
四国八十八ヶ所第57番札所栄福寺のご住職白川密成師の『マイ遍路』を出版した新潮新書から、新しいお遍路の本が出ました! その名も、『私の同行二人―人生の四国遍路―』です。内容は、女性俳人の第一人者である、黛まどか先生の歩き遍路体験記となっています。
何と、黛先生は人生で2回目の歩き遍路だそうで、1回目の歩き遍路の模様は中公新書クラレの『奇跡の四国遍路』(2018)として上梓されています。
今回は、2回目の歩き遍路ということで、別格20霊場も巡礼しておられます。
それでは、早速レポートしていきましょう。
黛まどか『私の同行二人―人生の四国遍路―』読書レポート
今回の黛先生のお遍路は、2023年の9月17日からスタートして、1回の中断をはさんで11月30日にゴールした秋遍路となっています。とはいうものの、ここ数年の秋は暑いですので、前半は暑さとの戦いがつづいています。しかし、終盤は一転して寒さとの戦いになっていました。四国別格二十霊場第13番霊場の仙龍寺への山道では雪が降り出すなど、夏・秋・冬を体験したお遍路だったようです。身体的にはつらかったように思えますが、「計らい」のような邂逅を繰り返され、精神面ではある種の「悟り」を開かれたのではないかと思いました。
本について
書誌情報
著者 :黛まどかまゆずみ・まどか
読み仮名 :ワタシノドウギョウニニンジンセイノシコクヘンロ
シリーズ名:新潮新書
装幀 :新潮社装幀室/デザイン
発行形態 :新書、電子書籍
判型 :新潮新書
頁数 :272ページ
ISBN :978-4-10-611073-3
C-CODE :0226
整理番号 :1073
ジャンル :歴史・地理・旅行記、旅行・紀行
定価 :1,078円
電子書籍 価格 :1,078円
電子書籍 配信開始日:2025/01/17
著者プロフィール
神奈川県生まれ。俳人。「B面の夏」50句で第40回角川俳句賞奨励賞。スペイン・サンティアゴ巡礼道、韓国プサン─ソウル、四国遍路88ヶ所などを踏破。「歩いて詠む・歩いて書く」ことをライフワークとしている。句集『北落師門』、随筆『暮らしの中の二十四節気』など著書多数。
※株式会社新潮社ホームページより引用*1
紹介
一度は父のため、二度は母のため……発心の阿波から修行の土佐、菩提の伊予から涅槃の讃岐へ、歩き遍路はただ歩く。30度を超える連日の猛暑に土砂降りの雨、にわかに降りだした雪、転倒によるケガや山中での道迷いなど相次ぐアクシデントに見舞われながらも、またふたたび歩き出す。自身の半生を振り返りながら、数知れない巡礼者の悲しみとともに巡る一〇八札所・1600キロの秋の遍路道、結願までの同行二人。
※株式会社新潮社ホームページより引用*2
本を読んで
本を読んで、思ったところを書いていきます。
歩き遍路実行程表(ネタバレあり)
黛まどか先生の歩き遍路の実行程表をここに掲載します。
・歩いた時間・距離がほとんど不明のため、記載しておりません。
・宿欄ですが、書中に名称が明記されているものは表にも同様に記載しています。分からないものに関しては、分かる限りの情報を( )内に記載しています。宿についてまったく言及がない場合は、「?」で記しています。
・なお、行程表は『私の同行二人―人生の四国遍路―』の記述を読み取って作成していますので、誤りが含まれている場合があります。




純粋な感想(ネタバレもあるかも)
まず、端的に感想を書きます。
はっきり言って、感動しました。
電車の中で読んでいたのですが、人前であるにも関わらず、不覚にも何度か涙がこぼれそうになったくらいです。それぐらい、感動します。
さすがは俳人の黛先生だけあって、感性が素晴らしいんですね。また、自然だけではなく、人々への愛情も非常に深いのです。だからこそなのでしょうが、奇跡のような邂逅が何度も書中で見られます。
また、2020年に亡くなられたお父さまへの愛情がとても感じられます。お父さまは俳人の黛執先生で、黛先生ご自身の俳句だけでなく、お父さまの俳句も随所に引用しておられます。それだけではありません。黛先生は、旅の随所でお父さまのことを感じながら日々を過ごしておられるのです。
私も今年父を亡くしましたが、正直申し上げて、黛先生と比べると自分の薄情さを恥じ入るばかりです。父のことを思い返さないわけではありませんが、黛先生とは比べものにもなりません。本当に、愛情が深い方だということが伝わってきます。
お遍路開始11日目の朝の様子を引用しましょう。
翌朝は五時起床。キッチンでコーヒーとパンの朝食を済ませ部屋に戻ると、リュックに小さな蜘蛛が這っていた。
父が亡くなった後、母と私の前に小さな蜘蛛が現れるようになった。最初に気づいたのは葬儀の翌朝だった。遺影の胸に小さな蜘蛛がいるのを私が見つけた。
母にそのことを告げると、夜になって食卓の椅子に座っていた母が私を呼び止めた。「遺影にいた蜘蛛ってこれかしら?」母の方に向かって小さな蜘蛛が歩んでいた。
私が近づくと、今度は向きを百八十度変えて私の方にまっすぐ歩きはじめた。次の日には骨壺の上にいた。蜘蛛はしばらく祭壇の周辺を離れず、やがて父の書斎や母の部屋に現れるようになった。父が蜘蛛に姿を変えて「ここにいるよ」と呼びかけてくれているようだった。
蜘蛛はしばらくリュックの上を這うと、ウエストポーチに飛び移った。
黛先生の繊細な感性が伝わってきます。どちらかと言うと嫌われものの小さな蜘蛛の様子を見て、父親が今でも寄り添ってくれているのではないか、と感じておられるわけです。
また、その翌日の夜は中秋の名月でした。
日盛りを無我夢中で歩いているうちに今日の宿「徳増」に到着した。前回の遍路でも二度泊まった宿で、おばあちゃんの手料理が美味しくファンが多い。海が目の前に広がる徳増で中秋の名月を迎えるとはなんという幸運だろう。今夜は月が見えるでしょうかね? と尋ねると、夕方は晴予報だったのでたぶん大丈夫だと思う、と三代目のご主人。部屋は海側だった。リュックを置き休んでいると、窓の隅に小さな蜘蛛を見つけた。
ここでも蜘蛛が登場します。お父さまとの思い出を振り返る伏線になっているわけです。その後、3年前の中秋の名月の日に、末期がんのお父さまを妹さんと協力して車いすごと2階に運び、共に月を見たエピソードをつづられます。
五分ほどだが三人で月を愛でた。いや私は月は見ていなかった。月を眺める父の背中をこの目に焼き付けようとただただ見つめ続けた。
父はたちどころに名月十句を詠み、私と妹を驚かせた。
この後、黛先生はお父さまの句を5句、載せておられます。載せておられる俳句のうち、最後に載せられている俳句を引用しましょう。
月待つもつひの二十日となりにけり
「つひ」というのは「終」ということで、死期を覚られていたのでしょう。この日のことを黛先生は次のような俳句で描写しておられます。
今生の月を見てゐる背中かな まどか
お父さまとの、最後のひと時を大切に過ごされていたことが分かります。
この本の中で、一番黛先生の感傷が深くなっている箇所も、やはりお父さまとの思い出をつづる場面です。ちょうどお父さまの命日、黛執先生の秋水忌(※10月21日)の日の様子を書いておられる中で、感情があふれ出ておられます。
この日は、お仕事の関係でいったん黛先生が四国を離れられる日でした。そして、お遍路で何日かを共に過ごしたスーザンというオランダの女性とのお別れを惜しむ日でもありました。
お寺は、別格6番霊場の龍光院を訪問されます。スーザンの「境内に“バショウ”という俳人の句碑があるらしいの」という言葉を聞き、どの俳句だろうと考えを巡らせながら歩かれました。
お寺で納経を済ませた後、スーザンが句碑らしきものを発見します。
「バショウの句碑ってこれかしら?」スーザンに呼ばれて行ってみると、梅の木の前に古い石碑があった。「父」という一字が目に飛び込んできた。あまりの驚きで声にならない。その他の文字は摩耗していてすぐには読めなかった。
父母のしきりに恋し雉の声 松尾芭蕉
この句だったか……。高野山に泊まった芭蕉が、雉の声を聞いて故郷の父母を偲び詠んだ句だ。芭蕉は高野山を訪れる前の月に故郷伊賀上野に帰り、父の三十三回忌の法要に出た。母は五年前に他界。この句は、行基の歌「山鳥のほろほろと鳴く声聞けば父かとぞ思ふ母かとぞ思ふ」を本歌取りしている。涙がとめどもなく流れた。時代を超えて父母への思慕に変わりはない。
このような偶然があるのでしょうか。むしろ、偶然というよりは、黛先生の感度が非常に高まっているからこそ、この句碑を見ることになったのだと思います。スーザンが友人から聞いてバショウの句碑の存在を知ったことも、芭蕉のこの句の碑がこの龍光院にあったことも、もはや必然のように感じられます。
その後、スーザンとランチを取り、お別れをしてホテルにチェックインしてからも、思いもかけない偶然に見舞われます。少し長いのですが、この本の中で一番感動的な場面ですので、引用したいと思います。
ホテルにチェックインし、部屋に入ってテレビのスイッチを入れると、外国映画を放送していた。タイトルは「フラッグ・デイ 父を想う日」だった。窓の外では宇和島の町が夕日に染まっていた。宇和島城の上に半月に近い夕月が上がっている。夕映えの町を見つめるうちに、いつしか父が亡くなった日のことをなぞっていた。
当時私はレギュラーのテレビ番組を持っていて、番組の俳句の締め切りが迫っていた。父の容態が良くないことはわかっていたので、早く俳句を提出してしまいたかった。最期のときを父の傍で過ごすために。
「できた!」そう声を上げて、父のベッドのところへ行くと、父の呼吸が死期が近いことを示す下顎呼吸に変わっていた。慌てて妹を起こし、訪問看護師や医師に連絡をした。私は父に必死で呼びかけ感謝の言葉を伝えた。美味しい手料理をたくさん作ってくれたこと、数えきれないほど送り迎えをしてくれたこと、俳句や文章の書き方を教えてくれたこと、こんなに愛してくれたこと……。
それから五分も経たないうちに父は息を引き取った。
「きっとお姉ちゃんの俳句ができるのを待ってくれていたんだよ」と妹は言ってくれた。が、なぜあの時間傍に付いていてやらなかったのかずっと自分を責めている。幼かった頃、私が眠りにつくまで抱きながら子守歌を歌ってくれたように、父の傍にいて手や顔をさすってやりたかった。なぜ私は俳句など作っていたのだろう。
この後も感動的な文章がつづいているのですが、ぜひみなさん、ご自身の目でお読みになっていただきたいと思います。
巡礼者目線の感想(ネタバレあり)
黛先生はお父さまのご供養の意味もあって今回のお遍路を回っておられますが、一方でやはりお遍路らしい出会いに満ちた旅でもありました。私が巡礼した時はコロナ禍の真夏で、ほとんど歩き遍路がいなかったのですが、黛先生の今回のお遍路は2023年の秋です。本の中では、とくに外国人のお遍路さんとの出会いがたくさん描かれています。
上述のスーザンはとくに黛先生と考え方やものの感じ方が似ていたようで、「姉妹のよう」ともご自身で描写しておられます。また、巻末の特別献辞にもお名前を載せておられるほどですから、余程深い関係性を築けたのだろうと窺えます。
それにしても、黛先生はかなり多くの外国出身のお遍路さんと交流を持っておられて、その英語力には感服するばかりです。まあ、サンティアゴ巡礼までされているくらいですので、語学力はもちろんのこと、コミュニケーション能力も高いのだと思います。私はどちらかと言うと一人の時間を大切にしたい方ですので、今お遍路をしたとしても、これだけの交流は持てなかったと思います。もちろん、英語力にも自信がありません。
さて、黛先生の感性は、お遍路の持つ包容力にも向けられていました。スーザンと、龍光院を目指していた日の出来事です。
外を眺めながらコーヒーを飲んでいると、一人の青年が大きなリュックを背負って呆然としていた。英語で大きく手を振るスーザンを見て、コンビニに入ってきた。「いつか会いましたよね?」と青年。「ええ、何回か会ってるわ。どうしたの? 何か困りごとでも?」彼女が訊くと、大事なものを失くしたと答えた。
「たぶん四阿に忘れたんです。10キロ以上歩いて戻らなければなりません」「バスを使ったら?」「……」「ヒッチハイクするとか。とにかくこの暑さの中を往復するのは無茶よ」「……」。いろいろ提案したが、彼はどうしても歩いて戻ると言い張った。「せめてリュックだけでも置いていったら?」コンビニの店員にリュックを預かってもらえないか交渉すると、快く承知してくれた。
来た道を戻っていく彼の後ろ姿を見てスーザンが言った。「たぶん軽い障害があると思うの。……立派だわ。障害のある人が遍路をするのはとても大変だと思うから」。
かつて遍路は不治の病を抱えた人や罪を犯して故郷へ帰れない人などが生きる場でもあった。生涯を歩き続け、遍路で生活をした。ゆえに職業遍路、草遍路などと呼ばれる。彼らは托鉢やお接待で得る僅かな金銭や飲食物で食べ繋いだ。
前回の遍路では何人かの草遍路に出会い、話を聞いた。病気で仕事を失った人や震災で家も家族もなくした人など、理由は様々だ。明らかに精神を病んでいる人もいた。共通していたのは、社会生活に生きづらさを感じていた人たちだったことだ。草遍路、職業遍路は昔は「辺土」と呼ばれ、蔑まれも畏れられもした。四国の聖地を巡り続けた彼らこそ、サン・テーレと呼ぶにふさわしい。
「もしかしたら、彼は遍路の方が生きやすいのかもしれない」と言うと、「人との関わりにあまり気を使わなくて済むものね」とスーザン。
高度に発達した現代社会において、生きづらさを感じる人はとても増えています。いわゆる不登校の小中学生は2024年度で35万3970人(前年度より7488人増)となっています*3。また、いわゆる引きこもりの数も2022年の内閣府の調査で推計146万人いるそうです*4。この引きこもりは、この後一つのキーワードとなります。
第45番札所岩屋寺へ行く途中、黛先生は道に迷い、白装束の一団と出会います。彼らに道を教えてもらったのですが、「風のように林道を上っていく」一団の姿はあっという間に見えなくなってしまいました。ところが、思いもかけない再会となります。
二十分くらい歩いただろうか、一団が下りてきた。まさか! 立ち止まって待っていると、「間違っていました。元の道に戻った方がいいです」と言い、また一陣の風のように去ってしまった。
実はこの青年たちとは、この後も因縁がつづきます。それは後述するとして、ここではもう一人、出会いがありました。
八丁坂は修行の場で、約3キロの峻険な山道をかつては「南無大師遍照金剛」と唱えながら上ったそうだ。息を切らして上っていくと、昨日私を追い越していった野宿らしき若い男性が下りてきた。逆打ちではないのに、なぜこの道を戻るのだろう? 「お疲れさま。もう岩屋寺を打ってきたのね!」と声を掛けると白い歯を見せて「はい!」と答えた。
彼とは一週間程前から時々会っていたのだが、笑顔を見たのは初めてだった。「気をつけてね」「はい、気をつけてください!」「ありがとう」。ただそれだけの会話だが、鬱然とした山のなかにそこだけぽっと日が差したような邂逅だった。
きっと不器用なのだ。効率性やスピードが求められる今の世の中では、何かと生きづらさを抱えてしまうのではないか。昔の遍路と違って今の遍路には帰る場所がある。しかし、帰っても“居場所”がない人は少なくないと思う。
ここでも、黛先生の柔らかな感性が感じられます。非常に温かく人間を見ておられることが伝わる場面です。そして、実はこの後、先の一団の青年たちと同じ宿になるのです。
高野山真言宗総本山金剛峯寺第四百六世座主の森白象師が三男を亡くされて遺骨を持ってお遍路をされたエピソードをつづられた後、野見山朱鳥の「かなしみはしんじつ白し夕遍路」の句を引用されてから、黛先生はこうつづけておられます。
白衣を着た途端にキャリアも肩書も何もなくなり、ただの“お遍路さん”になる。白衣は個性をも消す。白はどこまでも寡黙だ。悲しみが染み込んでいる色、それが白だ。ふと、一陣の風が過ぎるように歩く青年の一団が頭をよぎった。若い彼らも悲しみを抱えているのだろうか。
その夜、宿の夕食で青年たちと一緒になった。引率者によれば、それぞれに引籠りなどの問題を抱えていて、自分を変えるために通しで遍路を歩くプロジェクトに参加している。彼らを“風”のように感じるのは、白衣を着ていることと歩くのが速いことの他に、あまり話をしないこと、気持ちを表情に出さないことなどが理由としてあるだろう。
だが、一日の行程を終えてリラックスしているせいか、宿ではみんな明るい。あるいは遍路も半分を経て、何か変化があったのか、逼割禅定にも挑戦してきた勇気ある彼らが適応できない社会とは何なのだろう。彼らの側にだけ問題があるのだろうか。ウィリアムにしても然りだ。
このウィリアムというイギリス人の青年とは、黛さんは十夜ヶ橋で出会っておられます。彼は一流のIT企業に勤めていたらしいですが、仕事が忙しすぎたため、“empty”になるためにお遍路に来たということでした。“empty”とは、「無」か「空」かと黛先生は考察しておられます。
ここまでドラマチックで出会いを繰り返してこられた黛先生でしたが、結願のお寺、第88番札所大窪寺に到着した際、これといった大きな邂逅はありませんでした。しかし、八十窪でおばあさんのお話を聞くという最後の大仕事が残っていました。
八十窪のおばあさんこと、安部君枝さんは昭和8(1933)年生まれの90歳(※2023年現在)で、16歳の時にお遍路に出たそうです。身体が弱かった君枝さんのことを案じたお母さまの願掛けだったということですが、戦後すぐのことでもあり、大変なお遍路だったそうです。
戦後すぐのことだったのでまだ貧しく、今のようなお接待はなかった。食べるために門付もしたが、たいていは「行け、行け!」と追い払われた。女性やおばあさんはお米や豆などこっそり食べ物を分けてくれた。
当時の遍路の多くは難病患者や障害者だった。手のない人、脚のない人……「みんな生きることで必死だった」。泣かない日はなかったが、絶対に生きて帰ると心に誓った。
この話を読んでいると、本当に自分たち後世のお遍路が恵まれていることが分かります。上述のとおり、昔の遍路は草遍路で、畏れられ、蔑まれていたわけです。四国八十八ヶ所第57番札所ご住職の白川密成師が2019年から2020年にかけて歩き遍路をされた際も、「この乞食が!」とののしられたことを『マイ遍路』の中で書いておられます。なお、『マイ遍路』に関しては、「お遍路読書感想① 白川密成師『マイ遍路―札所住職が歩いた四国八十八ヶ所―』を読みました!」の記事をご覧ください。
戦後すぐの大変な時代を、わずか16歳の少女が一人で歩き遍路を、しかも行乞しながらお遍路をしていたかと思うと、本当に胸がしめつけられます。しかし、ご無事で何よりでした。だからこそ、お遍路への思い入れは人の何倍もあるのでしょう。
お蔭で九十歳になった今もお元気だ。「今時のお遍路さんは幸せ」と君枝さん。結願のお遍路さんのために「八十窪」では毎晩決まって出す料理が三つある。赤飯、鯛の刺身、そうめんだ。物価は上がっても、宿泊料金は上げない。「私の一生は、お遍路と共にあるの」君枝さんは終始穏やかな表情で語ってくださった。人生即遍路だ。
実はこの直前、大窪寺の境内で黛先生は種田山頭火の「人生即遍路」と書かれている碑を見たばかりでした。君枝さんのお話を聞いていると、ありきたりではありますが、思わず「人生即遍路」という表現を使いたくなったのでしょう。
この後、おそらく高松市内まで戻るご予定だったのでしょう。バスを待つ間、再び大窪寺を参拝することにされました。ここで、奇跡的な邂逅を果たされます。
この日一度目の大窪寺参拝前、黛先生はウィリアムと引きこもりの青年たちと再会したいと願っておられました。しかし、ここまでの道中では岩屋寺以後、ほとんど出会うことなく、日々が過ぎています。増してや、黛先生は別格を打っておられるので、「彼らはとうに結願しているはずだ」と期待せずに、「成行き」に任せることにされました。案の定、一度目の参拝では、再会は果たせませんでした。
ところが、何ということでしょうか。この日二度目の参拝で、奇跡的な出会いが待っていたのです。
バスの出発時刻までまだ時間があるので、もう一度大窪寺を参ることにした。今度は本堂正面の二天門から入る。石段を上って境内に着いたときだ。左手から白装束の一団が現れた。引籠りの青年たちだ! たった今女体山を越えて来たという。
「結願おめでとう!」「ありがとうございます!」みな晴れやかな顔をしていた。「途中体調を崩して歩けなかった区間があるんで、必ずそこを歩きにまた四国に来ます!」と一人。初めて会った日より皆逞しくなっていた。視線を感じて境内を見回すと、もう一人、お遍路さんがベンチに座ってこちらを見ていた。「Hi!」ウィリアムだった。途中広島などを訪問していたそうだ。
「歩き通して“empty”になれた?」と尋ねると、「う~ん、ときどき」と正直に答えた。「例えば山道でスートラを唱えているときには“empty”になっていることがありました」「私も。まったく同じ体験をしたわ」。青年たちとウィリアム。彼らとの奇跡的な再会こそ“有難し”であり、お大師様の「ありがとう」だった。
実はこの「お大師様の「ありがとう」だった」という言葉にも意味があるのですが、それは省略します。ご自分でお確かめください。
その後、記念写真を撮る流れになり、一人が気づきました。そうです、このメンバーは岩屋寺へ行く道で迷ったメンバーなのです。ウィリアムもその日、道に迷ってこの一団と出会い道を教えられ、そのことを黛先生にも、すでにその日のうちに伝えていたのでした。
岩屋寺を打った日、道を間違えた七人が揃って同じ日の同じ時間に結願したのだ。道標通りに歩いてきたのに、なぜ道に迷ったのか。あの時は理解に苦しんだが、今にして思えば、それも美しい“つづれ織り”の裏側だったのだ。
すべては「計らい」のなかにあった。
この“つづれ織り”という言葉や、「計らい」という言葉にもきちんとした意味があります。これも、ご自身でご確認いただきたいと思います。
最後に
さすがは俳人の黛まどか先生だけあって、随所にご自身の俳句があり、また亡きお父さまであり同じく俳人でもある黛執先生の俳句を載せておられます。また、同じく旅の俳人であった松尾芭蕉や自由律俳句を詠み四国遍路もおこなっていた種田山頭火の俳句も折に触れ引用しておられます。句集としても、読む価値がある本だと思います。
そして何よりも、黛先生の感性に驚かされます。誰よりも、四国遍路を歩く意味がある方だな、と思わされました。
とにかく、感動すること間違いなし!の一冊です。ぜひみなさんもご一読ください!
オススメ度:☆☆☆☆☆
黛まどか先生の旧作も好評発売中!
*1:株式会社新潮社ホームページ「『私の同行二人―人生の四国遍路―』紹介ページ2025.12.30閲覧
*2:株式会社新潮社ホームページ「『私の同行二人―人生の四国遍路―』紹介ページ2025.12.30閲覧
*3:朝日新聞デジタル「不登校の小中学生35万人超で過去最多 伸び率は鈍化」2025.12.31閲覧
*4:web.nhk「「ひきこもり」推計146万人 主な理由“コロナ流行”内閣府調査」2025.12.31閲覧