四国八十八ヶ所の第 5番札所は、無尽山むじんざん荘厳院しょうごんいん地蔵寺じぞうじ(※四国八十八ヶ所の公式ホームページの寺号には「じそうじ」とルビが振ってありますが、URLは「jizoji」となっていますので、「じぞうじ」とします*1)です。山の入口にあった4番からまた里の下りてきて、旧撫養街道の近くに位置するお寺です。
地蔵寺の巡礼情報
地蔵寺は、四国八十八ヶ所の第5番札所となっています。山に入りかけていた第4番札所大日寺とは異なり、1番、2番、3番と同じく旧撫養街道沿いにあるお寺です。広大な寺領を誇り、今でも40,000平方メートル、12,000坪の敷地があるそうです。それだけあって、全体的にゆったりとしたスペースが感じられるお寺です。
地蔵寺の縁起
地蔵寺はオリジナルのホームページを持っておられませんので、他の媒体の持つホームページから情報を集めることになります。そのなかで、地蔵寺の成立縁起を最も詳しく伝えてくれているのは、一般社団法人四国八十八ヶ所霊場会のホームページです。
88shikokuhenro.jp(2024.10.5閲覧)
また、徳島県観光協会のホームページ「阿波ナビ」*2や四国遍路 聖地巡礼のホームページ*3を総合して簡単にまとめます。
平安時代の弘仁12(821)年、弘法大師が嵯峨天皇の勅願により開創されました。弘法大師は1寸8分(※約5.5cm)の勝軍地蔵菩薩像を手ずからお彫りになり、ご本尊とされたそうです。その後、鎌倉時代に後宇多天皇の命を受けた熊野権現遷宮の導師浄函上人が、ご神託によって権現の霊木で1尺7寸(※約51cm)の延命地蔵菩薩像を彫刻して、胎内に大師の勝軍地蔵像を納められ、改めてご本尊となされたそうです。天正年間(1573〜92)には土佐の長宗我部元親による兵火で、堂塔がことごとく灰燼に帰したそうですが、以後、阿波の蜂須賀家などから多くの寄進を受け、阿波・讃岐・伊予の3か国におよそ300を数える末寺ができ、塔頭も26か寺にのぼったと伝えられているということです。
宗教学者の五来重さんは、『四国遍礼霊場記』の記述を引いて、以下のように解説しておられます*4。
『四国徧礼霊場記』には、「大師此所に遊び玉ふ時」とあります。遊行すること、旅をすることを「遊び」といい、人々を導くことを遊化といいます。それを「遊び」といっているので、今でいう遊びにきたわけではありません。
「熊野の神現じて霊木を手して授け給ひ」というのは、手ずから授けた、これで地蔵さんを作りなさいといって霊木をくださったという意味です。
ここまでの箇所は、上述の縁起の弘法大師の部分について述べています。以後の箇所が、五来重さんの考察になります。
「これに依て、大師其木を地蔵菩薩に刻み給ふに一寸八分の尊像とならせ給へり」
一寸八分の尊像は旅僧の笈仏に当たります。あとで一尺七寸の地蔵さんを作って、一寸八分の尊像を胎内仏としてまつったというのは、山伏の建てたお寺の縁起の一つの形式です。山伏が笈籠りであるところの小さな仏様をもってきて、最初はそれをまつっていたけれども、あとから大きな仏様を作って、その胎内仏にしたわけです。
つまり、五来さんは熊野系統の山伏が勝軍地蔵を祀ったところから、このお寺が始まったのだ、と述べておられるわけです。
後宇多天皇につづく縁起に関しては、浄函上人の名前は出てこず、以下のように述べておられます。
そのときの住持は定宥という坊さんです。『四国徧礼霊場記』は、定宥という人は霊夢によって一尺七寸の地蔵を作って一寸八分の古像を新像の胸間におさめた、そのほか阿弥陀も薬師も作った、これは熊野三座であると書いていますが、熊野の三尊は阿弥陀・薬師・地蔵ではありません。
(中略)
そこで、「蓋けだし、地蔵、観音、一体にてましませば」といって、観音と地蔵は一体だ、この地蔵は観音と同じだから三尊だと無理なことをいっています。さらに、「此三尊、熊野三座になぞらへけるらし。定宥もとより才徳信行の人なり。一夕熊野権現瑞託ありて、霊薬の剤方を示し玉ふ」とあって、このお寺には寺伝の霊薬があるということを詳しく書いて、その霊薬は万病円と称して四百余年伝来したといっています。
引用が長くなりましたが、五来さんの言いたいことは、この地蔵寺が熊野修験に由来するであろうということ、その証拠の一つとして、今でも吉野辺りで作られている陀羅尼助のような薬が存在していた、ということを述べておられるわけです。そのように考えると、おそらく1番、2番、3番と異なり、4番、5番は山岳信仰に起源があるように思います。
地蔵寺の見所
地蔵寺の見所をご紹介します。
仁王門
※仁王門
地蔵寺の山門に当たる、仁王門です。
鐘楼
※鐘楼
仁王門をくぐってすぐ右側にある鐘楼です。
淡島堂
※淡島堂
淡島堂とは、淡島様という神(※仏?)を祀るお堂のことです。このお寺が熊野以外でも、遊行者、紀伊と関係が深いことを示していると考えられます。五来重さん*5によれば、淡島願人という遊行者が、笈の中に各地で亡くなった子どもの人形を入れて、和歌山市加太にある淡嶋神社まで運んでいたそうです。また、淡島信仰にはいろいろな民俗信仰が入ってくるらしく、「へちま加持」もその一つである、とされています。このお寺では、夏場だけでなく年中「へちま加持」をしているそうです。
大師堂
※大師堂
弘法大師が祀られている大師堂です。正徳年間(1711~1716)の建造、江戸時代末期に改修されたとされ、国の登録有形文化財となっています。
大銀杏
※大銀杏 奥の建物は大師堂
境内中央部に位置する樹齢800年のイチョウの木です。母なる大樹ということで、「たらちね銀杏」とも呼ばれているそうです。
方丈
※方丈
お寺の生活スペースとなる建物です。境内の北にあり、東南側に大師堂、西南側に本堂があります。
永代供養八角堂
※永代供養八角堂
永代供養の八角堂です。
本堂・不動堂
※本堂 右側が不動堂
本堂には勝軍地蔵菩薩像が祀られています。本堂は江戸時代中期の正徳年間(1711~1716)の建立とされています。本堂に付随しているのが不動堂で、本堂よりも遅い、江戸時代後期の建立と考えられています。本堂・不動堂ともに国の登録有形文化財となっています。
奥の院 五百羅漢堂
地蔵寺の一番の見所と言ってもいいかもしれません。本堂左側の参道を登った先にあるのが奥の院とされる五百羅漢堂です。江戸時代後期の安永4(1775)年、実聞・実名という兄弟の僧によって創建されたそうですが、大正4(1915)年に参拝者の火の不始末で火事となり、羅漢の大部分が焼失しました。現在の五百羅漢堂は大正11(1922)年に再建されたもので、国の登録有形文化財に指定されています。羅漢像は3度目の復興を経て作られたものとされ、大正時代から昭和時代にかけてのものだそうです。約200体の羅漢像は、コの字型に並ぶ弥勒堂、釈迦堂、大師堂に数々の仏像とともに収められています。
拝観料300円。
地蔵寺のご詠歌
ご詠歌とは、四国八十八ヶ所の各霊場の特色を五・七・五・七・七の三十一文字で分かりやすく詠んだもので、民衆に各霊場の特色を分かりやすく教える意味合いがあります。
りくどうの のうけのじぞう だいぼさつ
みちびきたまえ このよのちのよ
(六道の 能化の地蔵 大菩薩
導き給え この世後の世)
漢字表記は一般社団法人 四国八十八ヶ所霊場会のホームページ*6によります。
このご詠歌も掛詞や枕詞もなく、そのまま詠ったご詠歌になっています。六道とは地獄道、餓鬼道、畜生道、修羅道、人間道、天道のことを指し、死んでからもこの六道のいずれかに生まれ出ることから、衆生は六道輪廻を繰り返しています。そして地蔵菩薩は救済の仏さまで、地獄に落ちた衆生をも救ってくださると言われています。五来重さん*7は、「地蔵菩薩は現当二世の利益があるといわれております。現は現世つまり現在です。当は当来、まさに来るべき、やがて来る来世という意味です。したがって、現世と来世のどちらをも救済してくださる仏様が地蔵菩薩です」と述べておられますが、この説明をまさにご詠歌にしたものが、このご詠歌でしょう。
地蔵寺へのアクセス
徳島県観光協会のホームページ「阿波ナビ」に詳しいアクセス情報が掲載されています。
www.awanavi.jp(2024.10.5閲覧)
公共交通機関
JR「徳島駅」から徳島バス「鍛冶屋原車庫」行に乗車、「羅漢」下車、徒歩約5分(「徳島駅」から約1時間5分)。
お車
高松自動車道「板野IC」から県道12号線を西に約7分走行、板野西部消防組合消防署のある交差点を右折し1分。
駐車場あり。約50台。無料。
地蔵寺データ
ご本尊 :延命地蔵菩薩(胎内仏 勝軍地蔵菩薩)
宗派 :真言宗御室派
霊場 :四国八十八ヶ所 第5番札所
阿波西国33ヵ所 第24番
所在地 :〒779-0114 徳島県板野郡板野町羅漢字林東5
電話番号:088-672-4111
宿坊 :なし
納経時間:8:00~17:00
拝観料 :無料
境内案内図
www.seichijunrei-shikokuhenro.jp(2024.10.5閲覧)
上記サイトの当該箇所に境内の案内図があります。
南坊の巡礼記「地蔵寺」(2020.7.24)
第4番では一万円札しかないという失態を犯してしまい、雨のなかちょっとテンションは下がり気味でした。
しかし、何とか無事に納経料も払い終わり、次のお寺、第5番札所地蔵寺を目指しました。
実は一万円札をくずすためにローソン板野町羅漢店に行ってレインコートを購入したのですが、第5番札所の地蔵寺は、第4番札所大日寺とローソン板野町羅漢店の間にあります。というわけで、この日は地蔵寺の前を何回も通っています。
今度こそ、通過ではなく地蔵寺に入っていきます。駐車場は2車線の南北方向の2車線の道路に面しており、とても入りやすいです。また、広いため、逆にどの辺に停めるか迷いました。
車を停めると、山門ではないところからも境内に入っていけます。一応山門の方に回りました。大日寺にいたころは結構雨が強くなっていたのですが、ここではいったん小降りになっていました。レインコートなしで傘のみでいけそうです。
境内に入ってみると、とにかく広いなあという印象です。境内がゆったりとしています。境内の中央部には、大きな銀杏の木がありました。この時の来訪時には、そんなにすごい銀杏と思わず、軽く見ただけでしたが。
右手に鐘楼があったため、最初に鐘を撞きました。コロナ禍でしたので、あまり公共のものを触りたくないのですが、これは別です。
本堂は、逆に山門入って左側にありました。大きな本堂です。外で参拝をします。
つづいて、右手にあった大師堂を参拝しました。これで無事に納経は終了です。
納経所は、大師堂の左手、境内の北東側にありました。建物の中に入るタイプです。
傘や菅笠を外の杖立てに立て、中に入りました。確かおばさんが記帳・押印してくださったと思います。
ちょっとずつですが、ドライヤーを使って掛け軸を乾かすのも慣れてきました。あまり熱風を近づけすぎると掛け軸の布地が変形すると言われていましたが、しかしあまり時間をかけているわけにもいきません。だんだんその加減が分かってきたように思います。
この後、車に戻りました。五百羅漢があるということは事前のリサーチで分かっていましたが、いかんせん雨ということもあってテンションも上がりません。まあ今回はいいか、ということで次のお寺を目指すことにしました。
次は、第6番札所安楽寺となります。
*1:一般社団法人四国八十八ヶ所霊場会ホームページ「各霊場の紹介『第五番』」2024.10.5閲覧
*2:徳島県観光協会ホームページ「徳島県観光情報サイト阿波ナビ『第5番札所 地蔵寺』」2024.10.5閲覧
*3:四国遍路 聖地巡礼「徳島編 | 歩き遍路のための「四国遍路」巡礼マップ『5番札所地蔵寺』」2024.10.5閲覧
*4:五来重『四国遍路の寺 下』角川書店(1996)
*5:五来重『四国遍路の寺 下』角川書店(1996)
*6:一般社団法人四国八十八ヶ所霊場会ホームページ「各霊場の紹介『第五番』」2024.10.5閲覧
*7:五来重『四国遍路の寺 下』角川書店(1996)