西国お遍路“行雲流水”

西国三十三所や四国八十八ヶ所を雲のごとく水のごとく巡礼した記録

補陀落渡海の伝説 死と再生の熊野山・補陀洛山寺に行ってきました!

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補陀洛山寺

熊野三山の一つ那智山を構成するお寺の一つで、西国三十三所の第一番札所である青岸渡寺と管理者は同じです。また、開創も青岸渡寺と同じ裸形上人らぎょうしょうにんということで、とにかく青岸渡寺とは切っても切れない不可分のお寺であることは間違いなさそうです。

なお、このお寺も世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の一部を占めており、いただいた授与袋には「世界遺産 補陀洛渡海上人遺跡 補陀洛山寺」と書いてあります。

補陀洛山寺の巡礼情報

熊野三山の一つである那智山を考えたとき、那智の滝は真っ先に思いつくと思います。続いて、那智大社青岸渡寺でしょうか。とくに青岸渡寺三重塔那智の滝をバックに映えることから、この画像のイメージが強いように思います。

しかし、那智山を一つの霊場と考えたときには、この補陀洛山寺の持つ重要性は、無視することができません。ここでは、補陀洛山寺について説明していきます。

補陀洛山寺の縁起

補陀洛山寺はオリジナルのホームページを持っておられませんので、他の媒体の持つホームページから情報を集めることになります。そのなかで、補陀洛山寺の成立縁起を伝えてくれているのは、NPO法人熊野曼陀羅のホームページです。

このホームページでは、きわめて簡潔に補陀洛山寺の縁起が語られています。

 仁徳帝の御代にインドより渡来した裸形上人により開かれたと伝えられています。

実はこの縁起は、細部は異なるものの、時代・開創者など、青岸渡寺の縁起とまったく同じです。裸形上人が実在の人物がどうかは分かりませんが、この両寺の縁起がほぼ同じなのは、両寺がほぼ同時に、同じ人物によって創建されたことを示唆しているように思います。

補陀洛山寺の見所

三貌千手千眼観世音菩薩像

補陀洛山寺のご本尊で、高さは1.9メートル、平安時代後期作の香木立像で、国の重要文化財に指定されています。残念ながら、普段は拝見することができません。立派な厨子の中に納められています。

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※補陀洛山寺本堂

上述のNPO法人熊野曼荼羅のホームページでは、少しだけそのお姿を拝むことができます。本当に木造だ!という感じですが、小さい写真ながらも圧倒的な存在感があります。

本堂は1990年に再建された、室町時代様式の高床式四方流宝形型です。

補陀洛渡海船

このお寺の存在を象徴しているとも言うべきものが、この渡海船です。お寺の南には浜の宮海岸が広がっており、この浜から船を漕ぎ出したそうです。

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※渡海船(復元模型)

こんなに小さな船に30日分ほどの食糧を積み、観音さまのおわします補陀落(ポータラカ)を目指すとは、とても考えられないことです。実際、青岸渡寺高木亮英副住職(当時)も次のようにおっしゃっておられます*1

「物理的に考えるとナンセンスですが、宗教というのは心の内面の世界。観世音菩薩様の前に行きたいと思うのは、極めて純粋な気持ちだったのでしょう。」

平清盛の嫡孫である平維盛も、この補陀落渡海を行った人物として知られています。『平家物語』巻十*2、「熊野参詣の事」と「維盛入水の事」にその顛末が記されています。

あくれば本宮より船に乗り、新宮へぞ参られける。神の座を拝み給ふに、岩松高く聳えて、嵐妄想の夢を破り、流水清く流れて、浪塵埃の垢をすゝぐらんとも覚えたり。飛鳥の社伏し拝み、佐野の松原さし過ぎて、那智の御山に参り給ふ。三重に漲り落つる瀧の水、数千丈まで攀ぢ上り、観音の霊像は岩の上にあらはれて、補陀落山ともいひつべし。霞の底には法華読誦の聲聞ゆ。霊鷲山とも申しつべし。

那智山一帯が、当時の人々からまさに極楽浄土の一部のように思われていたことが分かります。補陀落山とは観音さまのいらっしゃるところ、霊鷲山とは『西遊記』ではお釈迦さまのいらっしゃるところです。

三つの御山の参詣、事故なう遂げ給ひしかば、濱の宮と申し奉る王子の御前より、一葉の船に棹して萬里の滄海に浮び給ふ。遥かの沖に山なりの島という所ありき。中将それに船漕ぎ寄せさせ、岸に上り、大きなる松の木を削って、泣く泣く名籍をぞ書きつけられける。「祖父太政大臣平の朝臣清盛公法名浄海、親父小松の内大臣の左大将重盛公法名浄蓮、三位の中将維盛法名浄圓、年二十七歳、寿永三年三月二十八日、那智の沖にて入水す」と書きつけて、又船に乗り、沖へぞ漕ぎ出で給ひける。

(中略)

中将然るべき善知識と思召し、忽ちに妄念を翻し、西方に向ひ手を合はせ、高聲に念仏百遍許り唱へ給ひて、南無と唱ふる聲共に、海にぞ飛び入り給ひける。

平維盛(文中では「中将」)が浜の宮海岸から海に漕ぎ出たことが書いてあり、最後に入水したことが語られています。『平家物語』にこれだけキーワードが出てきているくらいですから、この補陀落渡海伝説はかなり真実味をもって、当時の人々に信仰されていたのでしょう。

補陀洛山寺へのアクセス

一般社団法人那智勝浦観光機構のホームページにアクセス情報が掲載されています。

公共交通機関

JR「那智駅」下車徒歩3分

お車

那智勝浦新宮道路「那智勝浦IC」からすぐ

境内脇に駐車場あり。10数台。無料。

 

補陀洛山寺データ

ご本尊 :千手千眼観世音菩薩

宗派  :天台宗

霊場  :熊野曼陀羅20番

所在地 :〒649-5314

     和歌山県東牟婁郡那智勝浦町浜ノ宮348
電話番号:0735-52-2523

拝観時間:8:30~16:00

拝観料 :無料

南坊の巡礼記「補陀洛山寺」(2021.2.22)

2021年2月22日、世界遺産である那智山の一角、補陀洛山寺に行ってきました!

お天気もよく、2月ながらも南紀は暖かく、とても気持ちよくお参りができました!

このお寺は世界遺産に登録されていながら、それほど大勢の方が詰めかけるというわけではありませんので、ゆっくりとお参りすることができます。

前日に宿泊していたホテルサンライズ勝浦を8時30分ごろに出発、途中コンビニでいろいろと買い出しをしても、9時前には補陀洛山寺に到着しました。

駐車場は無料で停められます。ただ、「無断駐車お断り」と書いてあったので、境内脇の畑で農作業をしておられるお母さまにお断りして、停めさせてもらいました。とても快くご承諾いただきました。山門はぱっと見た感じないようでした。

本堂の手前にあった補陀落渡海の船の模型を見ます。ボートよりは大きいものの、ヨットよりは小さいように思います。この船で太平洋に漕ぎ出したかと思うと、とても心細かったことでしょう。この船の10倍の大きさはあろうかというオスマン帝国(トルコ)の軍艦エルトゥールル号が1890年に近くの紀伊大島で遭難して500名以上の犠牲者を出しています。要するに、荒れる海だということですね。

本堂に入りお参りさせていただきます。納経所本堂内の左にあります。残念ながらコロナ禍のため、その場で納経帳に書くということはしておられないことから、すでに書いてあったものに日付を書いていただきます。

一つ気になったのは、納札入れに、よく分かっていない人がゴミを入れていたことです。これは作法をきちんと分かっていない人がやりがちのことで、四国でも杖立てにゴミを入れている人がいました(いずれもその場で見たわけではなく、ゴミが入っていることからの類推)。せっかくお寺に来てお参りをしているわけですから、ゴミはすべて持ち帰りましょう。

しかし納経所のお父さまはとても親切な方で、いろいろとお寺のこと、那智山のことを説明してくださいました。

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※熊野参詣曼荼羅(出典:Wikipedia

熊野参詣曼荼羅の模写があり、その内容について教えていただきました。それによると、曼荼羅の左下から右上にかけては「生」を表す道が続いており、一方で左上から右下にかけては「死」を表す道が続いている、ということです。確かに、月も右上が満月、左上が新月を表していますし、やはり熊野那智山は「死」「再生」を象徴する霊場なんですね。右下が例の補陀落渡海伝説です。ご説明によると、描かれているのは平維盛だということでした。

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※熊野参詣曼荼羅読み解き図

NHKの「ブラタモリ」で紹介されてから参拝者も増えたそうですが、ありがたいことにこの日は参拝者が私だけでしたので、お寺のお父さまを独占させていただきました。とても物腰も柔らかく、丁寧な方でした。

この日は一番札所青岸渡寺も参拝する予定ですので、30分程の滞在で出発させていただきました。もう少し勉強してから、また来たいと思います。ご本尊を拝めるときに来れたらいいですね。

 

南坊の巡礼記「高野山金剛峯寺」(2021.2.21) ◁ 南坊の巡礼記「補陀洛山寺」(2021.2.22)

南坊の巡礼記「補陀洛山寺」(2021.2.22) ▷ 南坊の巡礼記「青岸渡寺」(2021.2.22)

 

最終更新:2021.5.27