西国お遍路“行雲流水”

西国三十三所や四国八十八ヶ所を雲のごとく水のごとく巡礼した記録

王城の鎮護 日本仏教の総本山 比叡山延暦寺に行ってました! その3「横川地域」

横川中堂

2021年5月6日のお話です。西国三十三所の巡礼のお礼参りとして、比叡山延暦寺をお参りしていました! お礼参りを果たしてから2年近い月日が経ちましたが、ようやくのブログ投稿で、前々回の東塔とうどう地域、前回の西塔さいとう地域につづく、横川よかわ地域のレポートです。

西国三十三所お礼参り 比叡山延暦寺西塔地域参拝レポート!

延暦寺とは、比叡山の1700haの山内境内地に点在する堂宇の総称とされます。大きく分けると三つのエリアに分かれており、東が「東塔とうどう」地域、西が「西塔さいとう」地域、北が「横川よかわ」地域です。この三つの地域を三塔と呼んでおり、比叡山延暦寺の信仰の中心となっており、それぞれに本堂があります。

ここでは、横川地域についての情報を掲載します。

比叡山延暦寺の縁起

比叡山延暦寺の成立縁起については、「王城の鎮護 日本仏教の総本山 比叡山延暦寺に行ってました! その1「東塔地域」」ですでにレポート済みですが、このページからご覧になる方のために、重複をあえて承知で掲載させていただきます。

延暦寺縁起物語のようなものは比叡山延暦寺の公式ホームページには掲載されていません。むしろ「歴史」として、文献学上の成果としての成立史を掲載しておられます。

www.hieizan.or.jp(2023.3.23閲覧)

伝教大師最澄は、延暦4(785)年に奈良の東大寺戒壇院具足戒※小乗仏教の戒律)を授けられ、正式な僧侶となりました。

受戒後3か月ほどで奈良を離れ、比叡山に分け入り、修行の生活に入ります。この時、願文を作り、一乗(※衆生を救う一つの大きな乗り物)の教えを体得するまで山を下りないことを誓いました。その後、延暦7(788)年に一乗止観院(後の根本中堂を創建し、本尊として薬師如来を刻んだということです。

一方で、『山家要記浅略』*1には、縁起物語とも言うべきお話が書かれています。以下、簡略化した物語を掲載しておきます。

 

~延暦4(785)年7月17日、神宮寺より出て初めて山に登られました。高い山、険しい谷に分け入り、雲を踏んで登り、風をつかんでよじ登られました。向かって見れば千仞の谷は豪雨のようになっており、下を見れば万丈の巌が濃霧のように見えました。18日、無窮の山々を経て、人神の壮麗なさまをご覧になりました。聖賢が遊び、霊仙の窟宅となっていないところはありませんでした。

24日、北に向かって山林を行き、一人の霊童に会われました。伝教大師さま(※最澄が「あなたは誰ですか?」と問われました。童子は「私は天地四方の霊童です。衆生の本来の命は生きる神と同じです」と答えました。大師さまがさらに問うと、童子は「一度だけ名号を称えても、功徳は虚空のようなものです。私は尽きることのない本願を誓い、皆ことごとく円満となることを願っております」と答えました。大師さまは恭しく申し上げました。「私は宮中の十禅師に帰依しました。ここは清浄で涅槃寂静と知恵の光のあるところです。行住坐臥の四威儀を正して、煩悩の炎を断ち切りたいと思います」と。すると霊童は重ねて示し、「あなたは修行をして衆生を教化することが二度あり、そのことはすでに終わっています。今回こそ私の前で明らかにしようとせずして、どうして生死の尽きないことを知ることができるでしょうか」と言いました。

26日、東方に向かい非常に高い山を越え、高い岩山をさまよい、落ちた石を砕く音が響きました。一人の神の化身が現れました。身長は一丈(※約3メートル)余りで、頭には金色の光を帯びていました。神の化身は「未だ惑いを断ち切っていない者は、私に従って来ても、善を宿しても増えず、ここに来ても悟りを得難いのではないか」と問いました。大師さまは「私は昔霊山で、法華経の聴衆を務めていましたが、仏の教えに入るのは難しく、諦めて凡事に務めてしまいました」と答えました。大師さまはさらに、「あなたは何の化身ですか?」と問われました。すると神は「私は山王である。日本の冥土の神である。陰陽は測らず、造化もなすことはない。しかし心は森羅万象の本性に遊び、変化は真実の姿を模範とする。誓願は仏さまに次ぎ、国を護ることを心している」と答えました。

神の化身は空に上って神変を現しました。また神は「あなたはどのような志と願いがあるのか」と問いました。すると大師さまは、「この世は平安がなく、あらゆる生物は安心して暮らせません。願わくばこの山を開き、ともに伽藍を建てたいと思います。国家を擁護し、人々に恵みを与えたいのです。あなたのような立派な神さまが加持してくだされば、私の大願も必ず成就するでしょう」と答えました。神は「ここは小さいながらも霊山であり、この金剛山に僧が来て人々を教化することを私も期待していた」と応えました。大師さまは「冥土の神さまの本地は何ですか?」と問われました。神は「今この世では、皆どこにでも私はいる。それ衆生の中にあって、ことごとく皆、私の子である」と答えました。この時、大地が震動し、天からの雨は妙なる花のようで、宝塔が空に現れました。二尊の仏さまが同座しておられ、とても円満なご様子でした。よろしく妙法をお説きになられ、数え切れない菩薩さま、悟りを開いた人、開こうとしている人、天龍八部衆など、囲んでお説法を聞いておりました。霊山の一帯は、この時霊験に満ちていました。

西を見るとまた険しい山でした。二人の聖人がやって来て、すぐにここで会合しました。霊験を得てご利益を請い、誓いを発することをそれぞれ知りました。

大師さまはまた南の峻険な嶺に登られました。すぐに五百もの賢人や聖人が悟りを開いている地に至りましたが、彼らの座り方や作法は同じではありませんでした。ある者は目を閉じて念じており、ある者は上を向いて思惟にふけっていました。またある者は誦経しており、ある者は手に印契を結んでいました。大師さまは「この山はどのような徳があるのですか? 皆さんはほめたり讃えたりしておられます。皆さんは何を願っておられるのですか? この山では皆さん一所懸命修行しておられます」と問われました。すると聖人が「この霊山は修行に応じて報われる果報土であり、地獄の劫火でも壊れることはありません。涅槃寂静の地であって、どうして汚れることがあるでしょうか。我々の願力をもって、世にとこしえに住みたいと思っています。心を澄まして涅槃寂静の境地に至り、弥勒菩薩のご出現を待ちましょう」と答えました。

すべて延暦4年7月から翌年の3月までの出来事です。比叡山の結界のことです。~

比叡山横川地域の縁起

横川地域の本堂である横川中堂に関する縁起が、『三塔諸寺縁起』*2に書かれています。以下、簡略化した物語を掲載しておきます。

 

根本観音堂(俗に横川中堂と云う。砂碓堂の西に在り)。右は慈覚大師円仁が入唐求法の後、纜ともづなを解き舟を波間に浮かべると、たちまち大風に遭遇し、南海に沈みそうになりました。かの観音力を念じると毘沙門天が現れました。慈覚大師はすぐにそのお姿を描かせました。すると風は晴れて波も平らかになり、すぐに海岸に到着しました。こうして帰山の後、一堂を建立し、観音像と毘沙門天像を安置しました。例の海上での願いにより、目的を果たすことができたからです。嘉祥元(848)年9月一同を建立し、天の像を描きました。さらに木像と聖観音をお移しし、共に安置されたということです。~

比叡山延暦寺横川地域の見所

比叡山延暦寺横川地域の見所をご紹介します。

龍ヶ池

※龍ヶ池

八大龍王が祀られている池です。なお、弁財天も祀られており、元三大師が懲らしめた大蛇が弁天さまのお使いとして「龍神」となり、この池を守っているとされます。

西国三十三ヶ所石仏

※西国三十三ヶ所石仏 第壹番那智山

横川地域の伽藍に隈なく配置されている、西国三十三所のご本尊の写しの石仏です。横川中堂への上り口の手前から始まり、根本如法塔元三大師御廟元三大師堂を経て、横川中堂まで戻ってくると結願です。

※西国三十三ヶ所石仏 第三十三番谷汲山

根本如法塔

※根本如法塔

第三世天台座主慈覚大師円仁が石墨草筆をもって書写された法華経一部八巻を納める宝塔を建てられたのが起源で、横川発祥の聖蹟であることから根本如法塔と称されています。釈迦如来、多宝如来の二仏をご本尊としています。現在の塔は大正14(1925)年に篤信者の山口玄洞氏の寄進で建てられたものです。山口氏は他にも、西国三十三所第十一番札所醍醐寺観音堂弁天堂などを寄進しておられます。

元三大師御廟

※元三大師御廟

元三大師良源は第十八代の天台座主で、比叡山中興の祖とも言われています。荒廃していた比叡山を復興し、横川を整備した高僧で、この地に祀られています。

定光院

※定光院山門

横川地域の伽藍から長い階段を下りていったところにある、「日蓮上人修行の地」です。小さなお寺ですが落ち着いた静けさがあり、まさに修行にはうってつけのお寺だったと思われます。境内には、日蓮上人の銅像も祀られています。

※日蓮上人の銅像

比叡山行院

※比叡山行院

天台宗の修行が行われる、比叡山の道場です。一般の方の立ち入りは禁止されています。

箸塚弁財天

※箸塚弁財天

比叡山三大弁財天の一つとされています。

元三大師堂(四季講堂)

※元三大師堂

第十八代天台座主の慈恵大師良源元三大師の住房であった定心房の跡を継いでいるお堂で、村上天皇の勅命によって春夏秋冬の四季に法華経の論議が行われたことから、四季講堂とも呼ばれています。はじめは弥勒菩薩がご本尊でしたが、今は元三大師の画像をご本尊としており、元三大師堂の名で親しまれています。元三大師はおみくじの創始者としても知られており、角大師つのだいしのお姿で、今では疫病除けの護符となっておられます。桁行五間、梁間四間、一重、入母屋造、銅板葺の建物で、現在の建物は江戸時代前期の承応元(1652)年の建立とされています。国指定の重要文化財になっています。

道元禅師得度の地

※道元禅師得度の地

石碑には「承陽大師得度霊蹟」と書かれていますが、承陽大師とは道元禅師のことを指します。元三大師堂のあるレベルから、山の中に分け入り、かなり下っていったところにあります。入口には、石碑が立っています。

※道元禅師得度霊跡入口

鐘楼

※鐘楼

横川地域の鐘楼です。

恵心堂

※恵心堂

平安時代中期の藤原兼家慈恵大師良源のために建立したお堂です。『往生要集』の著者で浄土信仰の基を築いた恵心僧都源信が念仏三昧行を修したところで、日本浄土信仰発祥の地とされています。ご本尊は阿弥陀如来です。

また、恵心堂からさらに奥に参道を歩いていくと、たくさんの墓石に交って恵心僧都の墓所があります。

※恵心僧都御墓

虚子塔

※虚子の塔

高浜虚子は在京中、比叡山に登り紀行文「叡山詣」(1907)を著し、また、横川中堂政所一念寺に泊まり、小説『風流懺法』(1907)を執筆しました。このように比叡山をこよなく愛した俳聖を称え、この地に虚子の塔逆修爪髪塔が建立されました。1953年10月のことです。毎年、虚子を偲ぶ法要が元三大師堂にて行われています。

「清浄な 月を見にけり 峰の寺」 虚子

横川中堂

※横川中堂

横川地域の本堂にあたり、首楞厳院しゅりょうごんいんとも呼ばれている大堂です。舞台造で、全体的に見て船が浮かんでいる姿に見えるのが特徴です。お堂の中央部が2メートルほど低くなっており、慈覚大師円仁作とされる聖観音菩薩像がご本尊として祀られています。慈覚大師は建物も嘉承元(848)年に改築されたのですが、何度も焼失し、豊臣秀頼淀殿が再建したお堂も1942年に雷によって焼失してしまいました。幸いにもご本尊は災禍を免れ、1971年に再建されたお堂に安置されました。新西国霊場第十八番の霊場とされています。

比叡座延暦寺のご詠歌

比叡山には叡山流ご詠歌というものがあり、叡山講福聚教会によって大切に受け継がれています。それらは、いくつかの種類に分けられます。

① 比叡山讃歌

② 比叡山佛道讃仰和讃

③ 傳教大師誕生和讃

④ 傳教大師開宗和讃

⑤ 傳教大師伝法和讃

⑥ 傳教大師入寂和讃

⑦ 傳教大師妙華和讃

⑧ 傳教大師讃仰和讃

などです。これらは、叡山講福聚教会総本部が作成したYouTube(2023.3.23閲覧)にて拝聴することができます。

なお、横川中堂は新西国霊場第十八番札所となっており、新西国霊場のご詠歌があります。

 

ちよかけて よをばすくひの かねのねを

 おくりたえせぬ ひえいのやまかぜ

(千代かけて 世をば救ひの 鐘の音を

   送り絶えせぬ 比叡の山風)

 

この歌は上記の①~⑧の中には収められていません。

歌の意味としては、何千年もの間、世を救おうとする鐘の音を、比叡山の風よ、これからも送り続けておくれ、といったところでしょうか。日本の鎮護たる、比叡山にふさわしいご詠歌と思います。

比叡山延暦寺横川地域へのアクセス

比叡山延暦寺ホームページに詳しいアクセス情報が掲載されています。

比叡山延暦寺ホームページ「交通案内」(2023.3.23閲覧)

公共交通機関

京阪石山坂本線「坂本比叡山口駅」下車、徒歩10分で坂本ケーブル「ケーブル坂本駅」乗車。坂本ケーブル「ケーブル延暦寺駅」から徒歩約90分。

延暦寺バスセンター」バス停から比叡山シャトルバスで約13分。「横川」バス停下車。

お車

国道161号線西大津バイパスから近江神宮ランプで下り、比叡山ドライブウェイ(東塔まで往復1,700円)を北上。約35分。

駐車場あり。普通車40台程度。無料(有料道路通行料に含まれる)

比叡山延暦寺横川地域データ

ご本尊 :聖観世音菩薩

宗派  :天台宗総本山

霊場  :新西国霊場 第十八番

     びわ湖百八霊場 第百八番(結願)

所在地 :〒520-0116 滋賀県大津市坂本本町4220

電話番号:077-578-0001

拝観時間:9:30~16:00(1月~2月)

     9:00~16:00(3月~11月)

     9:30~16:00(12月)

拝観料 :東塔・西塔・横川地域共通 大人1,000円 中・高校生600円 小学生300円

     国宝殿のみ 大人500円 中・高校生300円 小学生100円

境内案内図

比叡山延暦寺ホームページ「境内案内『横川』」(2023.3.23閲覧)

上記サイトに案内地図があります。

※パンフレット掲載の略図

南坊の巡礼記「比叡山延暦寺横川地域」(2021.5.6)

さすがに比叡山、見所がいっぱいあります。午前中に東塔とうどう地域を巡拝し、つづいて西塔さいとう地域の巡拝を終えるとすでに14時になっていました。最後の伽藍地域、横川よかわ地域を目指します。

車で奥比叡ドライブウェイを北上すると、展望台が出てきました。伝教大師像もありますし、せっかくなので寄ってみることにしました。

※伝教大師尊像

この広場には、レストランもありました。また、琵琶湖側の絶景も望めます。

※琵琶湖側の絶景

結局琵琶湖側の景色ばかり眺めている気がします。京都市内を一望できるスポットはどこなんでしょうね。

ここでは長居せず、すぐに車に乗り込んで出発しました。

14時20分、横川地域の駐車場に到着です。駐車場にトイレもありました。

※横川地域伽藍入口

ここはあまり来た記憶がありません。もしかすると、初めてかもしれません。

参道を下っていくと、道元禅師の絵看板がありました。

※道元禅師絵看板

また、親鸞聖人の絵看板もありました。

※親鸞聖人絵看板

そうです、親鸞聖人は西国三十三所第十八番六角堂 頂法寺に参籠されたことがあるのです。六角堂については、「西国三十三所 第十八番札所 六角堂 頂法寺 ~京の都のへそ 生け花発祥の地・池坊~」をご覧ください。

さらに進むと、日蓮上人の絵看板も出てきました。

※日蓮上人絵看板

この絵看板だけでも、かなり勉強になりますね。

絵看板を見ながら参道を下っていくと、左に龍ヶ池が出てきました。奥には、本堂である横川中堂の屋根も見えます。ここで14時27分です。

※左が龍ヶ池 奥に横川中堂の屋根が見える

ここでも戦国BASARAとのコラボです。

※戦国BASARAコラボ

ふと道端を見ると、どうやら西国三十三所のミニ巡礼があるようです。第二番札所の紀三井寺ご本尊の写しの石仏を発見しました。第一番札所は見落としてしまったようですが、まあ帰りに見つけられるでしょう。

※西国三十三ヶ所石仏 第二番紀三井寺

石仏を追いかけながら伽藍を奥へと進んでいきました。根本如法塔が見えてきました。

※根本如法塔までの階段

少ししんどいですが、登っていきました。

14時32分、根本如法塔に到着です。

※根本如法塔

新緑の間で、映えますね。ただ、どうも古いものではないようです。

また参道の方に戻りました。石仏は元三大師御廟の方につづいているようです。最初はそこまで行かなくていいんじゃないかと思っていましたが、こうなったら仕方ありません。行きましょう。

※西国三十三ヶ所石仏 第八番初瀬寺

第八番札所は、「長谷寺」ではなく「初瀬寺」と表記されていました。

※元三大師御廟への参道

御廟への山道を進んでいきます。なぜか途中で車に抜かされました。造園関係の方だと思われます。境内の手入れをしておられるのでしょう。

※西国三十三ヶ所石仏 第十三番石山寺

第十三番札所の石山寺までやって来ました。この近くに、元三大師御廟があります。

※元三大師御廟

ここで、14時46分です。

横川地域を参拝している方がそもそも少なかったのですが、ここでは中年の男性とお会いしました。私もですが、そちらの方も写真を撮っておられました。

ちなみに、ここまでお参りしていますが、この段階では私はまだ元三大師がどのような方なのかよく分かっていませんでした。

ここからさらにぐるっと参道を回っていきます。西国三十三ヶ所石仏を順番にたどっていけば、自然と元三大師堂の方へと行けます。

第十六番清水寺のところまで来ると、左側に下っていく道が出てきました。そこには定光院を示す案内板があり、「日蓮聖人御修業の旧跡」と書かれています。これは、西塔地域にも案内板があったお寺ですね。ここから下りていくようです。14時53分でした。

※定光院案内板

※定光院への階段

下り始めてから、すぐに後悔しました。これは結構遠いですよ。1段1段が幅があるので、かなり遠いのです。

※定光院入口

14時57分、定光院前に到着しました。

とくに受付等もなく、すっと中に入ることができました。

※日蓮上人像

境内の奥には、夕日に照らされて神々しい、いや仏々しい日蓮上人の銅像が立っていました。右側には、本堂らしき建物があります。

※定光院本堂

本堂は、中に入ることができました。中では、煌びやかな内々陣を参拝することができます。

ご朱印をいただくつもりはなかったので、さくっと参拝を済ませ、横川伽藍の方へと戻ることにしました。

※上り口

上り口に、箴言が書かれていました。しかし、私が気になったのは、その下の文言です。「上り一三五段 お気をつけてお帰り下さい」と書いてあります。135段しかないんですね。しかし、1段1段の幅があるので、結構しんどいです。

5分ほどで元の伽藍のところまで戻りました。甘露山王社前、15時10分です。

※甘露山王社

そこからさらに進むと、修行道場の比叡山行院の前に来ました。

※比叡山行院

比叡山行院の前を過ぎて巡っていきます。第十八番六角堂、第十九番革堂の石仏前を通り過ぎました。

※西国三十三ヶ所石仏 第十九番革堂

すると、少し開けたところに出ます。トイレやベンチなどもありました。箸塚弁財天もあります。

※箸塚弁財天

ここから振り返ると、元三大師堂の方になります。15時12分でした。

※元三大師堂入口

初めて知りましたが、何と「おみくじ発祥之地」なのですね。上記の御廟のところですでにご説明しましたが、この時の私は元三大師のことを何も分かっていなかったのです。

※元三大師堂

人もほとんどおらず、静かに参拝することができます。元三大師堂は、中に入ることもできました。

※元三大師堂入口

確か、中に納経所があったと思います。

来た道を戻り、先程の広場のようなところへ戻ります。そこからは、「道元禅師得度霊跡」へと行けるようです。ただ、横川中堂にもお参りしないといけませんし、時間的に厳しいような気がしたので、パスすることにしました。地面がビチャビチャだったことも関係しております。

広場付近から、横川中堂の方に下っていきます。逆に、横川中堂から元三大師堂に登っていく方が一般的でしょうか。私の様に元三大師御廟に寄り、西国三十三ヶ所の石仏を巡礼している方は少ないように思います。

※西国三十三ヶ所石仏 第二十七番書写山

二十番台の石仏を巡りつつ、下へと下っていきました。ついに最後の三十三番に辿り着きました。

そこからは、すぐに横川中堂の前に出ます。15時26分でした。

※横川中堂前

横川中堂も中に入ることができます。ご本尊は聖観音さまですね。無事に参拝を済ませることができました。

まだ時間があるので、上の方に戻り、恵心堂などを見てみようと思います。ちなみに横川中堂の周りには、恵心僧都の絵看板がありました。

※恵心僧都絵看板

これも不勉強で恥ずかしい話なのですが、恵心僧都って誰だろう?と思っていました。この絵看板を見て、よく分かりました。源信ですね。

源信とは、平安時代後期に浄土信仰を広めた人です。NHK大河ドラマ「どうする家康?」徳川家康が「厭離穢土おんりえど 欣求浄土ごんぐじょうど」という旗印を掲げていますが、この言葉は源信の著作『往生要集』に見られる言葉です。汚れたこの世を厭い、阿弥陀さまのいる極楽浄土に生まれ変わることをこい願う、ということですね。

広場の方に戻り、元三大師御廟と逆の方に進んでいきます。この辺になってくると、もうまったく参拝者はいらっしゃいません。

進んでいくと、右側に秘宝館なる建物が出てきました。パンフレット等にも載っていませんし、どうも中に入ることもできなさそうです。しかしそれでも一応、国指定の重要文化財となっているようです。

※秘宝館?

さらに奥へと進んでいきます。ようやく、恵心堂への入口が出てきました。15時36分です。

※恵心堂入口

非常に静かで、落ち着いたお堂でした。

※恵心堂

恵心堂から参道に戻り、考えます。実は、さらに奥には恵心僧都墓所があるようです。行ってみようか、どうしようか、考えていたのです。

※恵心僧都墓所案内板

しかし、せっかくですので、行ってみることにしました。

15時49分、墓所の上り口に到着です。

※恵心僧都墓所上り口

石段を登っていくと、到着しました。恵心僧都御墓です。

※恵心僧都御墓

本当に、静かなところで、恵心僧都が安らかにお休みになっていることが想像できました。そして、この地はどうやら比叡山の僧侶の方々の墓所となっているようです。

※墓所

尾根伝いに、無数の墓石が並べられています。大きいものもあれば、小さいものもあり、高僧から無名の修行僧まで、多くの方々がここに葬られていることが分かります。比叡山の長い歴史を感じさせてくれますね。

さて、戻りましょう。少し感傷にひたりながら、来た道を戻っていきます。あのような墓石まで拝み、ここまで見てきたことでもあるし、思い切って道元禅師の得度霊跡も拝観していくことにしました。広場まで戻り、地面がビシャビシャになっているところを下っていきます。ビシャビシャだったのは最初の方だけで、少し進むと階段が整備されていました。

※道元禅師得度霊跡までの階段

ここで16時4分です。

階段を下っていくと、苔むした平らな道へと出ました。奥に、遺跡らしきものがあります。

※道元禅師得度霊跡が見える

16時8分、無事に「道元禅師得度霊跡」まで到着しました。16時8分です。

※承陽大師得度霊蹟

承陽大師というのは、道元禅師のことですね。ここに一いち草庵を営んでいたのでしょう。法然上人栄西禅師親鸞聖人日蓮上人とつづき、ついに道元禅師のご霊跡にまでたどり着いたわけですね。まさに、日本仏教界の聖地と呼ぶにふさわしいところです。

四国で歩き遍路をやっていると、弘法大師さまのスゴイところばかり目につきますが、京都のもんからしたら、伝教大師さんもスゴイもんですえ。

そこからはまた階段を登り、広場へと戻りました。元三大師堂の近くには、「帰路」とオシャレな感じで書かれた案内板がありました。

※「帰路」の案内板

ここで16時13分でした。さあ、また参道を下って、横川中堂の脇を通り、駐車場まで戻りましょう。

※横川中堂の背面

横川中堂の背面は、このように舞台造となっています。段差をうまく利用して、お堂を建てているわけですね。

駐車場に戻ってきたときには、16時24分になっていました。ほぼたっぷり2時間、横川地域を巡拝していたことになりますね。

これで、西国三十三所のお礼参りは終了です。とくに横川地域には、西国三十三所のご本尊の写し石仏が配置されており、ご本尊も聖観音さまであることから、お礼参りには最適のように思います。比叡山延暦寺のホームページ*3では、東塔地域の根本中堂を西国三十三所観音霊場の番外とし、横川地域の横川中堂を新西国霊場の第十八番として紹介しています。しかし、観音霊場としての意味合いからすれば、この横川地域の横川中堂こそ、西国三十三所のお礼参りにふさわしいように思いました。その際は、ぜひ皆さんも西国三十三ヶ所石仏を巡礼してから、横川中堂にお参りください。

東塔地域と違って参拝者も少なく、同じ比叡山延暦寺でありながら、とても穴場で静かに巡ることができる霊場だと思います。

*1:所収 塙保己一編『続群書類従 第27輯下 釈家部』八木書店(2013)

*2:所収 塙保己一編『続群書類従 第27輯下 釈家部』八木書店(2013)

*3:比叡山延暦寺ホームページ「境内案内『霊場・朱印案内』」2023.3.24閲覧