西国お遍路“行雲流水”

西国三十三所や四国八十八ヶ所を雲のごとく水のごとく巡礼した記録

王城の鎮護 日本仏教の総本山 比叡山延暦寺に行ってました! その2「西塔地域」

常行堂(左)と法華堂(右)

2021年5月6日のお話です。西国三十三所の巡礼のお礼参りとして、比叡山延暦寺をお参りしていました! お礼参りを果たしてから2年近い月日が経ちましたが、ようやくのブログ投稿で、前回の東塔とうどう地域につづく、西塔さいとう地域のレポートです。

西国三十三所お礼参り 比叡山延暦寺西塔地域参拝レポート!

延暦寺とは、比叡山の1700haの山内境内地に点在する堂宇の総称とされます。大きく分けると三つのエリアに分かれており、東が「東塔とうどう」地域、西が「西塔さいとう」地域、北が「横川よかわ」地域です。この三つの地域を三塔と呼んでおり、比叡山延暦寺の信仰の中心となっており、それぞれに本堂があります。

ここでは、西塔地域についての情報を掲載します。

比叡山延暦寺の縁起

比叡山延暦寺の成立縁起については、「王城の鎮護 日本仏教の総本山 比叡山延暦寺に行ってました! その1「東塔地域」」ですでにレポート済みですが、このページからご覧になる方のために、重複をあえて承知で掲載させていただきます。

延暦寺縁起物語のようなものは比叡山延暦寺の公式ホームページには掲載されていません。むしろ「歴史」として、文献学上の成果としての成立史を掲載しておられます。

www.hieizan.or.jp(2023.3.15閲覧)

伝教大師最澄は、延暦4(785)年に奈良の東大寺戒壇院具足戒(※小乗仏教の戒律)を授けられ、正式な僧侶となりました。

受戒後3か月ほどで奈良を離れ、比叡山に分け入り、修行の生活に入ります。この時、願文を作り、一乗(※衆生を救う一つの大きな乗り物)の教えを体得するまで山を下りないことを誓いました。その後、延暦7(788)年に一乗止観院(後の根本中堂を創建し、本尊として薬師如来を刻んだということです。

一方で、『山家要記浅略』*1には、縁起物語とも言うべきお話が書かれています。以下、簡略化した物語を掲載しておきます。

 

~延暦4(785)年7月17日、神宮寺より出て初めて山に登られました。高い山、険しい谷に分け入り、雲を踏んで登り、風をつかんでよじ登られました。向かって見れば千仞の谷は豪雨のようになっており、下を見れば万丈の巌が濃霧のように見えました。18日、無窮の山々を経て、人神の壮麗なさまをご覧になりました。聖賢が遊び、霊仙の窟宅となっていないところはありませんでした。

24日、北に向かって山林を行き、一人の霊童に会われました。伝教大師さま(※最澄が「あなたは誰ですか?」と問われました。童子は「私は天地四方の霊童です。衆生の本来の命は生きる神と同じです」と答えました。大師さまがさらに問うと、童子は「一度だけ名号を称えても、功徳は虚空のようなものです。私は尽きることのない本願を誓い、皆ことごとく円満となることを願っております」と答えました。大師さまは恭しく申し上げました。「私は宮中の十禅師に帰依しました。ここは清浄で涅槃寂静と知恵の光のあるところです。行住坐臥の四威儀を正して、煩悩の炎を断ち切りたいと思います」と。すると霊童は重ねて示し、「あなたは修行をして衆生を教化することが二度あり、そのことはすでに終わっています。今回こそ私の前で明らかにしようとせずして、どうして生死の尽きないことを知ることができるでしょうか」と言いました。

26日、東方に向かい非常に高い山を越え、高い岩山をさまよい、落ちた石を砕く音が響きました。一人の神の化身が現れました。身長は一丈(※約3メートル)余りで、頭には金色の光を帯びていました。神の化身は「未だ惑いを断ち切っていない者は、私に従って来ても、善を宿しても増えず、ここに来ても悟りを得難いのではないか」と問いました。大師さまは「私は昔霊山で、法華経の聴衆を務めていましたが、仏の教えに入るのは難しく、諦めて凡事に務めてしまいました」と答えました。大師さまはさらに、「あなたは何の化身ですか?」と問われました。すると神は「私は山王である。日本の冥土の神である。陰陽は測らず、造化もなすことはない。しかし心は森羅万象の本性に遊び、変化は真実の姿を模範とする。誓願は仏さまに次ぎ、国を護ることを心している」と答えました。

神の化身は空に上って神変を現しました。また神は「あなたはどのような志と願いがあるのか」と問いました。すると大師さまは、「この世は平安がなく、あらゆる生物は安心して暮らせません。願わくばこの山を開き、ともに伽藍を建てたいと思います。国家を擁護し、人々に恵みを与えたいのです。あなたのような立派な神さまが加持してくだされば、私の大願も必ず成就するでしょう」と答えました。神は「ここは小さいながらも霊山であり、この金剛山に僧が来て人々を教化することを私も期待していた」と応えました。大師さまは「冥土の神さまの本地は何ですか?」と問われました。神は「今この世では、皆どこにでも私はいる。それ衆生の中にあって、ことごとく皆、私の子である」と答えました。この時、大地が震動し、天からの雨は妙なる花のようで、宝塔が空に現れました。二尊の仏さまが同座しておられ、とても円満なご様子でした。よろしく妙法をお説きになられ、数え切れない菩薩さま、悟りを開いた人、開こうとしている人、天龍八部衆など、囲んでお説法を聞いておりました。霊山の一帯は、この時霊験に満ちていました。

西を見るとまた険しい山でした。二人の聖人がやって来て、すぐにここで会合しました。霊験を得てご利益を請い、誓いを発することをそれぞれ知りました。

大師さまはまた南の峻険な嶺に登られました。すぐに五百もの賢人や聖人が悟りを開いている地に至りましたが、彼らの座り方や作法は同じではありませんでした。ある者は目を閉じて念じており、ある者は上を向いて思惟にふけっていました。またある者は誦経しており、ある者は手に印契を結んでいました。大師さまは「この山はどのような徳があるのですか? 皆さんはほめたり讃えたりしておられます。皆さんは何を願っておられるのですか? この山では皆さん一所懸命修行しておられます」と問われました。すると聖人が「この霊山は修行に応じて報われる果報土であり、地獄の劫火でも壊れることはありません。涅槃寂静の地であって、どうして汚れることがあるでしょうか。我々の願力をもって、世にとこしえに住みたいと思っています。心を澄まして涅槃寂静の境地に至り、弥勒菩薩のご出現を待ちましょう」と答えました。

すべて延暦4年7月から翌年の3月までの出来事です。比叡山の結界のことです。~

比叡山西塔地域の縁起

西塔地域の本堂である釈迦堂に関する縁起が、『三塔諸寺縁起』*2に書かれています。以下、簡略化した物語を掲載しておきます。

 

釈迦堂。はじめ、延寿が三間の板屋を建立しました。後に一般の僧侶たちが五間の東屋に改造しました。最初の二棟は延最の造ったものではありません。元慶がんぎょう年中(877~885)に延最が、狭く小さいのを嘆き、僧侶たちに呼びかけ、また件のお堂を改造し、檜皮葺のお堂にしようとしました。仁和の先帝(※光孝天皇か?)が皇太子であった時に、延最の立派な志を助けようとなされ、多くのものを下賜してくださいました。堂宇の荘厳さは、以前の何倍にもなりました。現存している(※少なくとも建武4(1337)年よりも前)御願の大堂がこれです。光孝天皇が即位された後、御願をなして仏聖に燈油を置き、僧侶らに決まった額を供えるよう申してくださいました。修行をする人は絶えず、師の跡もとこしえにつづいています。西塔の興隆は延最より始まります。~

比叡山延暦寺西塔地域の見所

比叡山延暦寺西塔地域の見所をご紹介します。

浄土院(伝教大師御廟)

※浄土院(伝教大師御廟)

比叡山の開祖、伝教大師最澄御廟で、比叡山中でも最も清浄な聖域とされます。伝教大師は弘仁13(822)年6月4日、中道院にて56歳で入寂されました。弟子の慈覚大師円仁が、仁寿4(854)年7月、この地に中国五台山竹林院を模して御廟を建立され、大師のご遺骸を祀られました。この御廟を守る僧侶のことを侍眞といい、一生下山しない覚悟で霊前のお給仕に勤めておられるそうです。御廟前の玉垣の辺りには、沙羅双樹と菩提樹が植えられており、極楽浄土の雰囲気を醸し出しています。

参拝の際は西塔地域の駐車場からの方が近いですが、所属は東塔地域となっています。

椿堂つばきどう

※椿堂

その昔、聖徳太子が比叡山に登られた際、手に持っていた椿の木でできた杖を地面に挿したところ、その椿が芽を出して大きくなったとされます。この故事から、このお堂は椿堂と呼ばれています。お堂の傍らには、その故事に因んだ椿の大木があります。ご本尊は千手観世音菩薩です。

親鸞聖人修行の地

※親鸞聖人ご修行の地

浄土真宗の開祖、親鸞聖人が修行していたところとされています。また、近くには親鸞聖人住持の寺とされる聖光院跡もあります。

※聖光院跡

常行堂じょうぎょうどう

※常行堂

左側の常行堂、右側の法華堂と、まったく同じ形をしたお堂が廊下によって繋がっています。弁慶が両堂をつなぐ廊下に肩を入れて担ったとの言い伝えから、にない堂とも呼ばれています。常行堂は桁行五間、梁間五間、一重、宝形造、栩葺の建物で、正面に一間の向拝がつけられています。阿弥陀如来がご本尊で、四種三昧のうち、常行三昧を修行するお堂です。文禄4(1595)年に建てられたもので、国の重要文化財に指定されています。

法華堂

※法華堂

左側の常行堂、右側の法華堂と、まったく同じ形をしたお堂が廊下によって繋がっています。弁慶が両堂をつなぐ廊下に肩を入れて担ったとの言い伝えから、にない堂とも呼ばれています。渡り廊下は桁行四間、梁間一間、唐破風造となっています。法華堂常行堂と同じく桁行五間、梁間五間、一重、宝形造、栩葺の建物で、正面に一間の向拝がつけられています。普賢菩薩がご本尊で、四種三昧のうち、法華三昧を修行するお堂です。文禄4(1595)年に建てられたもので、国の重要文化財に指定されています。

恵亮堂えりょうどう

※恵亮堂

西塔地域中興の祖、恵亮和尚ご本尊として祀っています。恵亮和尚は修力霊験に優れていたとされ、京都妙法院を創建したと言われています。『三塔諸寺縁起』*3によると、恵亮は嘉祥年間(848~851)に後述する「浄菩提無垢浄光摩尼幢相輪橖」を守るために寶幢院を建立したとされています。

釈迦堂(転法輪堂)

※釈迦堂

西塔地域の本堂にあたります。正式には転法輪堂と言いますが、ご本尊伝教大師最澄お手製の釈迦如来立像であることから、釈迦堂の名で知られています。延暦寺に現存する最古のお堂で、元は大津の園城寺三井寺金堂であったものを、豊臣秀吉が命じて、文禄4(1595)年に移築したものとされます。園城寺で造営されたのは、貞和3(1347)年とされます。桁行七間、梁間七間、一重、入母屋造、栩葺形銅板葺の建物で、国指定の重要文化財となっています。

鐘楼

※鐘楼

西塔地域の鐘楼です。釈迦堂左手の高台にあります。

相輪橖そうりんとう

※相輪橖

高さは11.65メートルあり、明治28(1895)年ごろに改鋳が完成した青銅製の相輪橖です。相輪とは、一般的に塔の最上層に取り付けられているもので、ここでは幢柱に取り付けています。礎石の上に木製の心柱を立て、擦管・受花・九輪・火焔付宝珠を順番にかぶせて組み立て、四本の支柱で支えています。オリジナルは最澄が弘仁11(820)年に創建したもので、正しくは「浄菩提無垢浄光摩尼幢相輪橖」と呼びます。最澄が各所に建立した六所宝塔の一つで、中には「妙法蓮華経」「毘盧遮那経」が納められたと伝えられています。国の重要文化財に指定されています。

弥勒石仏みろくせきぶつ

※弥勒石仏

比叡山最古の石仏とされている、弥勒菩薩の石像です。

比叡座延暦寺のご詠歌

比叡山には叡山流ご詠歌というものがあり、叡山講福聚教会によって大切に受け継がれています。それらは、いくつかの種類に分けられます。

① 比叡山讃歌

② 比叡山佛道讃仰和讃

③ 傳教大師誕生和讃

④ 傳教大師開宗和讃

⑤ 傳教大師伝法和讃

⑥ 傳教大師入寂和讃

⑦ 傳教大師妙華和讃

⑧ 傳教大師讃仰和讃

などです。これらは、叡山講福聚教会総本部が作成したYouTube(2023.3.15閲覧)にて拝聴することができます。

寡聞にして、西塔地域に該当するご詠歌がどれかは、判別できませんでした。

比叡山延暦寺西塔地域へのアクセス

比叡山延暦寺ホームページに詳しいアクセス情報が掲載されています。

比叡山延暦寺ホームページ「交通案内」(2023.3.15閲覧)

公共交通機関

京阪石山坂本線「坂本比叡山口駅」下車、徒歩10分で坂本ケーブル「ケーブル坂本駅」乗車。坂本ケーブル「ケーブル延暦寺駅」から徒歩約30分。

延暦寺バスセンター」バス停から比叡山シャトルバスで約3分。「西塔」バス停下車。

お車

国道161号線西大津バイパスから近江神宮ランプで下り、比叡山ドライブウェイ(東塔まで往復1,700円)を北上。約30分。

駐車場あり。普通車60台程度。無料(有料道路通行料に含まれる)

比叡山延暦寺西塔地域データ

ご本尊 :釈迦如来

宗派  :天台宗総本山

霊場  :西塔地域としては特になし

    (※東塔地域を参照してください)

所在地 :〒520-0116 滋賀県大津市坂本本町4220

電話番号:077-578-0001

拝観時間:9:30~16:00(1月~2月)

     9:00~16:00(3月~11月)

     9:30~16:00(12月)

拝観料 :東塔・西塔・横川地域共通 大人1,000円 中・高校生600円 小学生300円

     国宝殿のみ 大人500円 中・高校生300円 小学生100円

境内案内図

比叡山延暦寺ホームページ「境内案内『西塔』」(2023.3.15閲覧)

上記サイトに案内地図があります。

※パンフレット掲載の略図

南坊の巡礼記「比叡山延暦寺西塔地域」(2021.5.6)

午前中に東塔とうどう地域を巡り、根本中堂を参拝して無事に西国三十三所のお礼参りを果たしました。後は、比叡山延暦寺境内を巡拝してレポートするだけです。何しろ、比叡山は山上に大きく三つの伽藍が点在しており、まだそのうちの一つ、東塔地域を参拝しただけなのです。

というわけで、次の西塔さいとう地域を目指します。

その前に、少し寄り道して比叡山山頂へ行ってみることにしました。素晴らしい景色が待っているといいですよね。

山頂へ行くには、いったん南へ戻り、比叡坂本ケーブルの「ケーブル延暦寺駅」あたりの分かれ道で、上にあがっていかなければなりません。東塔地域の駐車場からだと、4分ほどで山頂駐車場に到着します。標高は、813メートルあるそうです。

車を停めて、しばし散策します。

※ガーデンミュージアム比叡入口

やはりコロナ禍(※2021年5月6日)ということもあり、こういったところは休園されてますよね。それにしても、ここでも戦国BASARAとのコラボが行われているようです。

さて、山頂からの景色です。

※京都方面の景観説明板

どうやら、京都市内が一望できるようです。

※琵琶湖側の景色

木が邪魔ですが、琵琶湖が見えます。

ん? なぜか京都側の景色の写真を撮っていませんでした。

そして実は、少し下ったところにある展望スペースからの景観の方が素晴らしいです。

※琵琶湖(近江大橋方面)

さあ、気を取り直して西塔地域を目指しましょう。

上ってきた道を下り、東塔地域の駐車場前を過ぎて、さらに北へ進みます。頂上からは、車で6分ほどで西塔地域の駐車場に到着しました。

実はこの日は桜祭りか何かで、駐車場にテントが立っており、何かのお店が開かれていました。ピンクの法被を着た方が数名いらっしゃいました。

※奥比叡の八重桜

下界では桜はとっくに散っていますが、比叡山ではわずかばかり残っていますね。

西塔伽藍は、この駐車場から少し下っていったところです。

※西塔地域入口

ここが、西塔地域の伽藍の入口になります。ここで13時3分でした。

※入口のアーチ

アーチのようなものをくぐり、西塔伽藍の方へ入っていきます。いただいていたマップによると、伝教大師最澄御廟があるそうです。まずは、そちらの方へ向かうことにしました。

※分岐点

下っていったどん突きが、分岐点になっています。右が最澄御廟浄土院です。左は西塔地域の伽藍になっています。13時4分でした。

※浄土院参道

意外と遠そうな雰囲気ですが、まだ13時5分です。入口から、2分しか経っていません。

※浄土院?

浄土院らしき建物が見えてきました。時刻は13時9分になっていました。

さらに1分後、浄土院の入口に到着です。

※浄土院入口

高野山で言えば、奥之院に当たる場所であり、さすがに清浄な、厳かな雰囲気があります。参拝者は私の他に誰もおらず、私の立てる音を除けば、静まり返っていました。

※浄土院の御廟

しかし、高野山の奥之院は今でも大勢の方がお参りされるだけに、ちょっと寂しい気もしますね。

この後、分岐点まで戻りました。分岐点のすぐ近くに参拝受付があり、そこで共通券を見せて西塔伽藍へと入っていきました。とりあえず、釈迦堂の方を目指すことにします。

※椿堂を上から望む

参道を歩いていると、右下に椿堂がありました。最初は、スルーしてしまいました。

※箕淵辯財天

※真盛上人修学之地

参道の左側には、箕淵辯財天、「親鸞聖人ご修行の地」や「真盛上人修学之地」などがありました。それにしても、苔がいい感じですね。

参道を進んでいくと、またもや戦国BASARAコラボです。

※親鸞聖人旧跡と戦国BASARA

うーん、これって大丈夫なんでしょうか……。この人、比叡山を焼き討ちしてますよね? 何千人もの方々がこの人のせいで、この山で亡くなっていると思うのですが……。まあ、もう過去のことだから水に流したのでしょう!

上の写真ですでに見えていましたが、参道に戻るともう弁慶にない堂のところです。ここで13時21分でした。

※弁慶のにない堂(左が常行堂 右が法華堂)

ここまで来て、ふと思い出したことがあります。実は、小学校時代に妹と何かのバスツアーで比叡山に来ていたのです。しかも、小学生なのに我々二人だけで参加していたのですが、うちの母親は時々、謎のスパルタ教育を実践するのでした。他の参加者の方は皆さん親子連れでしたので、ついには他のご家族の親御さんからアイスクリームか何かをご馳走になったような気もします。まあとにかく、その記憶を思い出しました。確か、ここでお弁当を食べたように思います。

いやあ、懐かしいなあと思いながら左右のお堂を写真に収めました。左が常行堂、右が法華堂です。両お堂は渡り廊下でつながっており、天秤棒のように見えることから、弁慶が両お堂を担いだという伝説が残っているそうです。それで、「弁慶にない堂」と言うわけですね。

渡り廊下をくぐり、さらに参道を進みます。釈迦堂までは、下り道でした。

※釈迦堂までの参道

なぜか若いカップルも何組かいらっしゃいました。ここは東塔地域よりも参拝者が少なく、静かなのでデートスポット向きなのでしょうか。

釈迦堂までの参道の途中には、右側に西塔政所が、左側に恵亮堂があります。

※西塔政所

※恵亮堂

13時24分、釈迦堂前までやって来ました。

※釈迦堂

釈迦堂は中に入ることができます。ご本尊はもちろん釈迦如来です。中で参拝を済ませました。

釈迦堂の左手、少し高くなっているところに鐘楼があります。

※鐘楼までの石段

※鐘楼までの石段から釈迦堂を望む

釈迦堂の周りには、いろいろありました。

※平和地蔵

※釈迦伝絵看板

お釈迦さまの生涯を描いた絵看板もあります。また、法然上人の絵看板もありました。

※法然上人伝絵看板

法然上人の絵看板は古すぎて、かなりインクがかすれています。

釈迦堂周辺を見て回りましたので、次は弥勒石仏を見にいきたいと思います。どうやら、釈迦堂の裏手から山道を進んでいくようです。

※山道1

上の写真のような山道を進んでいきます。案内があるところと、ないところがあったように思います。

※日蓮上人旧蹟の道標

上の写真のような道標もありました。ただ、日蓮上人の旧蹟は横川よかわ地域となります。歩いていけなくもないですが、今回は車で横川地域まで移動するので、後回しになります。

※山道2

それにしても、きちんと整備されていていい山道です。歩きやすかったですね。

ただ、道標や案内板などを見落としてしまっていたのか、道に迷ってしまいました。真っ直ぐ弥勒石仏に向かっていたつもりだったのですが、何と相輪橖の裏側に出てきてしまいました。ここで13時35分です。

※相輪橖の裏側

※相輪橖

ここからまた山道を戻り、弥勒石仏を目指します。すると、またもや道に迷い、相輪橖の裏に出てしまいました。迷宮入りしたような感覚で、ちょっと焦りました。

落ち着いてもう一度案内板を探し、ゆっくりと歩いていくと、どうにか弥勒石仏まで到着しました。13時42分になっていました。

※弥勒石仏

弥勒石仏さまはお顔がかなり摩耗していて、とても味わいがある仏さまでした。周りの小さい石仏もかわいいですね。

さあ、これでお参りしたいところはすべて回れたと思います。最後は、上から眺めただけの椿堂を目指して、釈迦堂方面に戻ることにしました。

途中で、行きは通過しただけの恵亮堂も見ておきました。

※恵亮堂

13時47分になっていました。

にない堂渡り廊下をくぐり、受付の近くまで戻っていきます。直に、椿堂までやって来ました。13時51分です。

※椿堂

椿堂は、聖徳太子ゆかりのお堂です。

この西塔地域も、お釈迦さま、聖徳太子最澄法然親鸞と倫理の教科書に登場する方々に関連するお堂などのオンパレードですね。

駐車場まで戻ってくると、行きは気づかなかった西塔地域の伽藍の案内板がありました。

※西塔地域参拝案内板

これで、西塔地域の参拝を無事に終わることができました。いやあ、懐かしい気持ちにもなりましたし、参拝する方も少なく静かにお参りできました。本当にいいところですね。

次は、横川地域を参拝します。

レポートの方も、なるべく早く作成したいと思います。

*1:所収 塙保己一編『続群書類従 第27輯下 釈家部』八木書店(2013)

*2:所収 塙保己一編『続群書類従 第27輯下 釈家部』八木書店(2013)

*3:所収 塙保己一編『続群書類従 第27輯下 釈家部』八木書店(2013)