四国八十八ヶ所の第8番札所は、普明山ふみょうざん真光院しんこういん熊谷寺くまだにじです。7番札所十楽寺からのどかな田舎道を約4.2km歩いた先のお寺です。人里を見守るように存在していますが、お寺に入ると急に山寺の趣きとなります。
熊谷寺の巡礼情報
熊谷寺は、四国八十八ヶ所の第8番札所となっています。7番札所から人里の遍路道を、西に1時間ほど歩いた末にたどり着きます。歩きで着いた場合は、巨大な仁王門が出迎えてくれます。山門をくぐり、駐車場から境内を奥へ進むと、急に人界を離れたような幽玄な山寺となっていきます。非常に雰囲気のいいお寺です。
熊谷寺の縁起
熊谷寺はオリジナルのホームページを持っておられませんので、他の媒体の持つホームページから情報を集めることになります。そのなかで、熊谷寺の成立縁起を最も詳しく伝えてくれているのは、一般社団法人四国八十八ヶ所霊場会のホームページです。
88shikokuhenro.jp(2024.11.23閲覧)
また、徳島県観光協会のホームページ「阿波ナビ」*1や四国遍路 聖地巡礼のホームページ*2を総合して簡単にまとめます。
平安時代の弘仁8(817)年、弘法大師が熊谷寺の閼伽ヶ谷あかがたにで修行している時に、紀州の熊野権現が出現されました。「末世の衆生を永く済度せよ」と告げられ、一寸八分(※約5.5cm)ほどの金の観世音菩薩像を授けられたそうです。そこで大師は一刀三礼して等身大の千手観世音菩薩像をお作りになり、授かった金の観音像を胎内仏として納め、堂を建立して本尊とした、ということです。
元禄2(1689)年に寂本が著した『四国徧礼霊場記』には、「境内は清幽で、谷が深く、水は涼しく、南海が一望できる。千手観音像の髪の中には126粒の仏舎利が納められてある」とあるそうです。
この熊谷寺の縁起については、五来重さん*3が海と千部法華会にからめて説明しておられます。
熊谷寺には千手観音と同時に補陀落信仰があります。これもやはり海の信仰です。もちろん、那智大社の本地仏は千手観音です。したがって、補陀落渡海をする人は、この千手観音の像を船の舳先に付けて、風を待っていました。
実は熊谷寺からは紀伊水道が見えるということで、寂本もそれを書いているようです。つまり、この熊谷寺も熊野信仰と関わりがある、ということになります。補陀落渡海の伝説は、熊野那智山の沿岸部にある、補陀洛山寺に詳しく伝わっています。
また、千部法華会に関しては次のように述べておられます。
熊野修験は元来が法華経の修験でした。熊野に海洋宗教が栄えていたころは、那智の妙法山に南の菩薩永興という人が住んでいたことが『日本霊異記』という奈良時代の説話集に出てきます。妙法は法華経の妙法で、妙法山は那智から海のほうに登る山です。
したがって、法華経を実践する人々が熊野を開いたといっていいわけです。
これらを踏まえて、熊谷寺の縁起について、最終的には次のように結論づけておられます。
こうしたものを縁起にするときには、弘法大師が熊野権現に出会って、という話になりますが、事実としては熊野から出てきた山伏たちがこういうところに寺を開いたのでした。
この熊谷寺以外にも、これまでにも熊野権現と関わりのあるお寺はありました。第5番札所の地蔵寺と、第6番札所の安楽寺です。ここから考えてみると、やはり古代の南海道というもののつながりが、現代の我々が考えている以上に強かったということが分かります。
熊谷寺の見所
熊谷寺の見所をご紹介します。
山門(二王門)
※山門(二王門)
山門ですが、二王門とも称しておられます。江戸時代前期の貞享4(1687)年の建立で、和様と唐様とを折衷した建築様式となっています。全体の寸法は、桁行9メートル、梁間5メートル、高さ13メートルで、江戸時代の山門としては四国随一の規模を誇っているそうです。二層目の天井・柱等には極彩色の天女像等が描かれており、現存する「普明山」の扁額は安政大修理の時に寄付されたといわれているとのことです。徳島県指定の有形文化財となっています。
弁天宮
※弁天宮と池
車の入口を入って右側にある池には、弁天宮が建てられています。
多宝塔
※多宝塔
駐車場から中門に向かう途中、左側に屹立するのが多宝塔です。江戸時代後期の安永3(1774)年に建立されたそうで、多宝塔としては四国地方最古にして最大の規模を誇っているそうです。胎蔵界の大日如来を中心に、東側に阿閦如来、南側に宝生如来、西側に無量寿如来、北側に不空成就如来と、四方に四仏が祀られています。徳島県指定の有形文化財となっています。
中門
※中門
本堂手前にある中門です。二天門でもあります。前後に4本ずつ柱を立てる八脚門という形式で、屋根は切妻造、本瓦葺となっています。徳島県指定の有形文化財となっています。
本堂
※本堂
熊谷寺の本堂で、ご本尊の千手観世音菩薩像が祀られています。1927年の火災で全焼し、現在の本堂は1940年再建の奥殿と拝殿、1970年再建の供養殿からなります。ご本尊も、供養殿とともに再建されたそうです。
鐘楼
※鐘楼
本堂より見て右側、少し高いところにある鐘楼です。四国の霊場では珍しく、袴腰となっています。4本の柱を立てた基本的な構造で、屋根は入母屋造、本瓦葺です。徳島県指定の有形文化財となっています。
大師堂
※大師堂
本堂の左手にある石段を36段登ったところにあるのが、大師堂です。江戸時代中期の宝永4(1707)年の建立で、正面三間、側面三間の正方形に近いお堂で、屋根は宝形造となっています。正面に向拝がついています。現在は正面と側面の三辺に縁が回っていますが、背面隅の柱に縁隅叉首の痕跡があるので、もとは四辺に縁があったと考えられています。徳島県指定の有形文化財となっています。
また、内部の厨子も江戸時代前期の作と考えられており、これも徳島県指定の有形文化財となっています。
さらに、大師堂のご本尊である木造弘法大師坐像は何と室町時代の永享3(1431)年に制作されたものだそうで、これも徳島県指定の有形文化財となっています。像高は60.0cm、寄木造とのことです。
熊谷寺のご詠歌
ご詠歌とは、 四国八十八ヶ所の各霊場の特色を五・七・五・七・七の三十一文字で分かりやすく詠んだもので、民衆に各霊場の特色を分かりやすく教える意味合いがあります。
たきぎとり みずくまだにの てらにきて
なんぎょうするも のちのよのため
(薪とり 水くま谷の 寺に来て
難行するも 後の世のため)
漢字表記は一般社団法人 四国八十八ヶ所霊場会のホームページ*4によります。
このご詠歌に関しては、五来重さんの詳しい考察があります*5。
この歌だけでは、どうして熊谷寺で薪をとるのだ、薪をとって売っていたのかということになってしまいます。しかし、このお寺には千部法華会があったという記録があるので、「薪とり」の意味がわかるのです。そういうものを踏まえて御詠歌が作られているので、薪を取ることがすなわち難行苦行なのです。
縁起のところでも述べたとおり、このお寺の千部法華会にこのご詠歌が関連しているというわけです。少し長くなりますが、引用を続けます。
奈良時代以前から山岳修行者が法華経を読んでいた形跡があります。いわんや平安時代に入りますと、法華経を実践する法華経の行者といわれる持経者がいたるところに現れていることが、『梁塵秘抄』という今様集でわかります。
平安時代末期の今様は、いまから見るとずいぶん古めかしいものですが、当時としてはすなわち流行歌です。その中に「妙法習ふとて、肩に袈裟掛け年経にき、峯にのぼりて木も樵りき、谷の水汲み、沢なる菜も摘みき」とありまして、薪をとったり、菜を摘んだり、水をくんだりして、自分のお師匠さんなり仏さんなりにお仕えして、はじめて法華経が自分の身に付いたという歌があります。その歌を歌いながら、法華八講という法華経の講説をするのですが、みんなが薪を担いで本尊さんの周りをぐるぐる回るのを「薪の行道」といいます。
それが御詠歌にある「薪とり」の意味です。四国の札所にまで法華経実践の千部法華会の思想が入っていたというのは、たいへんおもしろいことです。薪をとって水をくんだという「みずくむ」を「みずくま」とかけて、「水熊谷の寺に来て」となるわけです。それは同時に難行苦行ですから、「難行するも後の世のため」、難行をするのは現世のためでもあり。後の世のためでもあるという意味になります。
どうも、これまでの札所のご詠歌と比べても、かなり質の高いご詠歌のようです。素人には「薪とり」の意味はまったく分かりませんが、五来重さんの解説によって、このご詠歌の持つ深い意味が明らかになりました。「水くむ」が「水くま」に変化しているのも、これまでのご詠歌には見られなかった修辞的な表現のように思います。
熊谷寺へのアクセス
徳島県観光協会のホームページ「阿波ナビ」に詳しいアクセス情報が掲載されています。
www.awanavi.jp(2024.11.23閲覧)
公共交通機関
JR「徳島駅」から徳島バス「鍛冶屋原車庫」行に乗車、「東原」バス停下車、徒歩約1時間20分(「徳島駅」から約2時間20分)。
またはJR「鴨島駅」から北に徒歩約1時間30分。
お車
徳島自動車道「土成IC」から県道139号線を西に約3分。
駐車場あり。約20台。志納金(500円程度?)を納めてください。
熊谷寺データ
ご本尊 :千手観世音菩薩
宗派 :高野山真言宗真言宗単立
霊場 :四国八十八ヶ所 第8番札所
所在地 :〒771-1506 徳島県阿波市土成町土成字前田185
電話番号:088-695-2065
宿坊 :なし
納経時間:8:00~17:00
拝観料 :無料
境内案内図
www.seichijunrei-shikokuhenro.jp(2024.11.23閲覧)
上記サイトの当該箇所に境内の案内図があります。
南坊の巡礼記「熊谷寺」(2020.8.9)
夏休みに入り、いよいよ2回目のお遍路に出発する時が来ました。思えば前回は出発の段階で交通渋滞に悩まされ、2日目は雨に苦しめられました。いい思い出があるわけでもないのですが、始めてしまったからには最後まで頑張るしかないです。しかも、まだ88分の7ですからね。
というわけで、2020年8月9日、2回目のお遍路に出発しました。車遍路で2回目の区切り打ちということで、通算3日目ということになります。
10時ごろに茨木市内の自宅を出発し、記憶では名神高速道路ではなく、新名神高速道路を通ったように思います。新名神高速道路から山陽自動車道を経て、神戸淡路鳴門自動車道に入りました。前回と比べると、段違いに車の流れはスムーズでしたが、淡路島方面へと向かうトンネルの付近は少々混雑していました。
トンネルを出ると明石海峡大橋です。ここを渡ると、淡路島に入りますが、入ってすぐのSAである淡路SAは非常に混むところです。そのまま飛ばし、淡路島を縦断しました。
大鳴門橋を渡ると四国です。また来たな~、という感じでちょっとテンションが上がります。
今回最初に向かうのは第8番札所の熊谷寺で、最寄りのICは「土成IC」です。記憶では高松自動車道を「板野IC」で降り、下道を南に下って「藍住IC」から徳島自動車道に入ったと思います。このルートは、高速バスなんかもよく使っているルートです。
というわけで、13時15分ごろに第8番札所熊谷寺の駐車場に到着しました。駐車場には何台かの車が停まっていましたが、混雑しているというほどではありませんでした。
すぐに参拝の準備を整えます。駐車場の奥のところに、北に参道が伸びています。駐車場の南の端には納経所がありました。
参道を登っていきます。石段もそこそこあり、ちょっと歩いただけですぐに山寺の雰囲気になってきました。
中門があり、最初はこれが山門だと思ってしまいました。しかし、持っていたガイドブックには本当の山門は駐車場を出て少し南に下ったところにあるということが書いてありました。後ほど行ってみたいと思います。
中門をくぐり、少し進むと正面に本堂があります。本堂は、中に入ることもできます。
中門から見て本堂の左側に大師堂がありました。石段を36段登っていくようです。まあ、36段くらいは余裕です。
大師堂でも納経を終え、納経所に向かいました。
中門を出て駐車場の方へ歩いていくと、ジャン・レノに似たおじさんに納経所はどこか聞かれました。中門から下っていくと分かりやすいのですが、中門に向かって登っていると分かりにくいんですよね。
駐車場の先にあることをお伝えすると、おじさんは先に行かれました。
おじさんからしばらく遅れて私も納経所に入りました。窓口にはおじさんとおばさんがいらっしゃり、おばさんに記帳・押印していただきました。掛け軸は、おばさんがドライヤーで乾かしてくださったように思います。確かトイレも納経所内にあったと思います。
ここでは、お賽銭用に、お札を小銭に両替してくださいます。今もやってくださっているかどうかは分かりませんが。私は昔々に銀行で1万円分を5円玉に両替してもらっていたので、お賽銭に困ることはありません。
この後、荷物を車に置いて、入ってきた車道よりも南側にある山門を見に行きました。非常に立派な山門で、写真を撮るのに苦労しました。
さあ、これで第8番札所熊谷寺の参拝は終了です。次は、少し先の平地にあるお寺、第9番札所法輪寺を目指します。
*1:徳島県観光協会ホームページ「徳島県観光情報サイト阿波ナビ『第8番札所 熊谷寺』」2024.11.23閲覧
*2:四国遍路 聖地巡礼「徳島編 | 歩き遍路のための「四国遍路」巡礼マップ『8番札所熊谷寺』」2024.11.23閲覧
*3:五来重『四国遍路の寺 下』角川書店(1996)
*4:一般社団法人四国八十八ヶ所霊場会ホームページ「各霊場の紹介『第八番』」2024.11.23閲覧
*5:五来重『四国遍路の寺 下』角川書店(1996)