四国八十八ヶ所の第21番札所は、舎心山しゃしんざん常住院じょうしゅういん太龍寺たいりゅうじです(※よみがなは一般社団法人 四国八十八ヶ所霊場会のホームページ*1によります)。徳島県第二の難所、標高550メートルまで登った第20番札所鶴林寺から、一度山を下り、再度標高610メートルほどの山を登ったところにあります。徳島県内では第三の難所とされています。
太龍寺の巡礼情報
太龍寺は、四国八十八ヶ所の第21番札所となっています。「一に焼山、二にお鶴、三に太龍」と言われる徳島県のお遍路の難所として、3番目に名が挙がってくる札所です。標高は全札所のなかでも4番目の高さ、約610メートルとなっています。本堂の横から御廟の橋、大師の拝殿、その裏手に御廟と連なっていて、高野山奥之院と同じ配列になっています。「西の高野」と呼ばれ、四国八十八ヶ所札所中でも屈指の大寺です。
太龍寺の縁起
太龍寺はオリジナルのホームページを持っておられませんので、他の媒体の持つホームページから情報を集めることになります。そのなかで、太龍寺の成立縁起を最も詳しく伝えてくれているのは、一般社団法人四国八十八ヶ所霊場会のホームページです。
88shikokuhenro.jp(2025.6.1閲覧)
また、徳島県観光協会のホームページ「阿波ナビ」*2や四国遍路 聖地巡礼のホームページ*3を総合して簡単にまとめます。
弘法大師が19歳のころ、この山奥の境内から南西約600メートルの「舎心嶽」という岩上で、100日間の虚空蔵求聞持法を修行されたとされています。このことは、弘法大師24歳の時の著作『三教指帰』に記されているそうです。虚空蔵求聞持法は、真言を百万遍となえる最も難行とされる修法で、大師青年期の思想形成に大きな影響を及ぼしているそうです。
縁起によると延暦12(793)年、桓武天皇(在位781〜806)の勅願により堂塔が建立され、弘法大師がご本尊の虚空蔵菩薩像をはじめ諸尊を造像して安置し、開創したとされています。山号は修行地の舎心嶽から、また寺名は修行中に大師を守護した大龍(龍神)にちなんでいるそうです。
皇室や武家の信仰が厚く、平安時代の後期には子院12か寺をもつほどに栄えていたそうですが、例によって「天正の兵火」に遭い、伽藍の多くが焼亡してしまいました。その後、江戸時代になっても幾たびか罹災しましたが、その都度、ときの藩主の保護をうけ再建されました。
ところが、この縁起とは創建年代が異なる史料が存在しています。平安時代前期の僧、真然が承和3(836)年に書いたとされる『阿波國太龍寺縁起』*4です。
于時延暦十七年九月日。應桓武天皇之御願。阿波國司藤原朝臣文山謹承綸旨建當伽藍。爰大師自彫刻諸佛諸尊數體之形像。安置山上山下五所之伽藍。是則酬弟子多生之宿願。致皇帝永代之歸。依之寄進那賀山興隆太龍寺。
この記述によれば、桓武天皇の御願というところは変わりませんが、創立が延暦17(798)年になっています。もともとお寺が典拠としておられる史料が何か分かれば、調べようがあるのですが……。まあ、5年ですから、当時としては誤差の範囲でしょうが。
ちなみに『阿波國太龍寺縁起』中に登場する阿波国司の藤原文山という人物は、実在するようです。藤原南家の貴族のようですね。
『阿波國太龍寺縁起』は民俗学者の五来重さんもご覧になっていたようで、詳しく解説してくださっています。私が省略した箇所を、五来さんの解説とともに確認してみましょう*5。
『阿波国太龍寺縁起』は長治ちょうじ(1104~06)という平安時代の年号をもっていますが、もっと新しいもののようです。弘法大師の辺路修行ではかならず行道と捨身をしています。ここ一か所だけではそういうことはいえませんが、そのほかのところに行っても同じことです。弘法大師が生まれた善通寺の西に我拝師山という山があって、ここも捨身岩があります。ここは落ちたら死ぬところです。
空海が捨身をしたことは、はっきりと『阿波国太龍寺縁起』に出ています。高野山の場合は丹生都比売にうつひめ神が現れて高野山を寄進します。ここでは弘法大師が和食わじき明神に出会ったということが書いてあります。
観ずるに夫れ当山の為体。䓗嶺そうれい銀漢を挿しはさみ、天仙遊化し、蘿崛金輪を廻て、龍神棲息の谿。(中略)速やかに一生の身命を捨てて、三世の仏力を加うるにしかず。即ち居を石室に遁れ、忽ち身を巌洞に擲なげうつ。時に護法これを受け足を摂る。諸仏これを助けて以て頂を摩す。是れ即ち命を捨てて諸天の加護に預かり、身を投じて悉地の果生を得たり。(中略)是れ偏に法を重んじて、命を軽んじ身を捨てて道に帰す。雪童昔半偈を求めて身を羅刹に与うるや。
ここに弘法大師の捨身のことが書かれています。
そもそも、この地は若き日の弘法大師が捨身をおこなったところだ、というわけですね。そのような所縁のあるところに、後にお寺を建立されたということです。『阿波國太龍寺縁起』によれば、弘法大師が15歳の時に阿波国の焼山寺山に至り、その後阿波国を巡ったとされています。
五来さんの記述をつづけて確認します。
太龍寺については、弘法大師が書いた『三教指帰さんごうしいき』に、「阿国大滝嶽たいりゅうのたけに躋のぼり攀よぢ、土州室戸崎に勤念ごんねんす。谷響たにひびきを惜しまず。明星来影す」という有名な文があります。阿国というのは阿波です。阿国大滝嶽とあって太龍寺ではありません。滝はまだあるそうです。大滝嶽は別なところだという説も出ていますが、ここであることは間違いありません。
弘法大師は大滝嶽で求聞持法ぐもんじほうをしたと書いています。太龍寺もやはり虚空蔵菩薩が本尊です。虚空蔵菩薩を本尊とする寺があるところは求聞持法をしたところです。虚空蔵菩薩は虚空のすべての力を蔵するので、虚空蔵菩薩に願えばなんでもかなえられる、求聞持法という法を修すればすべての記憶がよくなるといわれています。
つまり、「大滝嶽」と書かれてはいるものの、おそらく弘法大師はこの太龍寺のある山で求聞持法をおこなったと考えられ、それゆえに太龍寺のご本尊は求聞持法を象徴する虚空蔵菩薩になっている、ということですね。
五来重さんは阿波のお寺で弘法大師の足跡が感じられる霊場として、藤井寺、焼山寺、鶴林寺、太龍寺、薬王寺を挙げておられます*6。
太龍寺は、「西の高野」とも称されるだけあって、本当に弘法大師にご縁のある、由緒正しいお寺であると言えるでしょう。
太龍寺の見所
太龍寺の見所をご紹介します。
丁石ちょうせき
※二十七丁の丁石
上醍醐と同じで、登るにつれて数字が増えていく、カウントダウン方式とは逆のタイプの舟形丁石です。1丁は約109メートルで、麓から27丁(約2943メートル)登ってきたことを表しています。このすぐ上が仁王門です。これらの丁石のうち、11基が徳島県の史跡に指定されています。ただし、この二十七丁の丁石がそれに該当するかどうかは不明です。
仁王門
※仁王門
山道の途中にある仁王門です。ここから伽藍の中心までは、まだ三丁(約327メートル)ほど歩かないといけません。バイクはここまで来ることができるようです。仁王門は現存する太龍寺の建造物の中では最古のものとされ、江戸時代後期の文化3(1806)年に建造されたそうです。国の登録有形文化財に指定されています。
仁王像は鎌倉時代の作とされ、徳島県下では最大最古のものとされているそうです。*7
※仁王像阿形
六角経蔵
※六角経蔵
江戸時代末期の安政3(1856)年に建立された六角経蔵(六角経堂)です。あらゆる仏教の経典、つまり一切経を収蔵しています。この建物も国の登録有形文化財に指定されています。
護摩堂
※護摩堂
護摩堂です。不動明王を祀っており、ここで護摩木を焚くようです。明治時代の1901年の建立で、この建物も国の登録有形文化財に指定されています。
持仏堂(本坊)
※持仏堂(本坊)
本坊にあたる、持仏堂です。向拝の右側に降剣場と書かれた扁額がありますが、これは弘法大師がこの地で修行中、突如、虚空蔵菩薩の宝剣が壇上に飛来したことに由来するそうです。この建物は明治27(1894)年の火災によって焼亡したそうですが、翌年に再建されました。この本坊も国の登録有形文化財に指定されています。
明治34年、高知県安芸市出身で四条派の画家、竹村松嶺により、大廊下に龍の天井画が描かれました。
※龍の天井画
鐘楼門
※鐘楼門
本坊から本堂など伽藍の中枢に至る石段上に東面して建っています。三間一戸楼門、入母屋造銅板葺です。明治時代の1903年に創建されたもので、国の登録有形文化財に指定されています。
相輪橖
※相輪橖
木造や石造の塔などがあるなかで、相輪橖は珍しい金属製の塔です。三重塔などの上部にある相輪を独立させて塔としたもののようですが、現存例が非常に珍しいそうです。日光輪王寺、比叡山、太宰府天満宮、四天王寺に現存すると書いてありますが、輪王寺、比叡山延暦寺のものは国指定の重要文化財となっています。江戸時代後期の文化13(1805)年の建立のようです。
多宝塔
※多宝塔
本堂の北側の高台に建っています。下層は方三間の周囲に縁を廻らしていて、組物出組、二軒繁垂木としています。上層は円形平面、四手先組物で二軒扇垂木の軒を支え、上下層とも銅板葺きとなっています。四天柱内を折上格天井とし虚空蔵菩薩を祀っています。江戸時代末期の文久元(1861)年、阿波藩第13代藩主の蜂須賀斉裕公が建立しました。国の登録有形文化財に指定されています。
辨才天堂
※辨才天堂
知慧財福を授ける神さまである弁財天が祀られています。妙音天とも呼ばれることから、音楽や芸能関係者からも尊崇されています。明治時代の1881年に建立されました。
本堂
※本堂
境内の西方に南面して建っています。五間堂の規模で正面のみ柱間を広くとり、三間となっています。入母屋造の銅板葺きで、四方に縁を廻らし、正面に一間の向拝が付属しています。内部の三間四方が内陣で、前一間が広い外陣となっています。江戸時代末期の嘉永5(1852)年に藩主の蜂須賀斉裕公によって建立されました。国の登録有形文化財に指定されています。
ご本尊は弘法大師が手ずから彫られたとされる虚空蔵菩薩で、丑年、寅年生まれの守り本尊となっています。
求聞持堂
※求聞持堂(門の奥にある建物)
弘法大師が求聞持法を修法されたことに由来していると思われます。五来重さんによれば、「日本でいちばん有名な求聞持堂」だとされます。他には、厳島の弥山、高野山真別所の求聞持堂が有名だそうです*8。
大師堂
※大師堂
境内の北西方、御影堂の前に東面して建っています。方三間で正面に一間の向拝を付属しており、四方に縁が廻らされています。入母屋造で銅板葺き、千鳥破風および軒唐破風付きです。御影堂を礼拝するためのお堂で、奥二間が内陣、前一間が外陣となっています。前殿の彫刻には、中国の「竹林の七賢人」や「司馬温公の幼年の逸話」などが彫られているそうです。明治時代の1877年の建立で、国の登録有形文化財に指定されています。
御影堂
※御影堂
御廟の橋、御廟の拝殿(大師堂)、御廟(御影堂)の配列が高野山奥之院と同じ配列になっています。このことからも、「西の高野」と呼ばれている格式の高さが分かります。弘法大師御廟である御影堂は、境内の北西方、大師堂の西方に東面しています。正面三間、側面二間、宝形造の銅板葺きで、正面と側面に縁を廻らしています。明治時代の1878年に建立されました。国の登録有形文化財に指定されています。
太龍寺ロープウェイ「山頂駅」
※「山頂駅」
太龍寺ロープウェイの「山頂駅」です。太龍寺ロープウェイは道の駅 鷲の里に併設された「鷲の里駅」から「山頂駅」まで全長2,775メートル、西日本で最長とされ、山越え、川越えをおこなう珍しいロープウェイだとされています*9。1台に最大101名乗れるそうで、所要時間は10分程度だそうです。
ここから石段を登っていくと、本堂の正面に出ます。
舎心嶽
※舎心嶽の弘法大師像(後ろ姿)
ロープウェイの「山頂駅」付近から、舎心嶽の方に歩いていくと、たどり着きます。平成5年に求聞持修行大師像が東向きに建てられましたが、これは明けの明星を拝するお姿だとされています。近くまで鎖を伝って歩いていくことができますが、命の保障まではできかねます。
太龍寺のご詠歌
ご詠歌とは、 四国八十八ヶ所の各霊場の特色を五・七・五・七・七の三十一文字で分かりやすく詠んだもので、民衆に各霊場の特色を分かりやすく教える意味合いがあります。
たいりゅうの つねにすむぞや げにいわや
しゃしんもんじは しゅごのためなり
(太龍の 常にすむぞや げに岩屋
舎心聞持は 守護のためなり)
漢字表記は一般社団法人 四国八十八ヶ所霊場会のホームページ*10によります。
このご詠歌に関しては、民俗学者の五来重さんはとくに何もおっしゃっておられませんが、とくに難解なご詠歌ではないように思います。ただ、現在の太龍寺には緑の大木が多く茂っており、それほど「岩屋」という印象を受けません。しかし、昔は岩屋が重要だったようです。五来重さんが『四国徧礼霊場記』を引用している箇所*11を、引用します。
『四国徧礼霊場記』は以下のように記しています。
是より三十町ほど辰巳の方にあたり、岩窟あり。なかばより両へ相わかれ、一方は龍王の窟いわやといふ。むかし大龍神の棲める迹とて石面に鱗形など歴然たり。奥に至り溜水澄湛なり。一方の窟は不動の窟といふ。此外霊窟ありときこゆ。他の記録を見ざるが故に詳かならず。惣じて真然しんぜん僧正の書玉ふ当寺の記ありといへり。
二つの窟に分かれていたといいますが、一方は龍の窟です。龍の窟は奥に向かって溜とまり水を澄み湛たたえてしました。二つの窟の左のほうが不動の窟、右のほうが龍の窟です。
少なくとも、江戸時代前期の寂本が『四国徧礼霊場記』を書いたころには、窟(岩屋)がまだ重要な意味を持っていたということでしょう。それゆえ、ご詠歌にも「岩屋」が詠われているのだと思います。
ちなみに、第45番札所の岩屋寺は現在も岩屋が重要な意味を持つお寺ですが、このお寺のご詠歌は「大聖の いのる力の げに岩屋 石のなかにも 極楽ぞある」で、「げに岩屋」の部分が完全に共通しています。
まあ意味はただの描写に過ぎず、太龍が本当に常に棲んでいる岩屋があるお寺で、弘法大師が舎心(※正しくは「捨身」と思われます。『阿波國太龍寺縁起』にもその記載があることは縁起の項で触れました)して求聞持法を修めたのは、国家守護のためである、ということです。
太龍寺へのアクセス
徳島県観光協会のホームページ「阿波ナビ」に詳しいアクセス情報が掲載されています。
www.awanavi.jp(2025.6.7閲覧)
公共交通機関
JR「阿南駅」から徳島バス88番「川口」行に乗車、「和食東」バス停下車、徒歩10分(※Googleマップでは17分)。太龍寺ロープウェイ「鷲の里駅」からロープウェイで約10分、「山頂駅」下車すぐ(JR「阿南駅」から約1時間)。
お車
徳島自動車道「徳島IC」から国道11号、55号線を南に約55分走行、国道195号線を西に約18分走行して小川橋を渡ってすぐに右折して県道283号和食勝浦線を北に1分走行、道の駅 鷲の里駐車場を利用して太龍寺ロープウェイにて登山。
または国道195号線を西に約12分走行、歩きへんろの標識に従って右折して県道28号阿南小松島線を北に3分走行、民宿ほたるの宿のところを左に入って山道を3.5km走行。やや広いスペース(駐車場とされる。トイレもある)に停め、山道を1.2km歩く。
駐車場あり。数台。志納金をお納めください。
太龍寺データ
ご本尊 :虚空蔵菩薩
宗派 :高野山真言宗
霊場 :四国八十八ヶ所 第21番札所
所在地 :〒771-5173 徳島県阿南市加茂町龍山2
電話番号:0884-62-2021
宿坊 :なし
納経時間:8:00~17:00
拝観料 :無料
URL :なし
境内案内図
www.seichijunrei-shikokuhenro.jp(2025.6.7閲覧)
上記サイトの当該箇所に境内の案内図があります。
第20番 鶴林寺 ◁ 第21番 太龍寺 ▷ 第22番 平等寺
南坊の巡礼記「太龍寺」(2020.8.11)
11時過ぎに第20番札所鶴林寺を出発したでしょうか。この後の記憶があいまいなのですが、おそらく道の駅で食事をとろうと思い、まずは道の駅 和食を目指したように思います。しかし、道の駅は閉まっていました。仕方なく、次の道の駅 鷲の里を目指しました。この道の駅に、太龍寺ロープウェイが併設されています。
ところが、こちらの道の駅もすべて閉まっています。やはりコロナ禍ということもあり、お店はやっていけないのでしょう。
ロープウェイは通常どおり営業しているようでした。ちょうど1台出るところだったようですが、うろついていたカップルは乗らないようでした。
受付のおばさんに道のことを聞きます。実は私はロープウェイが大の苦手でして、絶対に乗らないと心に決めています。しかし、西国三十三所第二十七番札所の圓教寺を訪れた際は、登りは歩きましたが、下りはロープウェイを使用しました。これは、駐車場を利用させてもらっているので、まったく乗らないわけにはいかないからです。
事前情報で、東からの山道の途中に駐車場があるということは知っていました。そこで、その辺のところを詳しくおばさんに聞きます。お話では、かなり道がせまく、何度か切り返しをしないと登っていけないようなところが何か所かあるようです。
しかし四国の方はこの辺がいいところですよね。ロープウェイを勧められることもなく、お気をつけて、と言ってくださいました。お遍路文化の賜物ですね。
ということで、山の東側に戻ります。国道195号線をしばらく走り、県道28号線に出ました。ナビに従って北上していきます。途中で違うところを登っていきそうになってしまいました。企業か何かが保有している、山林の入口でした。簡易なゲートがありました。
このあと、民宿ほたるのある辺りに到着しました。ここにも駐車場があります。ここは20台くらいは停められそうです。案内看板を見ると、ここから車で山道を3.5km登ると、駐車場があるようです。そこからは徒歩1.2kmということでした。
不安も大きいですが、やるしかないですね。
というわけで、山道に登りはじめます。最初はそれほど大したことのない道だと思っていましたが、すぐに後悔しました。ヘアピンのような九十九折の道がしばらくつづいていきます。
幸い、切り返しをしないと曲がり切れない、というのは1回だけでした。愛車はFITなので、比較的小回りがききます。途中、郵便屋さんのバイクに抜かされました。しかしなかなか駐車場に到着しないので、不安が最大になっていたころ、ちょうど郵便屋さんが戻ってこられました。お話を聞いたところ、少し先に空き地があるということでした。
そこを目指して頑張って進みます。しばらく進み、ようやくその空き地に到着しました。駐車場と書いてあったかどうか記憶が定かではないのですが、私のメモには「トイレもある」と書いてありました。なお、車道は途中から登り専用と下り専用に分けられていました。
1台も停まっていなかったので、停めていいのかどうか不安だったのですが、仕方ありません。車を適当に停めました。確か白線も引かれてなかったと思います。
さあ、ここからは約30分、山道を歩いていくことになります。身支度を整えて、出発しました。
道はコンクリートのようなもので舗装されているので、あまり山道然とはしていません。しかし傾斜はまあまあ急でした。途中、1回だけ休憩をとりましたが、蜂の巣が近くにあったので、あまり休んでいられませんでした。すぐに出発です。
そうこうしているうちに、ようやく山門にたどり着きました。ガタイのいいお兄さんが下ってこられ、「歩きですか?」と聞かれましたが、「車です」と答えました。歩き遍路の人って、仲間を探したくなるんですよね。私も通しで歩いたので、分かります。
山門からはさらに傾斜がきつくなりましたが、しばらく歩くと開けたところに着きました。納経所等がここにありました。駐車場から30分ほどと言われていましたが、私は24分で到着しました。
身支度を整え直し、本堂へ向かいます。しかしこの納経所から本堂までもまた石段などがあり、結構大変でした。かなり大きな伽藍です。本堂で納経をした後、大師堂へ向かいます。大師堂までも、少し歩きました。大師堂の裏には弘法大師の御廟がありました。「西の高野」と言われるだけのことはあり、立派なお寺です。
納経所はおばさんでした。確か駐車場に停めているということで、志納金を500円ほどお納めしたように思います。代わりに、ステッカーをいただきました。この辺は第20番札所の鶴林寺と同じですね。
山門へ向けて歩き始めると、伽藍の入口付近で母娘連れとすれ違い、挨拶を交わしました。人影はまばらだったので、珍しかったですね。
山門で写真を撮ったあと、下山を開始します。途中でカップルとすれ違いました。やはり挨拶を交わします。かなりしんどそうでした。彼らにとっては、まだ序盤の辺りだったと思います。こちらにとってはゴール近くということになりますが。
駐車場まで降りてくると、白いセダン1台と軽っぽいSUV車が停まっていました。SUVの方とは挨拶を交わしました。しかしこの方は太龍寺の参拝ではなく、登山が目的のように思われました。
駐車場に湧き水があり、手と顔を洗いました。冷たくて、歩いた後にはとても気持ちいいです。
さあ、これで第21番札所太龍寺の参拝は終了です。次の第22番札所平等寺を目指しましょう。いよいよ徳島県の終わりが見えてきました。
南坊の巡礼記「鶴林寺」(2020.8.11) ◁ 南坊の巡礼記「太龍寺」(2020.8.11)
南坊の巡礼記「太龍寺」(2020.8.11) ▷ 南坊の巡礼記「平等寺」(2020.8.11)
*1:一般社団法人四国八十八ヶ所霊場会ホームページ「各霊場の紹介『第二十一番』」2025.6.7閲覧
*2:徳島県観光協会ホームページ「徳島県観光情報サイト阿波ナビ『第21番札所 太龍寺』」2025.6.1閲覧
*3:四国遍路 聖地巡礼「徳島編 | 歩き遍路のための「四国遍路」巡礼マップ『21番札所太龍寺』」2025.6.1閲覧
*4:所収 塙保己一編『続群書類従 第28輯上 釈家部』八木書店(2013)
*5:五来重『四国遍路の寺 下』角川書店(1996)
*6:五来重『四国遍路の寺 下』角川書店(1996)
*7:四国ケーブル株式会社ホームページ「太龍寺ロープウェイ」2025.6.1閲覧
*8:五来重『四国遍路の寺 下』角川書店(1996)
*9:四国ケーブル株式会社ホームページ「太龍寺ロープウェイ」2025.6.1閲覧
*10:一般社団法人四国八十八ヶ所霊場会ホームページ「各霊場の紹介『第二十一番』」2025.6.7閲覧
*11:五来重『四国遍路の寺 下』角川書店(1996)