2021年5月6日のお話です。西国三十三所の巡礼のお礼参りとして、比叡山延暦寺をお参りしていました! お礼参りを果たしてから2年近い月日が経ちましたが、ようやくのブログ投稿です。
西国三十三所お礼参り 比叡山延暦寺東塔地域参拝レポート!
延暦寺とは、比叡山の1700haの山内境内地に点在する堂宇の総称とされます。大きく分けると三つのエリアに分かれており、東が「東塔とうどう」地域、西が「西塔さいとう」地域、北が「横川よかわ」地域です。この三つの地域を三塔と呼んでおり、比叡山延暦寺の信仰の中心となっており、それぞれに本堂があります。
ここでは、東塔地域についての情報を掲載します。
比叡山延暦寺の縁起
比叡山延暦寺の成立縁起については、縁起物語のようなものは比叡山延暦寺の公式ホームページには掲載されていません。むしろ「歴史」として、文献学上の成果としての成立史を掲載しておられます。
www.hieizan.or.jp(2023.1.25閲覧)
伝教大師最澄は、延暦4(785)年に奈良の東大寺戒壇院で具足戒(※小乗仏教の戒律)を授けられ、正式な僧侶となりました。
受戒後3か月ほどで奈良を離れ、比叡山に分け入り、修行の生活に入ります。この時、願文を作り、一乗(※衆生を救う一つの大きな乗り物)の教えを体得するまで山を下りないことを誓いました。その後、延暦7(788)年に一乗止観院(後の根本中堂)を創建し、本尊として薬師如来を刻んだということです。
一方で、『山家要記浅略』*1には、縁起物語とも言うべきお話が書かれています。以下、簡略化した物語を掲載しておきます。
~延暦4(785)年7月17日、神宮寺より出て初めて山に登られました。高い山、険しい谷に分け入り、雲を踏んで登り、風をつかんでよじ登られました。向かって見れば千仞の谷は豪雨のようになっており、下を見れば万丈の巌が濃霧のように見えました。18日、無窮の山々を経て、人神の壮麗なさまをご覧になりました。聖賢が遊び、霊仙の窟宅となっていないところはありませんでした。
24日、北に向かって山林を行き、一人の霊童に会われました。伝教大師さま(※最澄)が「あなたは誰ですか?」と問われました。童子は「私は天地四方の霊童です。衆生の本来の命は生きる神と同じです」と答えました。大師さまがさらに問うと、童子は「一度だけ名号を称えても、功徳は虚空のようなものです。私は尽きることのない本願を誓い、皆ことごとく円満となることを願っております」と答えました。大師さまは恭しく申し上げました。「私は宮中の十禅師に帰依しました。ここは清浄で涅槃寂静と知恵の光のあるところです。行住坐臥の四威儀を正して、煩悩の炎を断ち切りたいと思います」と。すると霊童は重ねて示し、「あなたは修行をして衆生を教化することが二度あり、そのことはすでに終わっています。今回こそ私の前で明らかにしようとせずして、どうして生死の尽きないことを知ることができるでしょうか」と言いました。
26日、東方に向かい非常に高い山を越え、高い岩山をさまよい、落ちた石を砕く音が響きました。一人の神の化身が現れました。身長は一丈(※約3メートル)余りで、頭には金色の光を帯びていました。神の化身は「未だ惑いを断ち切っていない者は、私に従って来ても、善を宿しても増えず、ここに来ても悟りを得難いのではないか」と問いました。大師さまは「私は昔霊山で、法華経の聴衆を務めていましたが、仏の教えに入るのは難しく、諦めて凡事に務めてしまいました」と答えました。大師さまはさらに、「あなたは何の化身ですか?」と問われました。すると神は「私は山王である。日本の冥土の神である。陰陽は測らず、造化もなすことはない。しかし心は森羅万象の本性に遊び、変化は真実の姿を模範とする。誓願は仏さまに次ぎ、国を護ることを心している」と答えました。
神の化身は空に上って神変を現しました。また神は「あなたはどのような志と願いがあるのか」と問いました。すると大師さまは、「この世は平安がなく、あらゆる生物は安心して暮らせません。願わくばこの山を開き、ともに伽藍を建てたいと思います。国家を擁護し、人々に恵みを与えたいのです。あなたのような立派な神さまが加持してくだされば、私の大願も必ず成就するでしょう」と答えました。神は「ここは小さいながらも霊山であり、この金剛山に僧が来て人々を教化することを私も期待していた」と応えました。大師さまは「冥土の神さまの本地は何ですか?」と問われました。神は「今この世では、皆どこにでも私はいる。それ衆生の中にあって、ことごとく皆、私の子である」と答えました。この時、大地が震動し、天からの雨は妙なる花のようで、宝塔が空に現れました。二尊の仏さまが同座しておられ、とても円満なご様子でした。よろしく妙法をお説きになられ、数え切れない菩薩さま、悟りを開いた人、開こうとしている人、天龍八部衆など、囲んでお説法を聞いておりました。霊山の一帯は、この時霊験に満ちていました。
西を見るとまた険しい山でした。二人の聖人がやって来て、すぐにここで会合しました。霊験を得てご利益を請い、誓いを発することをそれぞれ知りました。
大師さまはまた南の峻険な嶺に登られました。すぐに五百もの賢人や聖人が悟りを開いている地に至りましたが、彼らの座り方や作法は同じではありませんでした。ある者は目を閉じて念じており、ある者は上を向いて思惟にふけっていました。またある者は誦経しており、ある者は手に印契を結んでいました。大師さまは「この山はどのような徳があるのですか? 皆さんはほめたり讃えたりしておられます。皆さんは何を願っておられるのですか? この山では皆さん一所懸命修行しておられます」と問われました。すると聖人が「この霊山は修行に応じて報われる果報土であり、地獄の劫火でも壊れることはありません。涅槃寂静の地であって、どうして汚れることがあるでしょうか。我々の願力をもって、世にとこしえに住みたいと思っています。心を澄まして涅槃寂静の境地に至り、弥勒菩薩のご出現を待ちましょう」と答えました。
すべて延暦4年7月から翌年の3月までの出来事です。比叡山の結界のことです。~
比叡山東塔地域の縁起
東塔地域の縁起が、『三塔諸寺縁起』*2に書かれています。以下、簡略化した物語を掲載しておきます。
~桓武天皇が仏法を興隆し国家を鎮護しようとしました。延暦7(788)年戊辰の歳、故の十禅師、入唐法印大和尚、最澄大師が始めて造立したところです。
伝教大師が初めてこの山を登った後、一切の衆生の利益・安楽のために、自ら薬師如来の尊像を刻まれました。一刻一礼し、尊いお姿と願力はともに成りました。一刻一礼し、妙なるお姿は仏道修行に随いたちまち現れました。誰がこれを金木土泥の像だなどと言うでしょうか。まことにこれは応化利生の真仏でないことがあるでしょうか。すなわち伽藍を建立してこの像を安置して以来、霊験は城中にあふれ、勝利は海内に満ちました。重病悪疾の輩は、伽藍に近づけば皆ことごとく癒え、短命夭折の業のある人は、尊像に拝礼すれば運命を転じないものはいませんでした。上は賢君名臣より下僕・小者の余類に至るまで、首を傾ければ仏への帰依の誠を運んでくれ、合掌すれば帰依の志を引き出してくれました。このことから常燈の光は消えることがなくなり、三百年以上の星霜を重ねました。仏さまへのお供えが絶えることがなく、二十八代の天皇がつづきました。これに加えてここは清浄結界のところであり、五つの障害となる雲は嶺に触れることがありません。人は皆立ちどころに悟りに至ることができる器であり、三観の月は常に窓を照らします。日本で第一の名山であり、霊験無双の勝地とは、まさしくこの山洞のことを言うのでしょう。遠くは醍醐天皇・円融天皇の前跡を尋ね、近くは白河天皇・鳥羽天皇の芳跡を訪ねるようなものです。十重の玉体が歩を運ばれ、天台宗の聖地として身を任せられるところです。御願はあまねく多く、善根は一つではありません。供仏の儀は一山に満ちており、施僧の後継者は三千にも及んでいます。~
比叡山延暦寺東塔地域の見所
比叡山延暦寺東塔地域の見所をご紹介します。
国宝殿
※国宝殿
東塔地域延暦寺バスセンター、駐車場から受付を入ってすぐ左側にあります。延暦寺に伝来する数多くの仏像・仏画・書跡等の文化財を保管するための施設です。所蔵品の中には、国宝や重要文化財に指定されているものも多いです。
なお、「国宝殿」という名称は、伝教大師最澄が著わした『山家学生式』の中の、「一隅を照らす。これ則ち国宝なり。」という言葉から名づけられています。それゆえ、興福寺の「国宝館」が言うところの日本国指定のお宝「国宝」とは意味が異なります。それでも、複数の国宝が所蔵されているのはさすがです。
主な所蔵品を挙げておきます。
国宝
・天台法華宗年分縁起 伝教大師筆(平安時代)
・伝教大師入唐牒(中国・唐代)
・光定戒牒 嵯峨天皇筆(平安時代)
重要文化財
・木造 薬師如来坐像(平安時代)
・木造 千手観音立像(平安時代)
・木造 維摩居士坐像(平安時代)
・木造 四天王立像(平安時代)
・木造 大黒天立像(鎌倉時代)
・木造 五大明王像(鎌倉時代)
・木造 不動明王二童子立像(鎌倉時代)
・紺紙金銀交書法華経(平安時代)
写真は比叡山延暦寺ホームページ「国宝殿」(2023.2.16閲覧)でご覧ください。
大講堂
※大講堂
学問修行の場である比叡山の特徴を表す象徴的な仏堂で、4年に一度行われる「法華大会広学竪義ほっけだいえこうがくりゅうぎ」を始めとした経典の論議や法会などが行われる道場です。昭和31(1956)年の火災で焼失し、昭和39(1964)年に山麓坂本の讃仏堂を移築したそうです。ご本尊は大日如来で、その左右には、比叡山で修業した各宗派の宗祖の木像が祀られています。建物自体も、国指定の重要文化財となっています。
鐘楼
※鐘楼
大講堂前の鐘は「開運の鐘」と呼ばれており、この鐘をつくと運が開けると言われています。自由につくことができます。
根本中堂
※根本中堂
延暦寺の三塔地域にはそれぞれ中心となる仏堂があり、「中堂」と呼ばれています。東塔の根本中堂はその中でも最大の仏堂であり、延暦寺の総本堂となります。ご本尊は薬師如来で、その前には1200年間灯り続けている「不滅の法灯」も安置されています。
現在の建物は江戸幕府3代将軍徳川家光公によって寛永19(1642)年に再建されたもので、建物自体は国宝、廻廊は国の重要文化財に指定されています。
平成28(2016)から大改修に入っていますが、参拝は可能です。また、修復の様子を見ることができる「修学ステージ」が設置されています。なお、2026年3月に大改修が終わる予定となっています。
文殊楼
※文珠楼
文殊楼は、根本中堂の正面の尾根上にあり、ほぼ東を向いて建てられています。桁行三間、梁間二間の入母屋造で、銅板葺の二重の楼門・山門です。徒歩で坂本方面から登ってくると、ここをくぐって根本中堂に向かうことになります。楼上には、文殊菩薩が安置されています。寛永の復興で根本中堂などと共に再建されましたが、寛文8(1668)年に焼亡し、すぐに再建されました。国指定の重要文化財となっています。
大書院
※大書院
比叡山開創1150年を記念して設けられた大本坊です。当時の建築界における大御所、京都大学名誉教授の武田五一博士(※播州清水寺の大講堂の設計も担当)の設計により、伝統的な書院造を参考に、当代最高の建築技術と用材を集めて完成されたものです。純日本風の造りの中に、欧風の趣向が巧みに調和しているそうです。昭和50(1975)年に昭和天皇・皇后両陛下の行幸を仰いだ際、ご休憩所として使用されました。特別保存建造物とされ、拝観はできません。
萬拝堂・一隅会館
※萬拝堂(奥)と一隅会館(手前)
萬拝堂は根本中堂大坂を登ったところにあり、日本全国の神社仏閣の諸仏諸菩薩諸天善神を勧請し、合わせて世界に遍満する神々をも共に迎えて奉安して、日夜平和と人類の平安を祈願しているところです。
一隅会館は参拝者のための無料休憩所で、休憩所内では比叡山が進めている「一隅を照らす運動」や、延暦寺を紹介する映像を放映しています。地下にお蕎麦屋さんを併設しています。
大黒堂
※大黒堂
一隅会館前の広場に面しており、大黒天・毘沙門天・弁財天が一体となった三面大黒天が祀られています。最澄が山中で出会った仙人を大黒天と信じ、一刀三拝して刻まれたのが安置されている大黒天像とされます。豊臣秀吉が出世を願い、後に太閤の地位まで登りつめたことから、三面出世大黒天とも称されます。
戒壇院
※戒壇院
最澄の悲願であった円頓戒灌頂(※大乗仏教の菩薩戒)を授けるための道場として創建されたもので、現在の建物は延宝6(1678)年に建てられたとされます。桁行三間、梁間三間の宝形造で、栩葺の一重の建物です。正面には軒唐破風をつけており、裳階がついていることから、外観は二重に見えます。内部は石敷で、釈迦如来・文殊菩薩・弥勒菩薩を安置しています。国指定の重要文化財となっています。
阿弥陀堂
※阿弥陀堂
比叡山開創1150年を記念して昭和12(1937)年に建立されたお堂で、全国の檀信徒のための先祖回向の道場です。大きさは方五間で、鎌倉時代初期の手法を凝らした純和様式がとられています。ご本尊は彫刻界の権威、内藤光石氏による丈六の阿弥陀如来坐像です。また、お堂の前には水琴窟があり、美しい響きを聞くことができます。
法華総持院東塔
※法華総持院東塔
昭和55(1980)年に再建されたいわゆる多宝塔で、元亀2(1571)年の織田信長による比叡山焼き討ち以来途絶えていましたが、佐川急便株式会社創業者の佐川清氏の寄進で再建されました。最澄は日本全国に6か所の宝塔を建設し、日本を鎮護する計画を立て、その中心として建てられたのがこの東塔でした。総檜造りで、ご本尊は大日如来をはじめとする五智如来、塔の上層部には仏舎利と法華経が安置されているそうです。
延暦寺会館
※延暦寺会館
大書院方面、文殊楼方面から下ったところにある宿坊です。食事だけでの利用もできます。また、お土産コーナーも併設されており、充実しています。
法然堂
※法然堂
浄土宗の宗祖、法然上人が修行されたとされるお堂です。現在はガラス戸になっており、普通の民家のようにも見えます。
比叡山延暦寺のご詠歌
比叡山には叡山流ご詠歌というものがあり、叡山講福聚教会によって大切に受け継がれています。それらは、いくつかの種類に分けられます。
① 比叡山讃歌
② 比叡山佛道讃仰和讃
③ 傳教大師誕生和讃
④ 傳教大師開宗和讃
⑤ 傳教大師伝法和讃
⑥ 傳教大師入寂和讃
⑦ 傳教大師妙華和讃
⑧ 傳教大師讃仰和讃
などです。これらは、叡山講福聚教会総本部が作成したYouTube(2023.2.16閲覧)にて拝聴することができます。
その中の①にも詠われており、根本中堂のご朱印をいただく時に書いていただけるのが次のご詠歌です。
あきらけく のちのほとけの みよまでも
ひかりつたえよ のりのともしび
(あきらけく 後の仏の み代までも
光り伝えよ 法の灯火)
この歌は南北朝時代の貞治3(1364)年に編纂された勅撰和歌集『新拾遺和歌集』に所収されており、最澄が詠んだとされています。
ただ、それにしてはあまりにもストレートな表現が使われており、教養のある最澄が詠んだ歌としては直接的すぎる気もします。
歌の意味としては本当にそのままで、「後の仏さまの御代までも、仏法の灯火よ、明るくくっきりと光を伝えておくれ」というところでしょうか。
比叡山延暦寺東塔地域へのアクセス
比叡山延暦寺ホームページに詳しいアクセス情報が掲載されています。
比叡山延暦寺ホームページ「交通案内」(2023.2.16閲覧)
公共交通機関
京阪石山坂本線「坂本比叡山口駅」下車、徒歩10分で坂本ケーブル「ケーブル坂本駅」乗車。坂本ケーブル「ケーブル延暦寺駅」から徒歩約10分。
お車
国道161号線西大津バイパスから近江神宮ランプで下り、比叡山ドライブウェイ(東塔まで往復1,700円)を北上。約25分。
駐車場あり。普通車400台以上。無料(有料道路通行料に含まれる)。
比叡山延暦寺東塔地域データ
ご本尊 :薬師如来
宗派 :天台宗総本山
霊場 :西国三十三所 番外
西国四十九薬師霊場 第49番
東海四十九薬師霊場 特別
神仏霊場巡拝の道 第150番
数珠巡礼
所在地 :〒520-0116 滋賀県大津市坂本本町4220
電話番号:077-578-0001
拝観時間:9:00~16:00(通年)
拝観料 :東塔・西塔・横川地域共通 大人1,000円 中・高校生600円 小学生300円
国宝殿 大人500円 中・高校生300円 小学生100円
境内案内図
比叡山延暦寺ホームページ「境内案内『東塔』」(2023.2.16閲覧)
上記サイトに案内地図があります。
※パンフレット掲載の略図
南坊の巡礼記「比叡山延暦寺東塔地域」(2021.5.6)
ゴールデンウィーク中の5月4日に三十三番札所華厳寺を参拝し、すでに結願を達成していました。そこで、お礼参りの計画を練ります。やはり自らのブログの「西国三十三所 番外札所って何? お礼参りとは? 」でお礼参りの筆頭として比叡山延暦寺を挙げている以上、比叡山延暦寺に参拝すべきだと思いました。そこで、2日後の5月6日、比叡山延暦寺を参拝することにしました。
5月6日、5時30分に起床し、準備を整えます。何だかんだと準備に手間取り、結局家を出発したのは8時35分でした。
茨木ICから名神高速道路に乗り、まずは京都東ICで高速を下ります。そのまま西大津バイパスに乗り換え、案内標識に従って近江神宮ランプで下りて、比叡山ドライブウェイを目指しました。
比叡山ドライブウェイの入口では、通行券だけもらいます。料金体系は、何だか複雑でよく分かりません。地元の人や馴染みの人でなければ、いくらかかるのかよく分からないでしょう。ただ、支払いは出口で支払うことになるので、支払い時に「こんなにするの?」と驚くことになるでしょう。私の場合は、横川地域まで行って往復しているので、2,430円支払いました。片道だけで言うと、茨木ICから京都東ICまでの名神高速道路の通行料とほぼ同じです。
入口からはひたすら登っていきます。しかし茨木からだと近いですね。9時40分、1時間ほどで比叡山延暦寺東塔地域に到着しました。ここには第一駐車場があり、何百台も車を停められそうです。ちなみに停まっていた車はかなり少なかったです。
※駐車場から参拝入口までの様子
ちなみにここに来るまでよく知らなかったのですが、比叡山延暦寺は山全体が延暦寺の境内になっており、大きく分けると東塔・西塔・横川の三つの地域に分かれるようです。私も参拝したことがある根本中堂は、この東塔地域にあるということでした。
※比叡山延暦寺案内板
巡拝受付でお金をお支払いし、中に入ります。私は国宝殿とセットの1,500円の券を購入しました。三つの地域すべてと国宝殿に入ることができます。なお、セットではありますが1円も安くはなっていません。なくすデメリットを考えるなら、別々に購入してもよいかもしれません。
受付から入ると、大講堂までの参道になっています。参道には、左右に最澄の御行績絵看板というものが並んでいます。
※祖師御行績絵看板についての説明板
※祖師御行績絵看板(5)
※祖師御行績絵看板(13)
(1)~(13)まで写真に撮っていましたが、ここでは(5)と(13)を掲載するにとどめます。
また、日本における仏教宗派のほとんどはこの比叡山延暦寺で学んだ僧侶によって開かれたことから、それらの宗祖も多く祀られています。それに関連する絵看板もありました。
※親鸞聖人絵看板
他には、比叡山の回峰行の開祖である相応和尚、天台真盛宗の開祖である真盛上人、融通念仏宗の開祖である良忍上人、市聖と呼ばれた空也上人、浄土宗の法然上人、臨済宗の栄西禅師、曹洞宗の道元禅師、日蓮宗の日蓮聖人、時宗の一遍上人らの絵看板があります。皆、比叡山延暦寺に所縁がある方たちです。
参道を登っていくと、左側に大講堂が出てきました。
※左に大講堂を望む
熟年夫婦が先に入っていかれました。その後から入ります。
中は、撮影禁止です。大講堂のご本尊は大日如来で、左右には仏教と深い関わりのある皇族や、各宗派の宗祖さまの木像が祀られています。どういう並びだったか忘れてしまいましたが、ちょっと挙げていきましょう。桓武天皇、聖徳太子、天台祖師(智顗)、伝教大師(最澄)、智証、法然、親鸞、栄西、道元、日蓮、一遍、真盛などといった、錚々たる顔ぶれです。弘法大師空海が祀られていないのは、大人の事情ですね。
ひととおり巡拝した後、大講堂を後にします。今回の旅の一番の目的は、西国三十三所巡礼のお礼参りですので、早いところ根本中堂を参拝したかったのです。
大講堂の奥には、鐘楼がありました。
※鐘楼
「開運の鐘」と書いてあります。誰でも鳴らしてよいようです。
※開運の鐘
確かお賽銭箱にお金を少々入れてから、鐘をついたように思います。若かりし頃にここを訪れた際は、めちゃくちゃ大きな音を鳴らした記憶があるのですが、この時は良識的なつき方をしました。私も成長したわけです。
思うに、ヤンチャをするというのは、ある意味若者の証明のような気もします。ヤンチャをする若者がいたことによって、人類が新天地を切り拓いてきた、という側面もあるのかもしれません。そうすると、いろいろな飲食店でペロペロしているのも、そのようなヤンチャな行為の一つと考えることはできるわけです。間違った方向に進んでいるとは思いますが。
鐘から奥に進み、下へと降りていくと、根本中堂へと出ます。
※根本中堂
残念ながら、「平成の大改修」の真っ最中でした。
そして、この辺りまでやってくると、何か騒がしいことに気がつきました。どうやら、遠足か何かの学生たちがいるようでした。
イヤだな~と思いながら、私も中に入ろうとしました。すると、入口のところに「ご朱印をお求めの方は先に納経所にご朱印帳をお預けください」といったことが書いてありました。「ご朱印帳」と書いてあったか「納経帳」と書いてあったかはちょっと定かではありませんが。
そこで、納経所のお姉さんに納経帳をお預けしました。私のは、西国三十三所のオフィシャルな納経帳です。ご朱印帳とは呼びません。すると、「最後のページ、番外札所の花山院の次のページでいいですか?」と聞かれました。向こうの方も、よく分かってくださっているようです。私としては異存はないのですが、個人的に番外札所として考えている叡福寺と十輪寺のご朱印が続いているので、その次のページにお願いしました。
さて、今度こそ中に入ります。根本中堂の入口は、完全にジェラルミン?の無粋な金属で覆われてしまっています。その壁には、「修理のあらまし」と書かれた説明板がいくつか貼ってありました。
※「修理のあらまし」説明板
さあ、中に入りましょう。
※根本中堂入口
中に入ると、まずは靴を脱がないといけません。大きな靴箱スペースがあり、そこで靴を脱ぎました。何人か、私に前後して入っていかれました。
まずは、参拝スペースまで進み、そこで納経しました。中では、お坊さまが何人か勤行されていたと思います。2月に始めた西国三十三所の巡礼が無事に終わったことを心中で報告し、参拝を終えました。
外に出る前に、修理の様子を見ることができる修学ステージに登ってみることにしました。修理中の屋根の様子などを比較的間近で見ることができるので、ある意味貴重な経験かもしれません。
※屋根の様子1
※屋根の様子2
※屋根の様子3
修理中だけなのか、謎の絵も描かれています。“Where will the Living Go? After Earth.”と書かれています。「生き物はどこへ行くのだろう? 地球の(滅んだ?)後に」ということでしょうか。
※修理期間を示す案内板
2026年3月まで工事期間となっていますから、まだまだですね。と、この時は思っていたのですが、この参拝時からすでに2年近く経ってしまいました。意外とあっという間かもしれませんね。完成したら、できるだけ早い時期に参拝したいと思います。
ちなみにここでも学生さんたちと遭遇しました。様子をうかがっていると、どうやら比叡山中学校の生徒さんたちであることが分かりました。そうなんです、比叡山中学校の生徒は麓から歩いて比叡山を参拝する行事があるのです。
どうして知っているかと言うと、この比叡山中学校の教員採用試験を受けたことがあるからです。残念ながら、理事長面接で落とされてしまいました。理事長は完全な僧職の方でした。
しかし、外ではにぎやかだった生徒さんたちも、建物の中では非常に静かにしておられました。TPOをよく弁えていて、さすが!というところですね。
外に出て、納経所へと行きます。返していただいた納経帳には、「医王殿」と書かれていました。ご本尊が薬師如来なので、そうなるのですね。
無事に西国三十三所のお礼参りが終わりましたので、ここからはレポートのための取材となります。根本中堂の出口から正面には、階段があり、登っていくことができます。
※文珠楼までの石段 右脇は納経所
とくに順路の指定はないのですが、こちらに登っていきました。ここで10時21分になっていました。
石段を登ると、文殊楼がありました。
※文殊楼
実はこれは裏側になっています。文殊楼は、根本中堂をお参りするための山門の役割を果たしているのです。
文殊楼をくぐり、また石段を下っていきます。すると、大書院や延暦寺会館のある方面へと出ました。
※大書院
この前の道を下っていくと、延暦寺会館です。私は逆に右の方へと登っていきました。文殊楼のある高台の外周をぐるっと回っていく感じです。
※文殊楼のある高台
回っていくと、少し広場のようになったところに出ました。右側には大黒堂、左側には一隅を照らす会館などがあります。
※大黒堂
※一隅を照らす会館
謎の「戦国BASARA」とのコラボが行われているようで、伊達政宗のキャラ絵が飾られています。中では、どうやら書道展のようなものも行われているようでしたが、入りませんでした。
この対面トゥイメンから下に降りていくと、根本中堂になります。
※根本中堂への降り口
そのまま直進します。いったん、大講堂の方へと戻っていきました。
※鐘楼の下
大講堂の前を通り過ぎ、一番最初に上がってきた道に戻りました。
※分岐点
大講堂から戻ったところの、分岐点です。右の阿弥陀堂というのは、これまでの人生で行った記憶がありませんので、行ってみることにしました。
最澄は、日本全土に6基の塔を建てて、日本の鎮護を願おうとしたとされます。その中心の塔が、これから行く阿弥陀堂の隣にある東塔です。
※六所の宝塔の説明板
説明板によると、6基というのは、
・安総 近江宝塔 比叡山東塔院
・安中 山城宝塔 比叡山西塔院
・安東 上野宝塔 上野国緑野郡(群馬県浄法寺)
・安南 豊前宝塔 豊前国宇佐郡(大分県宇佐神宮)
・安西 筑前宝塔 筑前国筑紫郡(福岡県大宰府竈門神社)
・安北 下野宝塔 下野国都賀郡(栃木県大慈寺)
だそうですね。現在も残っているのでしょうか。なお、( )内は「伝教大師一千二百年大遠忌記念事業『最澄と比叡山』」ホームページ*3内の情報を元にしています。
坂道を登っていくと、石段が出てきました。
※阿弥陀堂前の石段
石段を登ると、広場に出ます。右に阿弥陀堂、左に法華総持院東塔です。
※阿弥陀堂(右) 東塔(中) 鐘楼(左)
ここにもここ専属の鐘楼がありました。
全体を俯瞰したうまい写真がないのは、比叡山中学校の生徒たちがやって来て、集合していたからです。休憩をしていましたので、私はその隙に参拝を済ませました。
確か、靴を脱いで中に入ることができたと思います。東塔の方は、外から覗いただけだったはずです。ただ、周りを歩くことはできました。
※横から見た阿弥陀堂
※奥の門
奥に廻廊のような、門のようなものがあります。さらに奥に、巡拝受付があるようです。私は奥には行かず、元の道を戻っていくことにしました。
すると、下っていく途中に左側に建物が見えてきました。戒壇院です。
※阿弥陀堂から戻っていく
また石段を登っていくと、戒壇院へと到着しました。
※戒壇院が見える
戒壇院の脇にも鐘楼がありました。3棟目ですね。さすが比叡山です。
※戒壇院の鐘楼
これで、だいたい東塔のめぼしいところは拝観できたと思います。この後、いったん外へ出て車まで戻りました。巡礼衣を脱いで身軽になり、国宝殿を見学しようと思います。
※国宝殿入口
中は当然写真撮影が禁止となっています。唯一撮れたのが、次の写真でした。
※国宝殿内部の写真スポット
かわいらしいお坊さんのパネルですね。右のお坊さんが頭に被っているものは、何という名前なのでしょうか。
何分、拝観してから相当時間が経っているので、実は展示内容についてあまり憶えていません。興福寺の方がまだ印象に残っているものが多いですね。それもこれも織田信長が悪いのでしょうが(※突き詰めると、信長に攻撃される理由を与えてしまっている、武装し女色にふけっていたとされる当時の僧侶たちも悪い)。
6基の宝塔に関する説明があったことは、憶えています。また、大きな鐘が飾られていましたが、確か昭和期のものだったように思います。
寺宝のいくつかは、比叡山延暦寺のホームページ*4でご覧になれます。
ということで意外とあっさり拝観を終え、外に出ました。すでに11時半ごろでしたので、昼食のことを考え始めます。当然、比叡山中で食べることになるでしょうが、先程の参拝時に延暦寺会館辺りまで行っており、食事ができることが分かっていました。値段が高いということもすでに知っていましたが、西国三十三所の結願記念ということで、少し気も大きくなっています。行ってみることにしました。
中に入ると、なかなか高級な雰囲気となっています。琵琶湖が一望できる窓際の席に案内されました。
※窓際席からの眺望
せっかくなので、精進料理にしようと思います。本来、結願したら精進落としということで酒池肉林の宴をするわけですが、私はこれまで別に肉食を絶っていたわけでもありません。逆に、ここで精進料理を食べてみようと思いました。
比叡御膳、2,200円を注文します。これは数量限定らしいので、早めに来訪して注文することをお勧めします。どんな料理なのかは、延暦寺会館のホームページ*5をご覧ください。
まあ、お味はともかく、精進料理ですから、ボリュームはありません。キノコがそれなりに入っているのも、私にとっては困りものでした。I hate mushrooms.
12時過ぎには食べ終わり、お土産屋さんをしばらく覗いてから外に出ました。いいものはいっぱい売っているのですが、何分それなりに高いのが難点です。観光客ならばその値段でもいいでしょうが、一巡礼者にとっては、結構な金額ですので。
さて、外に出てからはさらに下ることにしました。大書院の前に書いてあったのですが、下には法然上人が修行されたという法然堂があったのです。比叡山中学校の生徒のように、坂本方面から歩いて登ってきた場合は、最初にそちらの方に到着するのでしょう。
深い杉林の中の林道を下っていきます。
※杉林の林道
しばらく下ると、見えてきました。石碑には、「法然上人得度御霊場」と書かれています。しかし、外観は普通の古い民家のようにも見えます。
※法然堂を上から望む
12時16分、法然堂の前に到着です。
※法然堂
確かに「法然堂」と書いてありますが、ガラス戸になっており、拭いきれない民家感があります。
※法然堂入口
実は中に入れたようですが、私は中に入りませんでした。
気を取り直して、戻ります。なかなかの急坂です。
※法然堂からの坂道
上の写真でもかなりの坂であるということがお分かりいただけると思いますが、もっとよく分かる写真を載せておきましょう。
※相当な急坂
杉が真っ直ぐ上に向かって伸びてますので、坂の傾斜がよく分かると思います。傾斜角45度以上はありそうです。
登って戻っていくと、なかなか含蓄のある言葉が書かれている石碑が立っていました。
※「我が道を行く」石碑
栃木竜泉寺のスカウト団が、どうやら足利から比叡山まで完歩した記念に建てたようです。Googleマップによれば、中山道を経由して457kmの距離があります。1日20km歩いたとしても、23日かかることになります。すごいですね。まあ、四国1,300kmを歩いた私にとっては、どうってことありませんが(※この時点では、まだ歩いていない)。
なお、竜泉寺と書いてありますが、おそらく、栃木県足利市にある、足利厄除大師龍泉寺のことだと思われます。天台宗のお寺であり、自らホームページには延暦寺の「直末寺」だと記載しておられます*6ので。
この後、一隅を照らす会館の方から大回りして戻っていき、大講堂前を経て、駐車場へと戻っていきました。実は、もう一か所だけ、見ておきたいところがありました。駐車場から、「栄西禅師修行の地」へと行けるのです。
※「栄西禅師修行の地」入口
このように、鬱蒼とした森の中へ入っていかないといけません。ここで12時35分です。
※「栄西禅師修行の地」への参道
九十九折りとなっている林道を、降りていく感じでした。
ほどなく、「栄西禅師修行の地」へと到着しました。12時37分でした。
※「栄西禅師修行の地」が見える
石碑が建てられていました。「建仁開山千光祖師舊跡」と書かれています。
※「栄西禅師修行の地」
ここに庵などを結んでいたということでしょうか。さすが比叡山、法然上人につづき、栄西禅師の旧跡もあったわけです。この辺が、終わりの地、涅槃の地である高野山とは違うところですね。逆に始まりの地、開悟の地といったところでしょうか。
さて、これで東塔地域における見るべきところは終了しました。
次は、西塔地域を目指しましょう。
近日公開予定の、西塔地域のレポートへとつづきます。乞うご期待!
最終更新:2023.3.15
*1:所収 塙保己一編『続群書類従 第27輯下 釈家部』八木書店(2013)
*2:所収 塙保己一編『続群書類従 第27輯下 釈家部』八木書店(2013)
*3:「伝教大師一千二百年大遠忌記念事業『最澄と比叡山』」ホームページ2023.2.19閲覧
*4:比叡山延暦寺ホームページ「境内案内『国宝殿』」2023.2.19閲覧
*5:延暦寺会館ホームページ「精進料理」2023.2.19閲覧
*6:足利厄除大師龍泉寺ホームページ「龍泉寺紹介『天台宗 龍泉寺縁起』」2023.2.19閲覧