拝する予定でしたので、引き返すことにしました。

来た道を戻り、駐車場へと帰ります。10人程度の団体はマイクロバスか何かで来たのかと思っていたのですが、どうやら普通車に分乗して来たようです。駐車場が大方埋まってしまってました。

しかし、本当に静かな山中のお寺で、芭蕉が腰を落ち着けたのもうなずける、いいお寺だと思いました。お店なんかが並んでいるということがなく、世俗化されていないのもいいですね。来年が開山1300年記念ということですので、特別拝観等も計画されることと思います。

それでは皆さんも! Let's start the Pilgrimage West!

 

南坊の巡礼記「元慶寺」(2021.4.7) ◁ 南坊の巡礼記「正法寺(岩間寺)」(2021.4.8)

南坊の巡礼記「正法寺(岩間寺)」(2021.4.8) ▷ 南坊の巡礼記「石山寺」(2021.4.8)

 

最終更新:2021.5.27

*1:五来重『西国巡礼の寺』角川書店(1996)

*2:前田孝道『御詠歌とともに歩む 西国巡礼のすすめ』朱鷺書房(1997)

*3:五来重『西国巡礼の寺』角川書店(1996)