
四国八十八ヶ所の第22番札所は、 白水山はくすいざん医王院いおういん平等寺びょうどうじです。第20番札所鶴林寺、第21番札所太龍寺と難所と言える山寺がつづきましたが、太龍寺から麓に下りて、峠を一つ越えたところにある平地のお寺です。インターネットによる情報発信に力を入れているお寺でもあります。
平等寺の巡礼情報
平等寺は、四国八十八ヶ所の第22番札所となっています。山寺を二つ打ち、さらに峠を一つ越えたところにあるお寺なので、たどり着いたときはほっとします。平地のお寺とはいえ、山裾に建っているため、境内には高低差があります。インターネットによる情報発信に力を入れていて、本堂内や境内のライブ配信もやっておられます。
平等寺の縁起
平等寺の成立縁起は、平等寺のホームページに記載されています。
byodoji.jp(2025.7.12閲覧)
それによりますと、平等寺は平安時代前期の弘仁5(814)年に、四国巡錫中の弘法大師が開かれました。
大師がこの新野の地に到着された際、清らかな水を求めて井戸を掘ったところ、乳白色の水が湧いたそうです。そこで大師はこの地が密教の修行の地として適していると感じとられ、この地に滞在されました。
ある時、瞑想にふけっていると、五色の光とともに空中に梵字が現れ、梵字が次第に薬師如来に変わられました。そこでそのお姿をお手本として、一刀三礼して木に刻まれたのが、弘法大師御作の平等寺ご本尊、薬師如来です。
大師は彫刻した薬師如来像をご本尊として安置し、この薬師如来の功徳によって「人々の苦しみを平等に癒し去る」と誓いを立てられ、百日間の護摩行をおこなわれて、翌年に四国巡錫を再開されたそうです。
南北朝時代には、平等寺の住職が熊野先達として、多くの人々とともに熊野詣をおこなっていたそうで、「熊野那智大社文書」に記録が残っているようです。
一方、戦国時代にはこの地も三好長治と細川真之の争いに巻き込まれたようで、山岳寺院としての平等寺は、面影を失ってしまいました。
江戸時代に入り、延宝8(1680)年、愛媛の西山興隆寺から照俊しょうしゅん阿闍梨と二人の付き人が平等寺にやってきました。照俊阿闍梨は荒廃していた平等寺の様子を見て、当時の住職とともに伽藍の復興にとりかかりました。まずは鐘楼門を建立し、次に本堂の再建に努めます。
照俊阿闍梨の死後、その遺言に従った槐翁かいおうの代に本堂が落慶しました。江戸時代中期の享保7(1722)年のことです。さらに次代の慧燈けいとうの時、元文2(1737)年には薬師堂が建立されました。方丈や本坊なども整い、本堂は弘法大師御影堂として、薬師堂は本堂として運用されるようになりました。
その後、江戸時代後期には「白水精舎」という名で版木を制作し、四国遍路のガイドブックなどを出版していたそうです。しかし、旧本堂であった弘法大師御影堂は失火により焼失、文政7(1824)年に再建されました。
明治時代以降も、西宥賢師や谷口津梁師などが努力をつづけられ、伽藍が現在のように整備されていきました。そして、現左に至ります。
例によって五来重さん*1の著作をひもといてみます。現在の札所の姿とは、少し異なる様子がうかがえます。
二十二番の平等寺びょうどうじは札所でいちばん貧弱との評判があるくらいですが、本堂と庫裡くりと十王堂があります。札所は死者供養が一つの大きな任務でした。
五来重さんのころは、平等寺が退潮にあったことがうかがえます。しかし、私が2020年と2021年の2回うかがった、現在のお寺の様子を鑑みると、とても貧弱とは言えない立派なお寺になっています。先人のみなさんの尽力、努力があったのですね。
平等寺の見所
平等寺の見所をご紹介します。
山門

※山門
山門(仁王門)です。地元の大工關山氏を棟梁として、1932年に再建されました。下から見上げる形になっており、非常に風格のある山門です。
鐘楼堂

※鐘楼堂
戦時中は金属の供出で梵鐘もなくなっていたそうですが、戦後に鐘楼堂ともども、再建したそうです。
開運鏡の井戸

※開運鏡の井戸
弘法大師が掘ったところ、乳白色の水が出たとされる井戸です。水は現在は無色透明になっているそうですが、どんな日照りでも涸れることなくこんこんと湧きつづけているそうです。また、この水は万病に効く「弘法の冷水」として知られ、用意されている容器に入れて持ち帰ることができます。
本堂

※本堂
厄除けの男坂と呼ばれる石段を登ったところにある本堂です。縁起のところで述べたとおり、もともとは薬師堂として建立されました。建立は江戸時代中期、中興三世の慧燈けいとうの時代の元文2(1737)年です。
本堂には箱車と呼ばれるものが納められています。箱車とは、歩けない人を載せて引っ張っていった車いすのようなものです。平等寺に納められている箱車に関しては、筒井林之助と福次親子のお話が伝わっています。
1921年、筒井林之助は脊髄の病気で足が動かなくなってしまいました。あらゆる治療法、名医と呼ばれる医者を訪ねましたが、病気は悪化する一方でした。そこで福次は箱車を制作し、林之助を載せて第35番札所清瀧寺から四国遍路をスタートさせました。二人は1923年10月、高知、愛媛、香川と巡ってついにこの徳島県の平等寺にまで到着しました。よほど疲れていたのか、二人はこの平等寺に4週間ほど逗留します。その間、「弘法の霊水」を飲んだり、住職の谷口津梁師の加持祈祷を受けたりしていたところ、ついに林之助は杖をつけば歩けるまでに回復しました。そこで箱車を薬師如来さまの座す本堂に奉納し、自分の足で歩いて結願されたということです。
不動堂

※不動堂
不動堂です。本堂と同じレベル、本堂に向かって左側にあります。ここから厄除けの女坂と呼ばれる石段をくだっていくと、大師堂の方に出ます。
観音堂

※観音堂
女坂を下りてきたところにある観音堂です。
大師堂

※大師堂
弘法大師が祀られている大師堂です。江戸時代後期の文政7(1824)年に再建されました。
平等寺のご詠歌
ご詠歌とは、 四国八十八ヶ所の各霊場の特色を五・七・五・七・七の三十一文字で分かりやすく詠んだもので、民衆に各霊場の特色を分かりやすく教える意味合いがあります。
びょうどうに へだてのなきと きくときは
あらたのもしき ほとけとぞみる
(平等に へだてのなきと 聞く時は
あらたのもしき 仏とぞみる)
漢字表記は一般社団法人 四国八十八ヶ所霊場会のホームページ*3によります。
「あら」とは感嘆詞ですので、「ああ」などと訳すことができます。そう考えると、「平等寺の薬師如来さまが平等に分け隔てがない、と聞く時は、ああ頼もしい仏さまだなあ」という感じの意味になるでしょうか。
ただ、ここで注意したいのは、「あらたの」という言葉です。平等寺のホームページ*4によると、この地域が南北朝時代からすでに「あらたの」と呼ばれていたことが分かります。新野町から北に山を一つ越えた丹生谷の大宮八幡神社には、南北朝時代の『大般若経』六百巻が現存していて、寄進者の名前に「阿良多野成信」の名前が見えるそうです。この「阿良多野」は現在の新野町の昔の表記で、また「荒田野」とも書いたそうです。
つまり、このご詠歌は、「あらたのもしき」と詠っている部分に、「あらたの」という地名を織り込んでいるわけですね。このようなおしゃれなご詠歌は初めてかもしれません。
平等寺へのアクセス
平等寺のホームページに詳しいアクセス情報が掲載されています。
byodoji.jp(2025.7.12閲覧)
公共交通機関
JR「新野駅」から徒歩約30分。
お車
徳島自動車道「徳島IC」から国道11号、55号線を南に約60分走行、「平等寺」への案内標識に従って右折して県道35号線を西に約7分走行、案内標識に従って右折して県道284号線を北へ約1分走行、案内標識に従って左折して約1分走行。
駐車場あり。約30台。

※平等寺駐車場 山門前にある
平等寺データ
ご本尊 :薬師如来
宗派 :高野山真言宗
霊場 :四国八十八ヶ所 第22番札所
所在地 :〒779-1510 徳島県阿南市新野町秋山177番地
電話番号:0884-36-3522
宿坊 :あり。要問い合わせ
納経時間:8:00~17:00
拝観料 :無料
URL :https://byodoji.jp/
境内案内図
www.seichijunrei-shikokuhenro.jp(2025.7.12閲覧)
上記サイトの当該箇所に境内の案内図があります。
第21番 太龍寺 ◁ 第22番 平等寺 ▷ 第23番 薬王寺
南坊の巡礼記「平等寺」(2020.8.11)
太龍寺の参拝を終えたところで13時くらいだったでしょうか。山道を歩いて駐車場まで戻り、そこから車で山道を下っていきました。
山道は細く、切り返しをしないと通れないぐらいのところもあります。歩いて下りている方々もいらっしゃり、ちょっとご迷惑をおかけしました。とくに、外国人の長身の男性と女性のグループの方は、ここは車道じゃないよという顔で、見ておられました。
下まで戻ると、県道28号線を南下します。すぐに国道195号線まで戻ってきました。ここから東へ進みます。
県道284号線が平等寺への近道なのですが、この道は細く、離合が困難なところもあります。そこで、県道24号線まで戻っていきました。
24号線を南下していくと、平等寺への案内標識が出てきます。あとは標識に従い、14時ごろに平等寺山門前の駐車場に到着しました。
お寺は田んぼや住宅の中にある印象です。山門は非常に立派でした。
早速中に入ります。境内ではジュースやアイスクリンなどを売っている屋台のようなものがありました。こういう形でお寺の中にお店があるのは、札所で初めてかもしれません。
第19番札所立江寺、第20番札所鶴林寺で見た男の子2人連れの家族をここでも拝見しました。どうしても車遍路だと、時間が重なりますね。
本堂までの階段は、まあまあしんどい感じでした。本堂ではお坊さまお二人が読経中であったため、こちらはあまり大きな声で納経できませんでした。その後、大師堂ではきちんと納経できました。これで、参拝は終了です。
納経所は若奥さんとでもいうべき女性でした。今までの納経所で一、二を争う若さですね。こういう方もいらっしゃるんですね。
さあ、これで平等寺でやるべきことは終わりました。次のお寺、薬王寺を目指します。
南坊の巡礼記「太龍寺」(2020.8.11) ◁ 南坊の巡礼記「平等寺」(2020.8.11)
南坊の巡礼記「平等寺」(2020.8.11) ▷ 南坊の巡礼記「薬王寺」(2020.8.11)
*1:五来重『 四国遍路の寺 下』角川書店(1996)
*3:一般社団法人四国八十八ヶ所霊場会ホームページ「各霊場の紹介『第二十二番』」2025.7.12閲覧
*4:平等寺ホームページ「平等寺の歴史」2025.7.12閲覧