西国お遍路“行雲流水”

西国三十三所や四国八十八ヶ所を雲のごとく水のごとく巡礼した記録

四国八十八ヶ所 第11番札所 藤井寺 ~平安伝来の薬師如来像と大師お手植えの藤の花~

藤井寺境内

四国八十八ヶ所の第11番札所は、金剛山こんごうざん一乗院いちじょういん藤井寺ふじいでらです。1番札所霊山寺から10番札所切幡寺までは大きく言って吉野川の左岸に存在していましたが、初めて吉野川を渡り、右岸に建てられているお寺です。10番の切幡寺からは、これまでで最長の約10km歩いた先にあります。

藤井寺の巡礼情報

藤井寺は、四国八十八ヶ所の第11番札所となっています。10番札所から南へおよそ10kmほど歩いたところにあります。途中、川の中州としては日本最大を誇る善入寺島を経由します。吉野川の両岸と善入寺島を結ぶ両橋はいわゆる沈下橋になっており、車も結構走るのでスリルのある行程です。

四国八十八ヶ所のお寺では唯一、「寺」の字を「じ」ではなく「てら」と訓読みするお寺です。

藤井寺の縁起

藤井寺はオリジナルのホームページを持っておられませんので、他の媒体の持つホームページから情報を集めることになります。そのなかで、藤井寺の成立縁起を最も詳しく伝えてくれているのは、一般社団法人四国八十八ヶ所霊場会のホームページです。

88shikokuhenro.jp(2024.12.25閲覧)

また、徳島県観光協会のホームページ「阿波ナビ」*1や四国遍路 聖地巡礼のホームページ*2を総合して簡単にまとめます。

 

弘仁6(815)年、弘法大師が42歳の厄年の時、三方を山に囲まれた渓流の水清らかな仙境に心惹かれ、現在の境内のあるところから山中の八畳岩の上に護摩壇を築かれ、金剛不壊の道場として、17日間修行をされたそうです。修行ののち、自らの厄難を祓い、衆生の安寧を願って薬師如来像を刻まれ、堂宇を建立されました。その堂宇の前に五色の藤をお植えになったということから、金剛山藤井寺と称すようになったそうです。

藤井寺は真言密教の道場として栄え、七堂伽藍を構える壮大な大寺院となったそうですが、例によって長宗我部元親の兵乱に遭い、全山を焼失したそうです。江戸時代初期までは衰微したままでしたが、江戸時代前期の延宝2(1674)年に阿波藩主が帰依していた臨済宗の南山国師が入山して再興され、宗派も臨済宗に改められました。江戸時代後期の天保3(1832)年にふたたび火災に遭いましたが、万延元(1860)年に再建されました。

 

このお寺に関しては、五来重さん*3弘法大師のご来臨の可能性を強く推定しておられます。

縁起では弘法大師修行のところだといっています。その遺跡が寺の後ろの八畳岩というところに残っていて、立派な杉の木もあります。そこから焼山寺に行く道があるので、若き日の弘法大師善通寺から焼山寺を経て室戸岬への辺路修行をした可能性があります。その場合はかならず通過しなければならない道です。また、西側の高越山の高越寺では虚空蔵菩薩をまつり、大師が来たと伝えているので、切幡寺から高越寺、それから藤井寺焼山寺という道も考えられます。

平安時代にはよほど栄えたらしく、本尊の薬師如来像はたいへん立派です。久安4年(1148)という平安末期の年号が入っていて、もちろん重要文化財です。しかし、それ以外のことは不明で、天正年間(1573~92)の兵火ののちは復興も遅かったようです。

まあ要するに、弘法大師が建立されてから、平安時代末期までの期間には相当栄えていたことが窺い知れるが、その後、数百年間のことはよく分からない、ということですね。そして、例によって土佐の戦国大名長宗我部元親によって攻められ、寺運は著しく衰微してしまったようです。

五来重さんは、例によって『四国辺路日記』を引いておられます。

『四国辺路日記』には「地景尤殊勝也、二王門モ朽ウセテ礎(※原文は石へんに居)ノミ残リ、寺楼ノ跡、本堂ノ礎モ残テ所々ニ見タリ、今ノ堂ハ三間四間ノ草堂也、……庭ノ傍ニ容膝斗ひざをいるるばかりノ小庵在、其内ゟより法師形ノ者一人出テ、仏像修理ノ勧進ヲ云、各奉加ス」とあるので、たいへんながめがいいところだったようです。お寺も礎だけ、本堂も礎だけです。お寺というのは最初は庫裡です。

たいへん小さな庵があって、その後ろに仏像の破片が山のように積んであると書いているので、朽ちるままに放置しているというか、復興しなかった。廃屋がつぶれるようにこのお寺もつぶれてしまって、そこに一人の禅僧あるいは山伏がやってきて、この仏像だけでも修理したいというので、遍路の者にお金を勧進したりして、みんなが勧進したわけです。

この記述を見る限りでは、『四国辺路日記』の書かれた江戸時代前期の承応2(1653)年には、かなり衰退していたことが分かります。

五来重さんはさらに、『四国徧礼霊場記』と比較しておられます。『四国徧礼霊場記』は、元禄2(1689)年に刊行されています。

それに対して、『四国徧礼霊場記』のほうは、禅僧がいて、堂も禅宗風に造られていると記しているので、『四国辺路日記』が書かれて『四国徧礼霊場記』が書かれるまでの三十五年ほどの間に復興したと思われます。

つまり、1653年には衰退しきっていた藤井寺が、1689年には禅宗風のお堂が建つまでに復興していたということが分かります。上述の縁起でも1674年に臨済宗の南山国師が入山されたということになっていますので、整合性はとれます。

藤井寺の見所

藤井寺の見所をご紹介します。

仁王門

※仁王門

藤井寺山門でもある、仁王門です。

鐘楼

※鐘楼

鐘楼です。山門を入ってすぐ右側にあります。山門を入ると、この鐘楼から進んだ右手に藤棚が広がっています。

藤棚

※藤棚(写真は徳島県観光政策課の許可をいただき「阿波ナビ」より転載)

弘法大師お手植えとされる藤棚です。4月下旬から5月上旬ごろの期間には、紫のノダ藤、八重咲きで濃い紫のレンゲ藤に、ピンク、小豆色などのカラフルな藤の花が見事に咲き誇るそうです。

上記の画像は、「阿波ナビ」*4より許可をいただき掲載させていただきました。

不動堂

※不動堂

不動明王が祀られています。

八臂白龍弁財天

※八臂白龍弁財天

8本の手を持つ八臂白龍弁財天を祀ったお堂です。8本の手には蔵の鍵や弓、矢など様々な物を持っていて、金運や武術の上達、芸事の上達などの願いごとを叶えてくれるといわれています。このお堂の前には弁天水が流れていますが、この水は第12番札所焼山寺付近の谷川の水を引いたものだそうです。

大師堂

※大師堂

大師堂です。弘法大師さまが祀られています。

本堂

※本堂

藤井寺本堂です。1977年に全面改修され、地元の鴨島出身の林雲渓さんの手で、30畳ほどの大きさの雲龍の天井画が描かれています。

本堂の横の山道には、西国三十三所と四国八十八ヶ所のミニ巡礼が設けられています。ミニ西国は10分ほど、ミニ四国は40分ほどで回れるそうです。

※西国三十三所ミニ巡礼入口 鳥居の扁額には「辨財天」と書かれている

ご本尊の薬師如来像は「厄除け薬師」として親しまれており、国の重要文化財に指定されていますが、文化庁の国指定文化財等データベース*5によると、実は学問的には薬師如来像ではなく、木造釈迦如来坐像だそうです。像内には「久安4(1148)年11月30日仏師経尋」の銘があるそうです。

焼山寺みち

※焼山寺みち入口

本堂脇にある第12番札所焼山寺への遍路道です。四国八十八ヶ所のミニ巡礼の入口にもなっています。

藤井寺のご詠歌

ご詠歌とは、 四国八十八ヶ所の各霊場の特色を五・七・五・七・七の三十一文字で分かりやすく詠んだもので、民衆に各霊場の特色を分かりやすく教える意味合いがあります。

いろもかも むひちゅうどうの ふじいでら

 しんにょのなみの たたぬひもなし

(色も香も 無比中道の 藤井寺
   真如の波の たたぬ日もなし)

漢字表記は一般社団法人 四国八十八ヶ所霊場会のホームページ*6によります。

 

このご詠歌に関しては、五来重さんが解説をしてくださっています*7

御詠歌は「色も香かも無比中道の藤井寺 真如の波の立たぬ日もなし」です。無比は実際には無非と書かないといけません。「色も香も無比中道」というのは、華厳経の中にある文句で、中道を説いた部分に「一色一香無非中道」という文句が出てきます。

中道というのは、実践することによって、いいとか悪いとか、あるとかないとかという対立概念をすべて超えてしまうということです。中道という覚りを覚りきらないときは、それぞれ区別があって、これは好きだとか嫌いだとか、いいの悪いのという差別をもってしまうけれども、中道という覚りを覚ってしまうと、すべてが平等となり、差別を超えてしまうというのです。

「一色一香」は、色と香だけをいっているのではありません。色・声・香・味・触という人間の五感が、それぞれ中道になるという意味です。われわれが見たり触れたりするものが、すべて覚りになるわけです。

どうやら『華厳経』の言葉を入れたなかなか難しいご詠歌のようです。仏教的な意味は五来重さんのおっしゃるとおりだと思います。ただ、実はもっと表面的な意味もあると思います。

藤井寺の藤の花を主体に置いてみれば、要するにこういう解釈も成り立つでしょう。「色も香りも並ぶものがない無比の藤の花よ、永遠不変の実体として花の波が立たない日はないことだよ」といったところでしょうか。

仏教的な意味と、藤の花の形容と、両方の意味があるように思います。

藤井寺へのアクセス

徳島県観光協会のホームページ「阿波ナビ」に詳しいアクセス情報が掲載されています。

www.awanavi.jp(2024.12.25閲覧)

公共交通機関

JR「鴨島駅」から徒歩約40分。

お車

徳島自動車道「土成IC」から国道318号線を南へ約15分。

門前の本家ふじやの駐車場を利用。約30台。参拝時間中は300円。

藤井寺データ

ご本尊 :薬師如来

宗派  :臨済宗妙心寺派

霊場  :四国八十八ヶ所 第11番札所

所在地 :〒776-0033 徳島県吉野川市鴨島町飯尾1525

電話番号:0883-24-2384

宿坊  :なし

納経時間:8:00~17:00

拝観料 :無料

URL   :なし

境内案内図

www.seichijunrei-shikokuhenro.jp(2025.12.25閲覧)

上記サイトの当該箇所に境内の案内図があります。

南坊の巡礼記「藤井寺」(2020.8.9)

第10番札所の切幡寺を15時40分ごろに出発したでしょうか。切幡寺から少し南に下り、県道12号線を東に走ってから国道318号線に出ました。ここからまた南下していきます。

阿波中央橋という大きな橋を渡り、国道318号線は国道192号線と合流し、左折して東に向かいます。すぐに案内標識が出てくるので、右折してまた南下しました。そこからは、少し細い道を2kmほど走れば、藤井寺の前に出ます。

駐車場は、「ふじや」というお店?が運営しておられるようです。山門へ向かうところに、料金徴収のための小屋がありました。そこで確かおじさんに300円支払ったと思います。四国八十八ヶ所では初めての有料駐車場ですが、お寺直営の駐車場ではありません。こういうのって、西国三十三所でも岡寺とかでありましたね。

お寺の雰囲気はいい感じです。かなり侘びている、山裾のお寺という感じですね。ただ、古刹というよりもただ古いだけというか、修理・保全等があまり行き届いていないような印象を受けました。

山門をくぐり、中に入ります。境内の中に入ると、奥で右折して、伽藍の中心部へと入っていくことになります。

少しだけ高低差のあるお寺で、本堂大師堂の順番に納経を済ませました。

納経所は、大師堂の手前側にあります。おばさんが担当してくださり、掛け軸はわざわざドライヤーで乾かしてくださいました。ありがたいことです。

さあ、これで第11番札所の藤井寺の巡礼は終了です。だいたいこれで16時半を回っていましたので、次の12番焼山寺の納経時間には到底間に合いそうにありません。本日はこれで打ち止めということになりました。

今回も、宿は常宿であるホテルサンルート徳島です。記憶では、国道192号線まで戻り、ひたすら東に進んだように思います。距離的には20km以上あります。歩けば5時間かかりますが、車だと小一時間ですね。

17時半ごろ、ホテルサンルート徳島の提携駐車場である駅前モータープール第2に到着しました。前回、広い駐車場に停めたところ、提携外だったために1泊で2,000円以上してしまい、そのせいで第4番札所大日寺納経所でご住職に怒られてしまった経験があります。ということから、今回は間違いなく提携駐車場に停めようと思っていました。

それはいいのですが、この提携駐車場はせ、せまい!

ちょうど私の前に停めたご家族があり、その奥さんらしき方が自分の車に当てられないかと監視しながら駐車場を出て行かれたこともあり、気持ちがそっちに向いてしまい、大失敗をしてしまいました。

何と、駐車場の隣のビル側に停まっていたバイクに当たってしまい、倒してしまったのです!

慌てて車から降り、バイクを立てます。どこも傷はないようですが、さすがに放置するわけにはいきません。ただ、この駐車場に停めることは難しそうなのでいったん諦め、少し離れたところにあるタイムズフレシア徳島パーキングに車を停め、戻ってきました。

駐車場に書かれていた電話番号に電話し、バイクに当ててしまった旨を伝えますと、そのビルの内部に案内されました。ビルの中で防犯カメラを見ていただき、確かに当たっていることを確認してもらいました。

結局、ビルの方もバイクの持ち主が分からないということで、警察に連絡することになりました。

これ、何で気がつかなかったんでしょうね。こういう時って本当に気が動転して、どこに連絡すればいいかまったく訳が分からなくなってしまうんですよね。最初から自分で警察に電話しておいても良かったわけです。

ともあれ、駅前の交番から警察官の方が来てくださいました。朴訥としたとてもいい方で、助かりました。私の車が大阪ナンバーだったので、お遍路を始めた理由など聞かれたりしましたが、別に尋問というわけではなく、世間話のような感じでした。

高知ナンバーのバイクの持ち主は結局すぐには分からないので、この日はいったん放免となりました。警察の方でバイクに貼り紙をしていただき、連絡してもらうようにする、ということでした。

どんな方なんだろうという不安はありましたが、まあ悩んでいても仕方がありませんし、翌日以降のお遍路もあります。ホテルにチェックインし、荷物を部屋に置いて、晩ご飯を食べに出ました。確かいつもの支那そば よあけだったと思います。

まあもやもやとした気持ち、不安は残りましたが、22時ごろには就寝したと思います。

この日は第8番札所熊谷寺をスタートして、第9番札所法輪寺、第10番札所切幡寺、第11番札所藤井寺と回りました。それぞれ個性もあり、いい雰囲気のお寺が続いたように思います。翌日は歩きの難所、車でも難所の第12番札所焼山寺を目指します。