西国お遍路“行雲流水”

西国三十三所や四国八十八ヶ所を雲のごとく水のごとく巡礼した記録

西国三十三所 番外 元慶寺 ~権力闘争の舞台 花山法皇ご落飾の道場~

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花山天皇ご落飾道場

西国三十三所の番外札所の二ヶ寺目は、華頂山かちょうざん元慶寺がんけいじです。西国三十三所札所会のホームページでは番外札所についてとくに説明がありませんが、札所会推薦の納経帳にはあらかじめ番外札所のページが設けられています。いつごろから番外札所とされたのかははっきりとは分かりませんが、花山法皇かざんほうおうが出家されたお寺ということと、第十四番札所の三井寺から第十五番札所の今熊野観音寺のルート上にあることから、あわせてお参りする人も増え、番外札所となったのでしょう。

元慶寺の巡礼情報

西国三十三所を再興したとされる花山法皇が、この元慶寺でご落飾、ご出家なさいました。それゆえ、西国三十三所との所縁が深いお寺となっていますが、実は百人一首にも採用されている僧正遍照そうじょうへんじょうが開基であるなど、小さいながらもエピソードに事欠かないお寺です。

元慶寺の縁起

元慶寺はオリジナルのホームページを持っておられませんが、成立縁起はお寺の前に立っている京都市が作成した案内板で知ることができます。

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※京都市作成の案内板

それによりますと、百人一首にも採用されており、六歌仙・三十六歌仙にも名を連ねる遍照僧正が、陽成天皇のご誕生に際して貞観10(868)年に定額寺と称して建立したとされます。遍照僧正(一般には僧正遍照として知られる)のお墓は、今もお寺の近くにあります。

なお、「定額寺」というのは本来固有名詞ではなく一般名詞で、天皇などの中心的な皇族が建立した「御願寺(勅願寺)」に次ぐ格を持つお寺のことです。ただ、京都市の案内板では「定額寺」という固有名詞を名乗ったかのように思えます。

その後元慶元(877)年に清和天皇の勅願寺となり、元号をとって元慶寺と改めたとされます。

さて、それから約100年後のことです。17歳で即位した花山天皇は、19歳で誰にも告げずに突然出家されるのですが、その経緯がいささか複雑です。

どうも藤原氏内部の権力闘争がからんでいたようです。当時は天皇の外戚として摂政や関白に就任し、権力を握るやり方がとられていました。しかし、逆に言えば力のある外戚が後ろ盾となることで皇位を維持することもできたわけです。花山法皇はその外戚がすでに亡くなっており、後ろ盾が存在しなかったわけです。

また、前年に最愛の女御を亡くされていたことも、出家を決意させる一因となった可能性があります。しかし、天皇としてはわずか2年の在位でとくに業績を残すことはできなかったかもしれませんが、西国三十三所の観音巡礼を再興したことで、今でも法皇をしのんでお寺を訪れる方々が後を絶たないわけです。

なお、出家の際の詳しい顛末は、『大鏡』*1に記載されています。

 

寛和2(986)年6月23日の夜、ご浅慮だったことに花山法皇は誰にも告げずに密かに花山寺元慶寺を指す)にいらっしゃり、ご出家なされました。お年は19歳で、皇位につかれていたのは2年。その後22年ご存命でした。

お可哀そうなことがあった夜、藤壷の上の御局の小さな戸から皇居をお出になったところ、満月がたいそう明るかったので、花山天皇が「バレるんじゃないだろうか。どうしよう」とおっしゃられました。それに対し、「そうは言ってもお辞めになることはできません。三種の神器をお渡ししてしまってますので」と粟田殿藤原道兼。蔵人として天皇にお仕えしていた)があわてて申し上げました。すでに皇太子に三種の神器をお渡ししてしまっていたのです。

明るい月光を眩しいとお考えになっている間に、月に叢雲がかかって、少し暗くなってきたので、天皇は「私の出家は成功するだろう」とおっしゃり、歩いて出て行かれました。しばらくして弘徽殿の女御のお手紙で、捨てずにとっておき、普段から目を通しておられたものを思い出して、「ちょっと待て」と取りに行こうとなさいました。すると粟田殿が、「どのようにお考えなのでございますか。ただ今を過ぎてしまっては、自然と不都合も生じてまいりましょう」と噓泣きをして引き留めます。

 

この後、安倍晴明天皇のご退位を占い、それを押しとどめようと式神を使役する場面が続くのですが、長くなるので省略します。

 

花山寺にご到着されて、ご落髪なされた後、粟田殿は「ちょっと抜けさせていただき父に変わりない姿を最後にお見せして、こうこうと事情を申し上げて、必ず帰ってまいります」と申されたので、法皇は「朕(ちん。皇帝・天皇の一人称)をだましたのか」とお泣きになりました。お可哀そうなこととなりました。日ごろは弟子としてお仕えしましょうと約束しておいて、しれっと嘘を申し上げる人の情の恐ろしさです。東三条殿粟田殿の父。藤原兼家)が息子が万が一に出家してしまうという可能性を考えて、しっかりとした事情のよく分かる氏の武者を護衛としてつけておられました。平安京内では隠れていて、鴨川を越えてから出てきました。寺では、もし強制して人が出家させるのではないかということで、一尺(30cm弱)の刀などを抜く様子で護衛していたということでした。

 

藤原道兼の厚顔無恥ぶりが伝わってきます。しかも罰が当たったのか、道兼は父の死後兄に先に関白位をとられてしまい、その後わずか数日間関白についただけで死去してしまったとのことです。明智光秀の「七日天下」ならぬ、「七日関白」と呼ばれているそうです。

ともあれ、こうして悲運をもった花山法皇がご出家なされたお寺ということで、現在は西国三十三所の番外札所となっているわけです。

元慶寺の見所

元慶寺の見所をご紹介します。

鐘楼門

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※鐘楼門

元慶寺鐘楼門です。江戸時代中期の寛政元(1789)年から寛政4(1792)年にかけて、妙法院宮みょうほういんのみや堯恭法親王ぎょうきょうほっしんのう真仁法親王まさひとほっしんのうのご遺志に従い、妙厳みょうごん亮雄恵宅りょうゆうけいたくが再興したそうです。

なお、鐘楼門の上には、菅原道真が勅命により元慶寺のために詠んだ漢詩が刻まれた梵鐘の三代目が再興されており、収められているそうです。

僧正遍照歌碑

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※僧正遍照歌碑

僧正遍照の歌碑です。境内入ってすぐ左側の、木々の間に存在します。百人一首にも納められている、「天つ風 雲の通ひ路 吹きとぢよ をとめの姿 しばしとどめむ」だと思います。「天つ風」は「天津かせ」と表記されているようです。

花山法皇御落飾道場の石碑

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※花山法皇御落飾道場の石碑

この地で、藤原道兼に騙されて花山法皇がご出家なされたわけです。

元慶寺のご詠歌

ご詠歌とは、花山法皇が各札所で詠まれた歌と伝えられていますが、番外札所はそうとは限らないようです。

まてといはば いともかしこし はなやまに

 しばしとなかん とりのねもがな

(待てといはば いとも畏し 花山に

   しばしと啼かん 鳥のねもがな)

漢字表記、歌の解釈は紀三井寺前貫主前田孝道*2によります。

この御詠歌は格調の高い、しかし、難解な御詠歌といわれています。「待てといはば」とは、待てとおっしゃるならばということですが、その後の「いとも畏し」という二の句から、おっしゃることを畏まって承らねばならない高位の方からのお言葉と知ることができます。 

この後、説明が続きますが、仏教的な意味合いに落とし込んでおられるため、歌の原義の解釈としてはかなり変わってきており、宗教的な解釈になっていますので、省略させていただきます。

実は、せんべいなどの和菓子を製造している長岡京小倉山荘のホームページ*3にこの歌の意味が掲載されています。

これによりますと、遍照僧正が住職を務めていた元慶寺宇多法皇が訪れになった際、法皇のお帰りの際に遍照が詠んだ歌であるとされます。『拾遺和歌集』に収められているようです。意味としては、法皇にお待ちくださいと言うのは畏れ多いことですが、「しばし」と鳴く鳥がいたらいいのになあ、といったところだそうです。

 

しかし、時代的には歌が詠まれた方が古いというものの、私たちからすれば、花山法皇に対して出家を「お待ちください」や「しばしお待ちください」と声をかけたくなってしまうような、そんなニュアンスが感じられます。

元慶寺のアクセス

京都市観光協会ホームページ「京都観光Navi」に詳しいアクセス情報が掲載されています。

ja.kyoto.travel

公共交通機関

京都市営地下鉄「御陵駅」下車。南へ徒歩約20分。

お車

名神高速道路「京都東IC」から西進。約10分。

駐車場あり。2台。無料。

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※元慶寺参道入口 駐車場はこの奥

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※元慶寺駐車場入口

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※元慶寺駐車場は11番と12番

元慶寺データ

ご本尊 :遍照僧正

宗派  :天台宗

霊場  :西国三十三所 番外札所

所在地 :〒607-8476 京都市山科区北花山河原町13

電話番号:075-581-0183

拝観時間:8:00~17:00

拝観料 :無料

 

第十四番 三井寺(園城寺) ◁ 番外 元慶寺 ▷ 第十五番 今熊野観音寺

南坊の巡礼記「元慶寺」(2021.4.7)

札所の順番としては、十四番の三井寺の次に打つべきお寺のようですが、大津市にある三つの札所、十二番正法寺、十三番石山寺、十四番三井寺を一日で回りたいと考えていたので、醍醐寺の後に訪れることにしました。醍醐寺からも車で15分ほどです。長谷寺法起院の順番も入れ替わってしまっていましたし、番外札所に関してはそんなに順番にこだわらなくてもいいでしょう。

スタンプを押してもらったJR六地蔵駅を後にし、住宅やスーパーが並ぶ府道118号線、川田道を北上します。この辺も古い町並みなので道がかなり細いところもあります。しかし、最後の最後はかなりキツイです。府道116号線、渋谷街道に入ってすぐに北に入るところがありますが、まずここが細い! ミニバンレベルだと入れないかもしれないくらいの細さです。

そこを入ってすぐに右側に駐車場の所在を示す案内板がありますが、その右に入るところがまた細い! けっこう慎重に曲がらないと、FITでも切り返しが必要なレベルで、厳しかったですね。その奥に10数台停まることができる民営の駐車場がありますが、11番と12番が元慶寺の駐車スペースです。

ほんの数分前に到着されたであろう30歳代くらいのご夫婦が11番に停めておられ、ご準備をされていました。私が12番に停めようとするとすぐに場所を譲ってくださいました。さすが巡礼の徒です。私もお礼を言って車を12番に停めます。これで元慶寺駐車スペースは満車になってしまいました。ご夫婦は笈摺ではなくきちんとした上下の白衣に、輪袈裟もつけておられます。ただ、菅笠金剛杖までは持っておられないご様子でした。まあ、ここは平地の住宅街の中のお寺ですので、必要ないのですが。ちなみにすべての札所を回りましたが、菅笠を被っていたのは私だけ、お杖は1人くらいお見かけしただけです。

先に行かれたご夫婦に続き、私も駐車場から山門へと向かいます。

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※山門の写真 なぜか傾いてしまう

私は重たくなるのでカメラは持たず、Google Pixel3a で写真を撮っています。大変キレイですが、撮る人の力量に問題ありです。Pixel3a は撮影時に画面に傾きまで教えてくれるのですが、それでも慌てて撮るのでこうなってしまいます。人がいないときを狙って焦って撮るからですね。

しかしこの山門前の道が極狭で、人が一人通れるギリギリくらいの幅なのですが、近所の方が抜け道のように使っておられるようで、自転車の方も通っていかれました。地元の方にとっては、京都の数多くあるお寺の一つ、といった位置づけなのかもしれません。

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※鐘楼門入ってすぐ左の様子

山門鐘楼門の形式でした。鐘楼門を入って左側を見ると、このようにいくつかの石碑が並んでいます。遍照僧正の歌碑もこの奥にありました。

境内は大変小ぢんまりしていて、この写真のすぐ右側に本堂などが並んでいます。納経所境内の一番奥の方にありました。「カラーの御影みえいをいただけますか?」と申し上げると、2種類あるとのことで、薬師如来さまか花山法皇さまか聞かれました。西国三十三所なので、花山法皇御影をいただきました。

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※今日のニャンコ 真ん中やや上の薄い茶色が体 顔が黒く影と一体化して分かりにくい

境内の東北隅の方に猫が移動していったので、写真を撮りましたが、うまく取れませんでした。どこ?という感じですね。

先程のご夫婦だけではなく、他にもちらほらと参拝者がいらっしゃいます。小さなお寺ですが、それだけ花山法皇のご遺徳を偲んで皆さんお参りされるのでしょう。

花山天皇が落髪されたときはもっと大きなお寺だったのでしょうが、今は住宅街のなかに溶け込むお寺になっています。しかし、悲運の法皇を懐かしむのにふさわしい雰囲気のお寺だと思います。

というわけで皆さんも! Let’s start the Pilgrimage West!

 

南坊の巡礼記「醍醐寺」(2021.4.7) ▷ 南坊の巡礼記「元慶寺」(2021.4.7)

南坊の巡礼記「元慶寺」(2021.4.7) ▷ 南坊の巡礼記「正法寺(岩間寺)」(2021.4.8)

 

最終更新:2021.5.27