西国お遍路“行雲流水”

西国三十三所や四国八十八ヶ所を雲のごとく水のごとく巡礼した記録

四国八十八ヶ所 第4番札所 大日寺 ~西国三十三所の観音像を祀る黒谷の幽邃な山寺~

 

西国三十三所の観音尊像

四国八十八ヶ所の第4番札所は、黒巌山こくがんざん遍照院へんじょういん大日寺だいにちじです。1番、2番、3番と、約4kmの間に札所が連続していましたが、3番札所金泉寺から約5kmも離れていて、また少し山に入りかかるところにあるお寺です。

大日寺の巡礼情報

大日寺は、四国八十八ヶ所の第4番札所となっています。平地につづいていた1番、2番、3番からは少し離れており、また、山に入りかけるところに立地しています。今でこそ立派な道が通っていますが、昔は静謐な谷間にひっそりとたたずんでいたのでしょう。ちなみに、大日寺という寺号のお寺は、四国八十八ヶ所にはあと2か寺あります。

大日寺の縁起

大日寺の成立縁起は、大日寺のホームページに記載されています。

dainichiji-temple.com(2024.9.28閲覧)

それによりますと、弘仁6年(815)年に弘法大師がこの地において大日如来を感得し、刀三礼をして1寸8分の大日如来像を彫造したことを由来として、大日寺と称するようになったとされています。この大日寺伽藍は、阿讃山脈から南流する黒谷川に向かって張り出した、標高70メートル前後の尾根の、緩斜面上に位置しています。弘法大師の時代も山へと向かう入口として、入山前に身を清めるための場所があったのかもしれません。

また、江戸時代寂本という僧が元禄2(1689)年に著した『四國遍礼霊場記』では、かっては立派な堂塔が並んでいたものの、歳月の経過とともに、荒廃していた、と記されているそうで、その後、室町時代の応永年間(1394-1428)に松法師という人物に夢の託言があって、修復がなされたということです。

五来重さん*1は、澄禅『四国辺路日記』に「堂舎零落シタルヲ、当所ニ大富豪ノ俗有リ、杢兵衛ト云、此仁ハ無二ノ信心者ニテ、近年、堂ヲ結構シタルト也」とあると指摘されますが、上述の『四國遍礼霊場記』の記述の方が信用できると評しておられます。

なお、大日寺のホームページの記述では、応永の修復以後、また荒廃したものの、阿波藩の2代目藩主蜂須賀忠英公が慶安2(1649)年に材木を寄進し、本堂一宇を建立して以来、 天和元(1681)年から貞享5(1688)年までの間に再興された、ということです。さらにその後、元禄5(1692)年に5代目藩主蜂須賀綱矩公が、寛政11(1799)年に11代目藩主蜂須賀治昭公が、それぞれ修復して、今に至っているそうです。

また、上述の五来重さん*2はこのお寺の復興に関して、以下のように述べておられます。

それから三百年のちのことですが、時の住職が万人講を組織して復興します。万人講は、大日寺を語るときに、忘れてはならない大きな特色です。ここでいう宗教的な建造、いわば作善は、たくさんのお金を出す必要はありません。零細な寄付をできるだけ数多くの人から集めることによって、作善の功徳が倍加されるのです。

ここで言う三百年のちというのは、応永年間から300年ぐらい後、ということと考えられます。江戸時代中期ごろのことでしょうか。おそらく周辺一帯の農民が少しずつのお金を持ち寄って、堂宇を修復したのでしょう。『四国辺路日記』杢兵衛なる人物がいつの時代の人かは分かりませんが、いつの時代も彼のような富豪だけではなく、零細な農民たちの寄進によって寺院は支えられていたと考えられます。

なお、『四国辺路日記』の記述は、高野山大学密教文化研究所受託研究員の柴谷宗叔氏の論文「澄禅著『四国辺路日記』を読み解く――札所の様子を中心に――」*3中から確認することができます。それによると、江戸時代大日寺は、「黒谷寺」と呼ばれていたことが分かります。

大日寺の見所

大日寺の見所をご紹介します。

鐘楼門

※鐘楼門

鐘楼門となっている山門は、2018年に再建されました。設計及び施工は、阿波市土成町の棟梁大工新居哲夫氏で、南から阿讃山脈に向けて登ってきた際、遠くからでもその雄姿を望むことができます。屋根は入母屋造で本瓦葺き、大棟および鳥衾には本山である京都の東寺の寺紋、八雲が取りつけられています。上層にある梵鐘は、江戸時代に建立されていた山門梵鐘を移した、ということです。

薬師堂

※薬師堂

薬師堂の建立年代は不明ということですが、寛政12(1800)年の「四国遍礼名所図会」には、すでに薬師堂らしき建物が描かれているそうです。元来のこの建物は、床が土間になっており、病気の巡礼者が寝泊まりする通夜堂の役割を担っていたということです。現在の建物は、昭和期の建築です。

大日堂(本堂)

※大日堂(本堂)

大日寺本堂である、大日堂です。慶安2(1649)年の建築で、寛政11(1799)年に修復されているようですが、改修は段階的に数度おこなわれているようです。柱の面取りが、主屋は角面取り、向拝は几帳面取りで異なっています。また、和様を基調としつつも、粽柱、鏡天井などの禅宗様式が混在しています。ご本尊の大日如来坐像は、膝裏にある墨書から室町時代の応永14(1407)年に造立されたと想像されるそうです。

三十三観音尊像(回廊内)

※三十三観音尊像

大日堂から左側に、大師堂まで回廊が連なっています。その回廊内に祀られているのが、西国三十三所の観音尊像です。順番に、第一番札所青岸渡寺から第三十三番札所華厳寺まで、それぞれの札所のご本尊となっている観音尊像が祀られています。寺伝では、大坂福島の松浦惣助らが明和期(1764~72)に寄進したものだそうで、それぞれの尊像の施主は阿波肥前土佐讃岐、大坂など西日本各地に散らばっているようです。

大師堂

※大師堂 奥の屋根の建物 正面からの写真を撮り損ねていた

寺伝によれば、建立年代は文久3(1863)年9月大師堂勧化帳作成とあるそうで、様式からも江戸時代末期の建築と考えられるようです。本堂以外の堂宇としては、宝形造が多いなか、寄棟造で、本堂よりも間口が広く、大師信仰を篤く感じられる、貴重な堂宇の一つとなっています。

八幡御社

※八幡御社

境内の池に建てられている、八幡社です。寛政12(1800)年の「四国遍礼名所図会」にもすでに描かれているそうです。祭神は本堂ご本尊である大日如来と対をなす、宇佐八幡神と考えられているようです。御社の建物は、近年になってコンクリ−ト製に建て替えられ、2016年に基礎部分の石積みも補強されました。

大日寺のご詠歌

ご詠歌とは、四国八十八ヶ所の各霊場の特色を五・七・五・七・七の三十一文字で分かりやすく詠んだもので、民衆に各霊場の特色を分かりやすく教える意味合いがあります。

ながむれば つきしろたえの よわなれや

 ただくろだにに すみぞめのそで

(ながむれば 月白妙の 夜半なれや
   ただ黒谷に すみぞめの袖)

漢字表記は一般社団法人 四国八十八ヶ所霊場会のホームページ*4によります。

 

黒谷にあり、「黒谷寺」と呼ばれていたこともあることから、白い月と、黒谷の黒、墨染めの法衣の黒を対比させているようですね。真夜中なので、当然夜空も黒く(暗く)なっているでしょうから、黒い夜空、黒い谷(寺?)、黒い法衣と黒を並べる中に、白妙の月を強調しているのかもしれません。しかし、五来重さん*5は「あまりわからない御詠歌」と述べておられます。

大日寺へのアクセス

大日寺のホームページに詳しいアクセス情報が掲載されています。

dainichiji-temple.com(2024.9.28閲覧)

公共交通機関

JR「徳島駅」から徳島バス「鍛冶屋原車庫(不動経由)」行に乗車、「大日寺口」下車、徒歩約15分(「徳島駅」から約1時間15分)。

お車

高松自動車道「板野IC」から県道12号線を西に約7分走行、板野西部消防組合消防署のある交差点を右折し3分。

駐車場あり。約20台。無料。

大日寺データ

ご本尊 :大日如来

宗派  :東寺真言宗

霊場  :四国八十八ヶ所 第4番札所

所在地 :〒779-0113 徳島県板野郡板野町黒谷字居内28番地

電話番号:088-672-1225

宿坊  :なし

納経時間:8:00~17:00

拝観料 :無料

URL   :https://dainichiji-temple.com/

境内案内図

www.seichijunrei-shikokuhenro.jp(2024.9.28閲覧)

上記サイトの当該箇所に境内の案内図があります。

南坊の巡礼記「大日寺」(2020.7.24)

人生における初遍路を前日から始めたところでしたが、早速試練が訪れました。この日は雨の予報だったのです。

6時半ごろに起床し、準備を整えます。やはり雨の予報でしたが、準備をしている段階では降っていませんでした。私は自分のことを晴男だと思っていますので、何とかなるんじゃないかと少し期待していました。

さらに、駐車場に関して大失敗をしていました。ホテルサンルート徳島提携の駐車場ではない、ちょっと広めの駐車場に停めてしまっていたのでした。その結果、確か2,000円以上の駐車場料金がかかってしまっていたように思います。

しかも、8時20分ごろに出発してから気がついたのですが、ホテルの部屋にサングラスを忘れてしまっていました! 最初、フロントの女性の方に部屋にサングラスを忘れた旨を伝えたのですが、なかなか出てこられず……。しばらくして出てこられた男性のスタッフにお伝えすると、すぐにカギを用意してくださいました。女性スタッフの方が何をしておられたのかは分かりませんが、この対応の差は何なんでしょうね。私は坊主頭にしていることにより、若い女性の対応がぞんざいになっているような気がしています。坊主でなかった時はあまりこういうことはありませんでしたので。

ともかく、サングラスを何とか見つけることができ、8時40分ごろに再出発しました。案の定、出発してすぐに雨が降り始めました。駐車場代、サングラス、雨、となかなか悪いことが重なります。

どの道を通ったか忘れましたが、吉野川を渡って北上し、9時30分ごろに大日寺の駐車場に到着しました。

雨はまあまあ降っていますので、傘をさします。いろいろと準備をするのも手間どり、念珠を水たまりに落としてしまいました。慌てて拾い上げ、ウェットティッシュできれいにふき取りました。

山門は確かこの時は修復中だったように思います。山門をくぐって右側にトイレがありました。昔ながらのお寺のトイレですね。

境内は落ち着いた雰囲気で、雨のせいかモノトーンに包まれているようでした。

傘をさしながら本堂大師堂参拝し、納経所へと向かいました。納経所は、中に入るスタイルなので、外の傘立てに傘をさしました。

ご住職らしき方に記帳・押印をやっていただいたのですが、ここでまたまた問題が発生しました。財布には、一万円札しかなかったのです!

掛け軸納経帳の両方をやっていただいているので、800円になるとはいうものの、さすがに一万円札しかないというのはまずかったですね。出発時に駐車場代が思った以上にかかってしまい、千円札がなくなっていたのです。一万円札を差し出すと、明らかにご住職はイヤな顔をされます。朝一番に来て、一万円札を出されても困る、というわけですね。まったく返す言葉もありません。募金箱らしきものも開けてくださり、調べてくださいましたが、当然9,000円ものお釣りはありませんでした。

どうすればいいか、ということで相談させていただいた結果、私がコンビニで買い物をして、一万円札を崩してくるしかない、ということになりました。急いで車まで戻り、来る時に見つけていた、2kmほど南にあるローソン板野町羅漢店を目指します。

何を買おうか悩んだのですが、雨が降っているということもあり、レインコートを買うことにしました。ということで、コンビニでのお支払いは普段はWAONで行っていますが、今回は一万円札を出してお釣りをもらいました。これで、千円札をGETすることができました。急いで大日寺に戻りましょう。

おそらく15分程度しか経っていなかったと思います。私が中に入ると、ご住職は軽く驚いておられるご様子でした。おかげで、優しく対応してくださいました。

ここでご住職が驚いておられた理由ですが、いくつか推察されます。まず、最初入った時は菅笠を被っていたのに、二度目に行った時は菅笠を脱いでいたため坊主頭であった、ということです。気軽なスタンプラリー遍路と誤解していたのに、坊主頭なので意外とガチ勢と思われたのかもしれません。

次に、思っていたよりも戻ってきたのが早かった、ということがあると思います。最後は、純粋に食い逃げのようなことを想像されていたのに、真面目にきちんと戻ってきたことに驚かれたのではないか、ということも考えられます。

ともかく、戻ってくるとご住職の態度は軟化していたわけですが、このお寺のご住職はお遍路界隈では結構恐れられている存在のようです。他の方のブログでも拝見したことがあります。また、私の2回目のお遍路、歩き遍路の際には、納経所の女性にパワハラのような圧をかけておられるのを目撃いたしました。

まあ、今回のことに関しては、そもそも私に非があったので、仕方がないと思います。

というわけで、何とか無事に参拝が終了しました。次の札所を目指しましょう!

*1:五来重『四国遍路の寺 下』角川書店(1996)

*2:五来重『四国遍路の寺 下』角川書店(1996)

*3:「高野山大学密教文化研究所紀要」第24号 高野山大学密教文化研究所(2011.2)

*4:一般社団法人四国八十八ヶ所霊場会ホームページ「各霊場の紹介『第四番』」2024.9.28閲覧

*5:五来重『四国遍路の寺 下』角川書店(1996)