西国お遍路“行雲流水”

西国三十三所や四国八十八ヶ所を雲のごとく水のごとく巡礼した記録

四国八十八ヶ所 第12番札所 焼山寺 ~四国遍路最初にして最大の難所 虚空蔵菩薩を祀る深山の寺~

焼山寺山門下

四国八十八ヶ所の第12番札所は、摩廬山まろざん正寿院しょうじゅいん焼山寺しょうさんじです。11番札所藤井寺から山々を約12.5km進んだ山中にあるお寺で、四国八十八ヶ所の全札所中で2番目の高さを誇ります。車でも一度南側に回ってから離合困難な道を登っていかなければならず、歩きでも車でも、最初に現れる難所にしてまさに最大の難所です。

焼山寺の巡礼情報

焼山寺は、四国八十八ヶ所の第12番札所となっています。標高938メートルの焼山寺山の8合目付近に位置するお寺で、第66番札所の雲辺寺に次ぐ高さを誇ります。札所の最高峰雲辺寺は標高約900メートル、焼山寺は約800メートルとされています。しかし、体感的には雲辺寺よりもはるかに厳しい難所だと言えるでしょう。歩きの場合は、尾根伝いに約12.5kmの山々を越えて、いったん谷に下りてから最後に険しい焼山寺山を登ることになります。

焼山寺の縁起

焼山寺はオリジナルのホームページを持っておられませんので、他の媒体の持つホームページから情報を集めることになります。そのなかで、焼山寺の成立縁起を最も詳しく伝えてくれているのは、一般社団法人四国八十八ヶ所霊場会のホームページです。

88shikokuhenro.jp(2024.12.31閲覧)

また、徳島県観光協会のホームページ「阿波ナビ」*1や四国遍路 聖地巡礼のホームページ*2を総合して簡単にまとめますが、山中の説明板にも縁起が書かれていましたので、これも参照します。

※縁起説明板

 

この地はもともと、飛鳥時代の大宝年間(702~704年)に役行者小角えんのぎょうじゃおずぬが山を開き、蔵王権現を祀って結んだ一本杉庵が霊場としての起源とされています。

その後、平安時代の弘仁5(815)年(※815年ならば弘仁6年の可能性も)弘法大師がお寺を開基されました。その縁起は、以下のようなものです。

その昔、この山一帯は毒蛇が住んでおり、しばしば大雨を降らし、あるいは大風を起こし、農作物を害するなどの災いをなし、人々を苦しめていました。弘法大師一本杉庵の杉の木の下で眠っていると、夢の中に阿弥陀如来がお現われになり、変事をお告げになりました。目を覚ますと、何と周囲は火の海になっています。そこで、麓の垢取川で身を清め、「摩廬(※水輪の意)の印いん」を結び、真言を唱えながら進んだところ、火は徐々に消えていきました。9合目まで来ると、岩窟から毒蛇が姿を現し、弘法大師に立ち向かってきました。大師は一心に祈願し、虚空蔵菩薩のご加護によって毒蛇を岩窟に封じ込めることができました。そこで大師は自ら三面大黒天を彫り、岩窟の上に安置して大衆安楽、五穀豊穣を祈りました。また、ご本尊の虚空蔵菩薩をも刻んでお寺を建立し、焼けた山のお寺ということで、焼山寺と名づけたということです。

 

このお寺に関しても、五来重さん*3弘法大師のご来臨の可能性を強く推定しておられます。

十二番の焼山寺しょうさんじは確実に弘法大師の修行の跡だと考えられる理由があります。阿波では焼山寺鶴林寺太龍寺、この三か寺は疑う余地がありません。そのほか小松島の町の中に入りますと、恩山寺おんざんじ立江寺たつえじがあります。恩山寺は半々ぐらい弘法大師が修行をしたのではないかと考えられるお寺です。太龍寺の場合は幸いなことに弘法大師の自叙伝の中に出てきます。この太龍寺とまったく同じ条件をもっているのが焼山寺です。

また、焼山寺の寺号に関しては、以下のように考察しておられます((((五来重『四国遍路の寺 上』角川書店(1996)))))。

たとえば、阿波焼山寺しょうざんじでは山が焼けるぐらい火を焚いたようです。最初は寺はなかったので、焼山といいました。火を焚いたと考えられる頂上は938メートルですから、四国の札所の中ではいちばん高いところです。もとはそこに虚空蔵菩薩を安置していましたが、現在は中腹の焼山寺というお寺の本堂蔵王堂でまつっています。

また、縁起についてもかなり深い考察をしておられます*4。少し長くなりますが、引用させていただきます。

現在では焼山寺が伝えた公的な縁起はなくなっています。焼山寺という名前が出たのは、山に住む毒龍が火を吐いて、全山を火の海にしたので焼山というのだとなっています。しかし、そういうことはありえません。もちろん龍などは実在しませんから、毒龍が火を吐いて、全山を火の海にしたという縁起の奥に何か歴史的事実がかくされていると考えるべきなのです。

この後、縁起そのものの研究手法について説明されてから、焼山寺縁起の話をつづけておられます。

焼山という名は、龍が住んでいて火を吐き、全山が火の海であったために出た名であるといわれています。これを弘法大師が垢取ことり川という川で垢離こりを取り、真言を誦しょうすると、その火は消えたと書いています。

いまのヒマラヤと同じように、昔は山の頂上まで登れませんでした。山に入ること自体も許されませんでした。山に入ろうとすれば垢離を取らないといけないというのは、山の神秘を守っている人たちがいたからに違いありません。その人たちが、「おいおい、そんな穢けがれたからだでこの山に登ったら、かならず山神が怒るぞ」といったのです。

山に登るためには、山の神聖を守っている山人に対して、自分はこれだけの精進潔斎、これだけ仏教の修行、密教の修行をして山に登るんだ、あんた方よりも自分のほうがはるかに行ができているんだ、それでは鉄鉢を飛ばしてみせようか、ということで鉄鉢を飛ばすような一つのマジカルな密教の奇瑞きずいを見せて、相手を説得するという手続きが必要でした。

要するに、従来住んでいた山の民とでも言うべき人々から、この地に入り修行をする許可をとったということでしょう。このような縁起の類型は、比叡山延暦寺などでも見ることができます。

いまも毒龍の窟いわやが残っていますが、頂上に近い毒龍の窟から毒龍が飛び出して大師に襲いかかった、大師が仏を念ずると虚空蔵菩薩が出現したというのは、弘法大師が虚空蔵菩薩の求聞持法を修めたことを示しています。虚空蔵菩薩が毒龍を岩屋に封じ込めて、その害を絶ったので、この山に登ることができた。大師が虚空蔵菩薩を本尊とする寺を建立したのが焼山寺であると伝えています。

摩盧山まろさんという山号は音を写したものであることは明らかです。縁起は、摩盧山という山号は火を消すための水輪を意味する摩盧から出たものだといっていますが、われわれのサンスクリットの知識からしますと、mara を翻訳すると「凶悪なるもの・凶暴なるもの・人を殺すもの」という意味です。maru ならば「不毛の地・水のないところ」という意味ですから、凶暴なものが住んでいる山という意味で摩盧山といったのだろうとおもいます。

この山は縁起の解釈によって弘法大師の登山修行を論証できます。それはこの山には顕著な行場が存在し、頂上の奥の院に虚空蔵をまつることによって、ここで求聞持法が行われたことを証明することができるからです。

引用ばかりになってしまいますが、五来重さんは摩廬山という山号の由来に関しても、疑問を呈しておられるわけですね。

さらに、五来さんはもう一つの解釈を示しておられます。

縁起のもう一つの解釈は、この山の山人が修行者の入山を拒否したことが龍によって登山を妨げられたという話になったという解釈です。山人に対して密教修行者が行力を示すことによって服属させ、従者として食物を運ばせて、食物を補給する力を三面大黒天としています。

三面大黒天は、インド以来、厨くりやの神様です。いまでも比叡山の厨房ちゅうぼう(台所)には三面大黒天がまつってあるように、食物を補給するのが三面大黒天です。焼山寺にも毒龍の窟の前に大黒天堂の跡があります。最近、大黒天堂は寺のほうに移りました。

虚空蔵菩薩はともかく、縁起に突然三面大黒天が登場するので、意外とこちらの方が真実に近いかもしれません。いずれにしろ、毒龍というのは弘法大師以前にこの山を住処としていて、弘法大師の入山をはばんだ連中の比喩なのかもしれません。ただし、縁起としては、毒蛇や毒龍が暴れまわる方が面白いことは言うまでもありません。

焼山寺の見所

焼山寺の見所をご紹介します。

十三仏石像

※観世音菩薩石像

駐車場から山門までの参道に、十三仏の石像が建てられています。十三仏とは、不動明王、釈迦如来、文殊菩薩、普賢菩薩、地蔵菩薩、弥勒菩薩、薬師如来、観世音菩薩、勢至菩薩、阿弥陀如来、阿閃如来、大日如来、虚空蔵菩薩の13尊の仏さまを指します*5参道上でも、この順番で建てられています。

山門

※山門

焼山寺山門です。石段の左右には杉の巨木が並びます。焼山寺の杉は、「焼山寺山スギ並木」として徳島県の天然記念物に指定されています。

鐘樓堂

※鐘樓堂

鐘楼です。もともと吊るされていた梵鐘は、由緒正しいもので、「焼山寺の梵鐘」として徳島県指定の有形文化財となっています。もともとの梵鐘を寄進したのは阿波藩2代藩主の蜂須賀忠英公で、慶安2(1649)年のこととされます。

実は当時、蜂須賀忠英公は焼山寺と徳島市内のあるお寺の両方に鐘を寄進されたそうですが、こちらの鐘は殷々たる響きで鳴ったのに対し、市内の鐘はまったく良い音を出さなかったそうです。そこで、蜂須賀公はこの鐘と市内の鐘を交換しようとされましたが、鐘が「いなん、いなん(※往なん、「行かない」の意)」と鳴ったことから、断念したとされます。

また、第二次世界大戦中の1941年、金属供出の命令で鐘を馬車に載せたそうですが、馬が腹痛を起こして苦しみ、ついに運ぶことを断念せざるを得なかったということです。

いずれのエピソードも不思議さを感じさせるものですが、オリジナルの梵鐘は現在、別の場所で保管されており、吊るされている鐘はその2代目とのことです。

本堂

※本堂

焼山寺本堂です。虚空蔵菩薩が祀られています。

三面大黒天

※三面大黒天

本堂に向かって左側のお堂には、現在三面大黒天が祀られています。五来重さん*6によれば、もともとは山頂近くの毒龍の窟前に大黒天堂があったそうですが、五来重さんがご訪問されたころの近年になって、寺の方に移ったそうです。大黒天の信仰が非常に強かったらしく、本堂の左の大師堂を右に移して、ここに大黒天を持ってきたようです。

弘法大師作と伝わる三面大黒天像は、中央に大黒天、右面に毘沙門天、左面に弁財天と、三つの顔が刻まれている珍しい大黒天です。3柱の神さまが一体化したことで、すべての災いを取り除き、幸福をもたらすとして人々の信仰を集めているとのことです。

大師堂

※大師堂

弘法大師が祀られている大師堂です。焼山寺の弘法大師坐像は、徳島県指定の有形文化財となっています。

十二社神社

※十二社神社

徳島県神社庁のホームページ*7によれば、紀伊那智熊野神社の御分霊という天正年間(1573~92年)までの記録が焼山寺にあったそうですが、文禄4(1560)年の火災で記録が消滅したとのことです。正中2(1325)年2月に後醍醐天皇が下賜された綸旨に「合田二段内一段権現新免在坪鍋岩」とあり、これが十二社神社に関する記録だとされています。慶長2(1597)年5月に社殿を改築したとする棟札が現存しているそうで、現在の社殿は万延元(1860)年の建立で十二社大権現と称していたのが、明治時代の神仏分離令により、十二社神社と改称したそうです。「寛保改神社帳」に「左右内社十二社権現別当左右内村焼山寺」とあるとのことです。

杖杉庵

※杖杉庵

焼山寺伽藍から約2.4kmほど山を下ったところにあるのが杖杉庵です。厳密には境内ではないかもしれませんが、四国八十八ヶ所霊場会のホームページ*8が見所として挙げておられるので、ご紹介しておきます。杖杉庵の謂れは、お遍路をやっている人なら一度は聞いたことのある衛門三郎の伝説です。

※衛門三郎と弘法大師像

伊予の国(※現愛媛県)衛門三郎という欲深な長者がいました。あるとき、旅の僧が托鉢に訪れたのですが、乞食坊主と思った衛門三郎はその鉄鉢を八つにたたき割ってしまいました。すると翌日から、衛門三郎の8人の子どもが毎日1人ずつ亡くなっていきます。ついに最後の子どもを失った衛門三郎はあの旅の僧こそ名高い弘法大師さまだったに違いないと思い、四国八十八ヶ所を巡って弘法大師にお詫びをしようと旅立ちます。ところが、20回順打ちしても巡り会うことができず、最後に逆打ちで回ったところ、ついにこの地で力尽きました。その前に現れたのが弘法大師で、衛門三郎は前非を侘びて懺悔をします。命尽きる衛門三郎弘法大師が「何か望むことはあるか」と問うと、「来世では国主の家に生まれたい」と言うので衛門三郎と書いた小石を手に握らせました。その後、本当にその小石を握った赤子が伊予国主の河野家に生まれたそうで、その小石は今も53番石手寺に収められているということです。また、衛門三郎が埋葬されたこの地には、墓標となっていた手持ちの杖が大きく育ち、大杉となったことから杖杉庵が建立された、ということです。

なお、もともとの大杉は江戸時代中期の享保年間(1716~36年)に焼失してしまったということです。

焼山寺のご詠歌

ご詠歌とは、 四国八十八ヶ所の各霊場の特色を五・七・五・七・七の三十一文字で分かりやすく詠んだもので、民衆に各霊場の特色を分かりやすく教える意味合いがあります。

のちのよを おもえばくぎょう しょうさんじ

 しでやさんずの なんしょありとも

(後の世を 思えば恭敬 焼山寺
   死出や三途の 難所ありとも)

漢字表記は一般社団法人 四国八十八ヶ所霊場会のホームページ*9によります。

 

「恭敬」と書いて「くぎょう」と読みます。仏教用語で、デジタル大辞泉によると意味は「つつしみうやまうこと」です。『今昔物語集』に、「梵天ぼんでん、帝釈たいしゃくおよび諸天皆恭敬せん」という用例があるようです。

「死んだ後の世のことを思うならば、焼山寺をつつしみ敬いましょう、死出の旅路や三途の川といった難所があったとしても」という意味だと思われます。

ただ、五来重さんの解釈*10では、そもそも漢字表記が異なっています。

御詠歌は「後の世をおもへば苦行しやう山寺 死出しでや三途さんずのなんじよありとも」です。苦行をしようとおもうということと焼山寺をかけて、ちょっと駄洒落のようになっています。「なんじよ」というのは、どういうふうにあろうとも、どんな具合であろうともという意味を俗語で表したものです。死出の山や三途の川はもっと苦しいんだろうけれども、後の世をおもえばこの山で苦行するのが焼山寺だといっています。

「くぎょう」の部分に、「恭敬」ではなく「苦行」の漢字を当てています。昔の仮名では「くぎやうしやうさんじ」と続きますので、「苦行 焼山寺」と「苦行しよう」が掛かっているわけですね。また、おそらく「なんじよ」は「なでふなじょう」と難所をかけているのだと思います。

そもそもこの焼山寺は険しい山中にあり、弘法大師が求聞持法を修法された可能性もあるので、ここは五来さんの述べておられる「苦行」の方が「恭敬」よりも合っているような気がします。「苦行」と来た方が、次の「難所」にもスムーズにつながりますよね。

まあどちらが正しいのかは一介の巡礼ヤーである私にはちょっと分かりかねます。

焼山寺へのアクセス

徳島県観光協会のホームページ「阿波ナビ」に詳しいアクセス情報が掲載されています。

www.awanavi.jp(2024.12.31閲覧)

公共交通機関

JR「徳島駅」から徳島バス「神山高校前」行に乗車、「神山高校前」バス停下車、徒歩約2時間15分(「徳島駅」から約3時間30分)。

お車

徳島自動車道「土成IC」から国道318号線を約10分南下、国道192号線を約15分東進して県道20号線・県道21号線を約15分南下、国道438号線を約3分西進して県道43号線を約4分北上すれば登山車道入口あり。登山車道入口から約15分。離合困難箇所もあるため運転には要注意。

駐車場あり。約70~80台。志納料(普通車300円)を納めてください。

藤井寺データ

ご本尊 :虚空蔵菩薩

宗派  :高野山真言宗

霊場  :四国八十八ヶ所 第12番札所

所在地 :〒771-3421 徳島県名西郡神山町下分字中318

電話番号:088-677-0112

宿坊  :あり(定員30人。山上のため必ず予約すること)

納経時間:8:00~17:00

拝観料 :無料

URL   :なし

境内案内図

www.seichijunrei-shikokuhenro.jp(2024.12.31閲覧)

上記サイトの当該箇所に境内の案内図があります。

南坊の巡礼記「焼山寺」(2020.8.10)

前日は駐車場でバイクに当ててしまうという何ともマズイ事故を起こしてしまいましたが、気を取り直して車遍路区切り打ち2回目、2日目のスタートです。

朝は6時半に起床し、コンビニで購入していたご飯を食べました。コロナ禍ですし、素泊まりは気楽でいいですね。

ホテルの出発は8時半ごろでした。国道438号線を道なりに進んでいきます。9時半ごろに道の駅 温泉の里・神山に到着し、トイレ休憩をしました。

そこからまた西に少しだけ進み、県道43号線に入っていきました。案内標識に従い、山道の方へと進みます。今まで8番札所熊谷寺や10番札所切幡寺を山寺と紹介してきましたが、次元の違うレベルの山です。離合が困難なレベルの山道がつづきます。右側が崖になっており、落ちたら死ぬレベルの山になっています。

ただ、何度か対向車とすれ違ったと思うのですが、それほどまでにヤバかったという記憶はありません。何とか無事に登れたようです。

山道の入口から15分ほどで駐車場に到着です。確か10時ごろだったと思います。境内には、ここから10分ほど歩いていく必要があります。

参道は砂利道になっていて微妙な傾斜があり、なかなかしんどいですが、しかし、十三仏の石像などもあり、歩いていて退屈はしません。気がつけば、山門前に到着していました。

しかし、ここからがまた大変です。山門まで石段がつづいています。さらに、伽藍の中枢はまた石段を登った上の方にあります。この段階では歩いて遍路することを想像だにしていませんでしたが、歩いたうえでこの石段は相当きついだろうなと思いました。

さすが、これだけ来るのに苦労しただけあって、お寺の雰囲気は最高に幽玄です。また堂宇の雰囲気もいい感じで寂れていて、侘びの境地です。四国八十八ヶ所のうち、このお寺もまた好きなお寺の一つとなりました。

さて、まずは本堂納経をしました。つづいて、大師堂納経をします。

納経所では、志納料として駐車場代を納めないといけません。300円だったと思います。おじさんに300円を支払いました。

行って戻ってきて、おそらく駐車場には11時過ぎに帰ってきたと思います。次の13番札所大日寺は、焼山寺からかなり徳島市街へと戻ったところになります。13番から17番札所まではかなり近接しているので、この日は札所を稼げそうです。

というわけで、焼山寺参拝を終え、大日寺へと車を進めていきました。