西国お遍路“行雲流水”

西国三十三所や四国八十八ヶ所を雲のごとく水のごとく巡礼した記録

新春特別企画! 西国三十三所×街道を行くぞ!コラボ 2023年 癸卯 西国街道を通って西国三十三所第二十二番総持寺に初詣に行ってきました!

総持寺遠景

2023年、新年明けましておめでとうございます!

昨年は専任となったことから、仕事が多忙を極め、あまりブログの更新ができませんでした。忙しさを言い訳にしていたように思い、反省しきりです。

新年1発目の記事は、前年と同様初詣の記事です。和歌山から転居して以来、恒例となりました総持寺への初詣に行ってまいりました。その様子をレポートしたいと思います。

西国三十三所×街道を行くぞ!コラボ企画 2023年 初詣 総持寺

3回目となりました総持寺への初詣ですが、昨年までと違う点があります。7月に同じ市内で転居したことにより、新住居からだと総持寺がかなり遠くなってしまったのです。しかし、好都合?なことに新住居は西国街道の辺にあります。

そこで、いっそのこと初詣と「街道を行くぞ!」シリーズをコラボさせてしまうことにしました。いいですね、セルフコラボ。完全な自己満足です。

というわけで、一部西国街道を通って、自宅から総持寺を目指します。

西国街道に関しては、大阪府のホームページ「歴史街道ウォーキングマップ」から、各歴史街道のマップがダウンロードできます。

www.pref.osaka.lg.jp(2023.1.3閲覧)

上記サイトからマップをダウンロードしていただき、参考にしていただければ、街道歩きがスムーズに運ぶことでしょう。

また、NPO法人西国古道ウォーキングサポートのホームページには、各霊場間の巡礼路が掲載されています。

www.saigokuws.org(2023.1.3閲覧)

総持寺西国街道から少し離れた南の方にありますが、途中の巡礼路は西国街道と一致しています。ということで、将来歩いて西国三十三所を巡礼する際の下見にもなりますね。

西国街道 新豊川橋から太田東芝児童遊園まで

新豊川橋を10時15分に出発し、太田東芝児童遊園には11時ちょうどに到着しました。Googleマップより6分ほど時間がかかっています。しかし、道中写真を撮りながらで、また信号にもしばしば引っかかっていたことを思うと、普通のペースだと思います。

この日は朝から曇っていて、降水確率も10パーセントほどありました。傘を持っていくかどうか悩んだのですが、出発直前に日が射してきたことと、荷物を増やしたくないということから、傘なしで出発します。

今回もNECのLAVIE T0755/CASを旅のお供として使用しました。最初うろ覚えでスタートしようとして、新豊川橋の手前を東北方向に旅立とうとしてしまいました。

※新豊川橋西側の大阪王将 茨木豊原店

何か違うような気がして、地図を見直すと橋の東側から西国街道に入れることが分かりました。というわけで、橋を渡ります。

※新豊川橋

橋を渡ると、すぐ左側が西国街道の入口になっています。

※西国街道 新豊川橋東側入口

かなり昔に整備した道標が立っていました。ここで10時16分です。

入ってすぐ左側に、西国街道の説明板がありました。

※西国街道説明板

街道に入ってすぐの様子が、こちらです。やはり旧家が多いように思います。ここで10時18分でした。

※西国街道の様子

街道に入ってから270メートルほどのところに、古そうな結界石のようなものが立っていました。

※結界石?

「南無阿弥陀佛法界」と書いてあるように思います。水害か何かがあったときの犠牲者を悼んでいるものなのかもしれません。ここで、10時20分でした。

結界石から70メートルほど進むと、勝尾寺川の川沿いに出ました。なかなかいい景色です。

※勝尾寺川

さらに400メートルほど進むと、中河原の道標に到着しました。ここで10時25分でした。

※中河原の道標

ちょっとした休憩スポットになっており、ベンチなどもあります。ほとんど休憩しない主義の私は、もちろん休みませんでした。

また、中川清秀の由緒地でもあるようです。

※中川清秀由緒地の石碑と中河原の道標の説明板

※中河原の道標の説明板

どうやら、戦国時代茨木城主だった中川清秀公の出生地のようです。 山田芳裕さんの『へうげもの』(講談社)では、主人公古田左介の盟友として活躍しますね。史実では、賤ケ岳の戦いで戦死しました。

ここには、より古い大きな説明板もありました。

※中河原の説明板

西国三十三所の巡礼路であることも書かれています。

なお、道標自体は割と新しく建てられたようで、明治30(1897)年と書かれています。

※中河原の道標の北面

※中河原の道標の南面

南面には、「堺九里、住吉七里、大坂五里、吹田三里、茨木驛」と書かれています。「茨木驛」の下にも、距離表示があったのかもしれません。鉄道の茨木駅は明治9(1876)年に開業していますので、この「茨木驛」は鉄道の駅を指すと思われます。

※中河原の道標の西面

西面には、「姫路廿三里、神戸十一里、池田三里、岡三里、箕面山二里」と書かれています。「岡」とは、現豊中市の岡町を指しているように思います。

※中河原の道標の東面

東面には、「大津十一里、京都七里、八幡五里、山崎三里廿町、芥川一里廿町」と書かれています。

では、私も大津方面を目指して歩きだしましょう。

中河原の道標から400メートル進むと、幣久良橋てくらばしです。10時31分になっていました。

※幣久良橋

橋の北側に歩道がありますが、南側には人間専用の小さな橋がありました。私はそちらを渡りました。

※幣久良橋から下流を望む

幣久良橋から350メートルほど東へ進むと、茨木市立耳原小学校の北東端に出ました。キレイな小学校です。

※耳原小学校 北東端から南西を向いて撮影

小学校を過ぎてすぐの南側に、Googleマップでは「鶴亀地蔵尊」と呼称される小さな祠がありました。お地蔵さまが祀られているようです。

そこから100メートルほどで、安養寺に到着しました。

※安養寺

左手前の石に、「浄土宗 蓮華山 安養寺」と書いてあります。ここで10時38分でした。檀家の方やご近所の方は、ここで初詣をされるのでしょうね。しかし、西国三十三所札所会の公認先達である私は、第二十二番札所の総持寺まで行きます。

安養寺から160メートルほどで、今度は法華寺が出てきました。

※法華寺

さらに120メートルほどで、今度は阿為神社御旅所が出てきました。10時42分です。なお、安養寺法華寺阿為神社御旅所のいずれも街道の北側にあります。

※阿為神社御旅所

阿為神社の本社は、ここから1.8kmほど北にいったところにあるようです。この辺の「安威」という地名は、古くは「阿為」と書いたのでしょう。

阿為神社御旅所の説明板もありましたが、劣化が激しくて読みにくいですね。

※阿為神社御旅所説明板

説明板にもあるとおり、御旅所とは、御神輿が一時的に留まるところを指します。

ここから50メートルほどで、「耳原交番北」の交差点に出ます。ここでは、西国街道と府道46号茨木亀岡線が交わっています。私は府道を横断し、西国街道を東進しました。

渡ってすぐのところは、かなり道が細くなっています。10時44分でした。

※府道46号線を東に入ってすぐの西国街道

車を避けながら歩いていきます。歩いているとしばしばあるのですが、人のかなり近くをかすめていく車がいるんですよね。これは、威嚇するためにわざとやっているのか、それとも運転技量がただ単に下手なだけなのかは分かりませんが、いずれにしてもしょうもない人間だということを露呈するだけなので、やめておいた方がいいと思いますよ。

古い道標もありました。奥に見えているのは、名神高速道路の高架です。

※古い道標

右に行くと、茨木停車場に行けると書いてあるように思います。左は「石川 見山」と書いてあるようです。茨木市北部の「見山」を指していることは分かりますが、「石川」という地名はよく分かりません。

さらに街道を直進し、名神高速道路の高架までやって来ました。10時46分です。

※名神高速道路の高架

ここは高架下をくぐって、南側に出なければなりません。

※名神高速道路の高架下

高架下をくぐると、斜めの十字路になっています。信号を渡り、直進します。

※高架下くぐってすぐの交差点

左ではなく、奥側の道へと進みます。すると、50メートルほどでまた橋が出てきました。今度も、人間専用の橋です。自転車は通れます。どうやら太田橋というようです。ここで10時49分でした。

※太田橋

※太田橋から下流側を望む

橋を渡ると、十字路になっています。直進です。

※太田橋を渡ってすぐの十字路

実は週2くらいで買い物に行っているイオンタウン茨木太田がこの十字路の右側、安威川沿いの道を下っていくとあるのですが、この辺はなかなか危ないのですよ。普段車で通っているときは、気をつけておかないとあちこちから自転車が来るのです。

直進してさらに奥へと進みます。左に上がると、名神高速道路に並行している車道の方に出ます。

※西国街道は奥へとつづく

入ってすぐのところに道標があり、左側には太田不動尊が出てきました。10時52分です。

※西国街道の道標と太田不動尊

※西国街道説明板

※太田不動尊

太田不動尊の敷地内に入ってみると、古い石碑のようなものがありました。

※太田橋の欄干?

どうも「太田橋」と書いてあるように思います。昔の石造りの橋の欄干だったのかもしれません。

太田不動尊を出て、歩きを再開します。この辺の街道沿いも、旧家が多くあるように思います。

※西国街道沿いの旧家 太田付近

太田不動尊から約300メートルほど進むと、「太田東芝町」の交差点に出ます。ここから先は、謎の登りとなっています。アスファルトで固められているので、昔の地形が想像できないのが難点ですね。西国街道も登っていたのでしょうか。

信号を渡ってすぐのところに、雲見坂の道標がありました。

※雲見坂の道標

「雲見坂」と名づけられているくらいですから、昔から街道は登り坂になっていたのでしょう。残念ながら道路の南側を歩いていたため、道標を近くで写真に撮ることができませんでした。帰りに通るかな?と思っていたら、帰りはこちらを通りませんでした。

道路を渡ってしまおうと思ったのですが、結構な高さの柵で歩道が守られていまして、無理だったんですね。おそらく、下りでスピードを出す危ない車がいたのでしょう。それで、歩行者保護のために柵が建てられたのだと思います。

※太田神社参道

道標の東側、少し歩いたところに脇に入る道がありました。安楽寺の案内板が立っているので安楽寺の参道かな?と思ったら、石灯籠には太田神社と書いてあります。地図で確認しても、太田神社の参道のようです。

右側の大きな倉庫のような建物を横目に見ながら、雲見坂を登りました。11時ちょうど、太田東芝児童遊園に到着です。

※太田東芝児童遊園

ただ、残念ながら改修?工事中のようで、中に入ることはできませんでした。休憩するつもりはありませんでしたが、外から様子をうかがうと、何か案内板のようなものが立っているのが気になりました。

北側に回り、フェンスの上に手を伸ばしてスマホで撮影してみました。

※太田東芝遊園の内部

どうやら、二つの案内板には遊園の利用方法、遊ぶときの注意などが書かれていたようです。

ここで、いったん西国街道の旅は終了です。

太田東芝遊園から第二十二番札所 総持寺まで

太田東芝遊園を11時1分に出発して、第二十二番札所総持寺には11時31分には到着しました。途中、少し道を間違えたこと、セブンイレブン茨木三島町店に寄っていたことなどを考えると、むしろ速いと思います。

遊園の北側、道を挟んで反対側には道標がありました。新しいものです。

※太田廃寺への道標

実は西国街道を歩き、総持寺へと参拝するついでに、この太田廃寺の遺跡を見ていこうと思っていました。ここを南に向かって入ります。太田東芝遊園沿いに直角に曲がる感じです。

こちらの方が高いので、謎の倉庫がよく見えます。

※謎の倉庫 

Googleマップによると、GAVAホールトランクス株式会社太田東芝町倉庫のようです。

南に入ってから190メートルほどで、太田廃寺跡に到着しました。ちょうど向かい側、倉庫の南側には、追手門学院中学校・高等学校があります。11時3分です。

※追手門学院中学校・高等学校 Googleマップのクチコミは☆2.2

この東側にあるのが、太田廃寺跡です。

※太田廃寺跡

※太田廃寺跡説明板

家を建てようと思って遺跡が出てきたら大変ですね。下手をすると市や府に接収されるかもしれません。おそらく総持寺よりも古いお寺だったのでしょう。

この後、Googleマップの案内のとおりに総持寺を目指そうと思ったのですが、そのまま南下すると私有地に入るようでした。あきらめて、追手門学院大学の敷地の南側の通りを、西に進みました。

※藍野福祉会の横を南下すると途中で私有地に入る

※この奥が私有地になっている

戻ってから100メートルほどで、バスの通る大きな道に出ます。ここで左折して、南下を再開しました。

右側には、西河原公園が出てきます。それを右手に眺めながら南下します。

300メートルほど南下すると、国道171号線にぶち当たりました。「西河原」交差点です。

私は東側の歩道を南下していたのですが、東側には横断歩道がありません。国道を渡る横断歩道は西側にしかないんですね。で、その代わりに何があるかと言うと、歩いている人には厄介なことこの上ない、歩道橋です。

ボロ過ぎて壊れないのかな?と不安になりながら、歩道橋を渡りました。11時17分になっていました。

※「西河原」交差点の歩道橋

鉄の部分は錆びさびです。

歩道橋を渡ってから100メートルほどで疣水いぼみず神社が出てきます。正式名称は磯良神社というようですが、近鉄バスのバス停も「疣水神社前」となっています。

白洲正子さんの『西国巡礼』*1では、この疣水神社はかつて寺の境内に祀ってあったように見える、とされています。西国三十三所の霊場であることを思えば、総持寺はそれくらいの規模はあっても当然のように思います。しかし、白洲さんもおっしゃっているとおり、「こう切りこまざかれたのでは、元の姿に返してみる由もない」ですね。まったく、元の姿が想像もつきません。

ちなみに、行きは車で参拝に来られていた方も多く、写真を撮ることができませんでした。

疣水神社前から280メートルほど歩くと、セブンイレブン茨木三島町店が出てきました。ここで、飲み物を買いました。

さて、ここからJRの京都線の高架までは180メートルくらいです。実は西国古道ウォーキングマップの地図によると、高架下をくぐったらすぐに左折し、90メートルほど進んで茨木病院の前を東に歩いて山門前に出るのが正しい巡礼路のようです。これは、西国三十三所第二十九番札所松尾寺の前住職松尾心空師が中心となってアリの会が編集された、『西国三十三所古道徒歩巡礼地図』*2にも掲載されているとおりです。

しかし、私は府道126号総持寺停車場線から入ったところのヌケ感が好きなので、ここは少し遠回りをします。

そのまま府道を直進し、「総持寺交番前」交差点をさらに南下します。

※大阪行岡医療大学

ちょうど二月ほど前に、この大学の入試担当の方とお会いした記憶があります。実はこんなに近くにあるということを、恥ずかしながら存じ上げていませんでした。

交差点から170メートルくらい進みます。こんなところにファミリーマートがあったんだなと新たな発見に驚きつつ、総持寺への入口へとたどり着きました。車もここから入れるように、案内板も出されています。

※府道から入ってすぐの総持寺遠景

うーん、天気が悪過ぎますね。実際、大師堂での参拝途中に雨が降ってきました。まあ、この段階ではまだそれを知りません。歩いていて日も射していたため暑く、ダウンジャケットを脱いで手に持っていました。

というわけで、11時31分ごろ、総持寺に到着しました。

南坊の巡礼記「総持寺 初詣」(2023.1.2)

さあ、山門をくぐり参拝します。それにしても、人が多いです。

手水場では、子ども連れがモタモタしています。子どもがモタモタするのは仕方ないのですが、親が少し気を遣ってくれたらな、と思いますよね。手を洗える場所は2か所あり、彼らの一団が両方を占領していました。それは仕方のないこととして、その一団の最後の子どもの手を、手前側で母親が洗わせていたのです。奥が空いていたのですから、奥で洗ってくれていたら、私をはじめ多くの方の並ぶ時間が減ったと思います。

まあ、ぼやいても仕方ありません。山門をくぐり、中に入ります。いやいや、大盛況ですね。

※総持寺境内の様子

マスクもされているので、この程度なら載せても大丈夫でしょう。

本堂でも並びます。私はお賽銭を入れて参拝した後、隅っこで読経させてもらいました。今年初めての読経です。この日は割といい声が出ました。

その後、大師堂でも参拝したのですが、雨が降ってきたというのは上述のとおりです。困ったなあと思いながら、高野山奥之院遙拝所でも読経を済ませます。

その後、庫裏方丈か呼び方が分かりませんが、その建物に入り、例年購入している牛王加持の護符を購入します。これは目の前でお坊さまが加持してくださるので、とてもありがたいものです。

その後、納経所でおみくじを買うことにしました。昨年は大吉でしたが、今年はどうでしょうか。昨年と同じ、亀おみくじを買います。

また、納経所で干支の卯の土鈴を売っていました。ついつい欲しくなり、これも購入しました。以下が、それらの品々です。

※左から牛王加持の護符、亀おみくじ、干支の土鈴とその箱

そして、おみくじの結果を発表しておきましょう!

何と……大吉でした! 昨年につづき、2年連続の大吉です。おみくじで大吉を引くことがあまりないたちなので、2年連続というのは初めてかもしれません。今年も良いことが起こりそうな気がします。

納経所から出ると、幸いなことに雨が止んでいました。お寺の詳しいレポートはすでにやっているので、この日はもう帰ることにしましょう。

帰り道

おそらく11時50分ごろに総持寺を出発して、13時5分ごろに新豊川橋に到着しました。Googleマップよりもかなり時間がかかっていますが、イオンタウン茨木太田で昼食を食べていたので、それを考えると速いと思います。

行きとは異なり、帰りは北にある東門から外に出ました。ここから出ると、高架下までは290メートルほどしかありません。行きに通ったルートよりも、200メートル以上ショートカットできます。

ちょっと何時に総持寺を出たのか正確な時間は分かりませんが、疣水神社の前まで戻ってきたのが11時58分でした。

※疣水神社前

帰りは、府道の西側の歩道を北上していました。ですから、この後の国道171号線との交差点では、横断歩道を渡ることになります。横断歩道を渡ってすぐのところ、「西河原」交差点の西北にあるのが、新屋坐天照御魂神社です。ここで12時ちょうどでした。

※新屋坐天照御魂神社

この境内はひっそりとしていて、誰もいないと思っていたら、奥の方に母娘らしき2人がいました。遠目にしか見ていませんが、娘さんの方はご朱印などを集めてそうな感じの方でした。

※新屋坐天照御魂神社の説明板

何て読むのかな?と思っていましたが、「にいやにいますあまてるみたまじんじゃ」だそうです。「坐」だけで「います」と読むとは、名詞なのに動詞ですね。いや、動詞なのに名詞かな?

この後、交差点から450メートルほど北上し、イオンタウン茨木太田に向かいました。トイレをお借りし、また、昼食を食べるためです。

お昼は軽く、鶴丸饂飩本舗で食べました。この日は夜を実家で食べることになっていたので、ご馳走が並ぶと分かっていたからです。

30分も滞在していなかったと思います。食べる時間よりも、ユニクロのレジに並んでいた時間の方が長かったかもしれません。ユニクロはイオンモールに入っていることも多いのに、なぜかWAONを冷遇しています。有人の別レジ対応になっており、しかも先の人がかなり長く、だいぶ待たされてしまいました。しかもその後、それの対応をしていた店員さんがどこかへ行ってしまい、さらにタイムラグが生じるという……。こういうのって、微妙に傷つくんですよね。私が避けられているような気がして……。

独りのおじさんというのは、職場を出るとなかなかまともに対応をしてもらえないような気がします。動物行動学的に見ると、歳をとったオスというのは有益なものではなく、むしろ有害なものですからね。女性は本能的に独りのおじさんを警戒するのではないでしょうか。

イオンタウン茨木太田のすぐ北側には、太田城跡があります。ここで12時30分でした。

※太田城跡 通りから中に入り西向きに撮影

※太田城跡説明板

太田城とは、平安時代末期に建てられた平城のようです。

さあ、西国街道に戻りましょう。イオンタウン茨木太田の敷地の北西端から290メートル北上すれば、西国街道太田橋に出ます。そこから、今度は西を向いて西国街道を進みました。

行きに見たところは、とくに目を留めずにどんどん進みます。太田橋を渡ってから1.1kmほど街道を西下し、幣久良橋のたもとまでやって来ました。ここで、ある発見をします。

白井河原合戦跡です。

※白井河原合戦跡

※白井河原合戦跡の説明板

何でも、中川清秀茨木城主になるにあたり、相当重要だった戦いのようです。細かいことは省略します。

それにしても、これなんですよね。行きは気づかない向きにこの説明板が建てられていたのです。ですから、帰りも同じ道を通ることによって、新たな発見ができるのです。面倒ではありますが、往復することによって初めて見えてくるものがあるのです。

最後に、幣久良橋を渡りながら撮った、上流側の様子の写真をアップしておきます。

※幣久良橋から上流側を望む

ここで12時51分でした。

この後、ひたすら西国街道を西に進み、新豊川橋まで帰ってきました。おそらく13時5分ごろだったと思います。

ASUS VivoWatch BP(HC-A04)によると歩いた距離はたったの12.0km、歩数は17,324歩、消費カロリーは824kcalだったようです。歩き遍路をやっていた間はこの3倍近くは歩いていたわけですから、たいした距離ではなかったですね。

ただ、最近はあまり歩いていなかったので、結構足に来ていました。しかし、朝から頑張って歩き、西国三十三所の札所に初詣ができたので、充実した時間だったと思います。

というわけで皆さんも! Let’s start the Pilgrimage West!!

*1:白洲正子『西国巡礼』講談社(1999)

*2:アリの会編 松尾心空発行『西国三十三所古道徒歩巡礼地図』西国第二十九番松尾寺(2000)