西国お遍路“行雲流水”

西国三十三所や四国八十八ヶ所を雲のごとく水のごとく巡礼した記録

西国三十三所 第二十七番札所 圓教寺 ~車では行けない西の比叡山 西国三十三所の先達・性空上人の霊跡~

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圓教寺摩尼殿

西国三十三所の第二十七番札所は、書寫山しょしゃざん圓教寺えんぎょうじです。姫路という大都市近郊にありながら山上まで車で行くことができず、麓から歩いた場合は上醍醐よりも時間がかかるかもしれません。それゆえ、「西の比叡山」とも称される第一級の霊山になっています。

圓教寺の巡礼情報

圓教寺は比較的新しいお寺で、西国三十三所を再興したとされる花山法皇と同時代に開かれました。しかし、開山の性空上人しょうくうしょうにん花山法皇の先達を務められるなど、西国三十三所の観音巡礼との関わりが非常に深いお寺です。1958年に書写山ロープウェイが開通してアクセスしやすくなりましたが、「山上駅」からでも本殿までは25分ほど歩かなければなりません。

圓教寺の縁起

圓教寺の成立縁起は、圓教寺のホームページに詳しく記載されています。

www.shosha.or.jp(2021.6.18閲覧)

また、『寺誌叢書』第一に収められている「播州書寫山縁起」*1からも縁起を知ることができます。ちょっと長くなります。

 

~山陽道播磨の国の飾磨郡の西に書寫山圓教寺というお寺がありました。開山は性空上人といって、現実に六根清浄の徳を身につけられた聖者でした。天台宗の六即のなかでは、上から三番目の相似即に位置されます。勅として悉地菩薩と号されました。中国では南岳大師がこの悟りを得ておられます。日本では多くの祖師たちも未だこの徳を顕されてはおられません。

お生まれは、第31代の敏達天皇の末裔、大中大夫の橘善根卿のお子です。母君は氏であらせられました。上人はお生まれになった時、左手を握っておられました。父母が怪しんで開かれたところ、1本の針がありました。普賢菩薩は金剛針と呼ばれることもあり、その針が糸を導くように、普賢菩薩はすべての人々を導きお助けくださいます。また、深い悟りの境地におられて、迷いがないことは針のようであります。インドでは、名医の耆婆きば(※ジーヴァカ。古代インドのマガダ国の医師)が医針を携えて生まれ、世間の人々の病を治したとされます。この性空上人は普賢菩薩の示現として、人々の病を治し、悟りに導かれます。これゆえ、上人ご廟の前の勤行では、本地である普賢菩薩の供養法を朝夕行うことになっています。

上人の母君は子どもたちを生むとき難産に苦しんだので、上人を妊娠したときには毒を飲んで流産しようとされましたが、効果はなく、かえって安産で生まれました。今、母君の枕が播磨の国に伝わっており、初産の女性はお参りして、その枕を拝めば安産になると言われています。

性空上人醍醐天皇の御代、延喜10(910)年にお生まれになりました。すると六根清浄の上人なので、言葉は仏さまのお経に等しく、行いは仏さまの真理に一致していました。その徳は計り知れませんでした。

上人が乳児だったとき、乳母が上人を抱いてうたた寝してしまいました。目が覚めて上人を探しましたが、近くに見えません。慌てて辺りを探したところ、仏さまをお祀りする祭壇の近くでお一人で遊んでおられました。針を握ってお生まれになったうえに、さらに珍しいことで、父母はとくに愛されました。これは2歳のころのことです。こうして幼いころから殺生をせず、世俗に交わることもなく、一人で静かに遊んでおられました。

10歳の年に、法華経八巻まで習われて、一日も休まずに読経なさいました。お経の師匠は梅宮大社うめのみやたいしゃ(※京都市右京区にある。昔は京都府綴喜郡井手町付近にあった)の社僧でした。橘諸兄公がお祀りされている梅宮大社です。性空上人の氏神に当たります。こうしたことから出家を願っておられましたが、父母がお許しにならず、27歳の年に元服なされました。お名前を橘善行と名乗られました。

翌年、承平7(937)年、28歳で母君に連れられて日向国に行かれました。そこで9年が経ち、天慶8(945)年に菩薩さまの化身が来られて母君をお諫めになり、「賢人を生んだ母親なのだから、女であってただの女ではない。あなたの子は早く仏門にお入れなさい」とおっしゃいました。母君はただちに反省し、上人の出家をお許しになりました。上人が36歳の年でした。上人は霧島山に籠り、法華経を読誦なされました。山の中で食糧がなくなったころ、お経の中に粳米が現れました。また、窓の外に焼餅がありました。味は甘露のようでした。これより飢えに苦しむことはありませんでした。

39歳の年から、法華経を暗誦されました。その後筑前の国の背振山せふりさんに移住されました。このとき常人ではない僧が現れ成仏の記を授け、童子も同席してお経を読みました。常人ではない僧は文殊菩薩の化身でした。「末世といえども、法華経を読誦し修行する者がいれば、を授けるべしという釈迦如来の勅により、やって来て上人を与える」とその文に書いてありました。霧島は天地開闢のところであり、背振山には性空上人の開山というお寺があります

また、背振山には白幡上人が室内に出現されることもありました。性空上人は勧請したお詞で「南無阿利那阿佐羅那多乙天童護法者」と述べられました。南無阿利那阿佐羅那多は本地である不動尊のお名前です。乙天童護法は、垂迹のお名前です。性空上人は常人ではないので、白幡は不動尊のお力の現れで、乙護法が垂迹なさったことを、はやくお知りになることができました。

村上天皇の御代、康保3(966)年、上人が57歳のとき、筑前の国から真実得道の霊地を求めて都の方へ上られました。九州から播磨までの国々に立たれたとき、所々霊地がありましたが、上人の心はそれで満足しませんでした。すると、まことに瑞雲が先立って、上人に歩みに従いました。播磨の国府から、西北の素盞すさ(※書写の語源とも言われます)の山の上に雲が留まっていました。雲が動かないのを不思議に思われ、川の辺で休憩なさったところ、雲は動かずに川面に映ってこの山の上にありました。そこを雲見川といいます。上人は雲を追ってこの山に分け入りました。山の中腹である人がやって来て、上人に告げて「山は書寫山といいます。鷲頭山(※鷲羽山のことか?)が土を分けています。峯は一乗といいます。鶏足山が雲を送っています。この山に踏み入る者は菩提心を起こし、この峯によじ登る者は六根清浄となります」と申しました。この人は文殊菩薩の化身でした。上人は霊地のお告げを感じて、西の谷に庵を結び、座禅して心を澄まし、お経や修行に明け暮れて世俗を遠ざけてお住まいになりました。文殊菩薩の化身はこの山で、三つの勝地を示されました。第一は講堂の地。第二は如意輪堂の地。第三は白山の地です。第三の地にはお告げではお堂を建てず、時を待てということでした。そもそも上人がこの山に登られる前には、杣木を採る者が分け入って、二間の草堂を造っておいたのを、上人が後にお堂を再建されて、六尺の千手観音、金色の薬師如来像、不動明王等十余りの新しい像を作られて開眼供養をされました。~

 

こうして性空上人が圓教寺の元となるお寺を建てられたわけですが、後に花山法皇の行幸があり、圓教寺という寺号を賜ったとされます。なお、圓は「円」の旧字体で、最澄が重視した法華経の教えを指します。

圓教寺の見所

圓教寺の見所をご紹介します。

慈悲こころの鐘

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※慈悲の鐘

ロープウェイの「山上駅」からすぐ、参道の入口に当たるところにあります。1992年に鎌倉時代初期の意匠を想定して建立されました。世界平和祈願・浄佛国土建設を目指した鐘です。

西国三十三所ご本尊写し尊像

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※圓教寺ご本尊六臂如意輪観世音菩薩坐像写し尊像

東坂と呼ばれる参道に西国三十三所の各ご本尊の写し尊像が並んでいます。写真は圓教寺の写し尊像で、1987年にハリマ共和物産株式会社の代表取締役津田二雄さん以下従業員170余名の浄財で造立されたそうです。なお、他の札所のご本尊の謂れは不明ですが、各ご本尊のお姿をかなり正確に写した尊像だと思われます。

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※亀に乗る総持寺千手観世音菩薩写し尊像

仁王門

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※仁王門

江戸時代初期の建築と考えられ、これより中は聖域となります。日本の伝統的な門の形を受け継いだ三間一戸の八脚門であり、三つ棟造りとなっています。兵庫県の指定文化財となっています。左右の仁王像は、姫路市の指定文化財となっています。

壽量院じゅりょういん

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※壽量院

圓教寺塔頭たっちゅうの一つで、古くは無量壽院と呼ばれたそうです。承安4(1174)年には後白河法皇が7日間ここに籠り、観音さまのご加護を願ったと言われています。現在の建物は外観は寝殿造りの古い形式を備えながら、内部は床や違い棚のついた書院造りになっています。国指定の重要文化財となっています。5名以上で予約をすれば、精進料理をいただくことができます。

十妙院

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※十妙院

圓教寺塔頭の一つで、正親町天皇から十妙院という勅号を賜ったとされます。壽量院とは左右逆ながら、ほとんど同じ平面構成を持つそうです。江戸時代の建物で、国指定の重要文化財になっています。江戸時代前期の狩野永納筆の襖絵があり、特別公開の際には見ることができます。

護法石

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※護法石

昔、この二つの石の上に乙天童子と若天童子が降り立って寺門を守ったという伝説があるそうで、護法石と呼ばれています。また、弁慶がこの大きな石でお手玉をしたとも言われ、「弁慶のお手玉石」とも称されます。

湯屋橋

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※湯屋橋

湯屋橋の名前はこの辺りに湯屋沐浴所があったことにちなむそうで、「播磨国飾磨郡円教寺縁起等事」によると、釜一口・湯船一隻・湯笥一・水船一口を備える湯屋だったとされます。とくに釜は、性空上人から依頼された出雲守則俊(※藤原則俊か?)が鉄を集めて鋳造し人夫を整えて運搬したということです。現在の橋は江戸時代初めの元和6(1620)年に本多忠政が再興したとされ、擬宝珠は1944年に戦時供出されたそうです。しかし、1955年に元の銘文「奉寄進 播州飾西郡書寫山圓教寺御石橋 願主 本多美濃守忠政」を刻んだ擬宝珠が寄進されました。

三十三所堂

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※三十三所堂

西国三十三所のご本尊の写しをお祀りするお堂です。

摩尼殿

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※摩尼殿

摩尼マニとは梵語で「如意」のことを表し、元は如意輪堂と呼ばれていました。オリジナルは平安時代中期の天禄元(970)年の創建とされますが、先代が1921年に火災で焼失し、1933年に再建されました。設計は播州清水寺にも足跡を残す京都大学の武田五一博士で、ご本尊ともども兵庫県指定の重要有形文化財になっています。天人が桜の霊木を礼拝するのをご覧になった性空上人が、その生木にご本尊の六臂如意輪観世音菩薩像をお彫りになりました。毎年1月18日の鬼追いの日にご本尊ご開扉があります。国指定の重要文化財である四天王立像もここに安置されているそうです。

本多家廟所

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※本多家廟所

大講堂の東南隅にある土塀で囲まれたご廟所で、廟屋5棟と本多忠刻らの墓碑が並んでいるそうです。廟屋江戸時代初期から中期にわたる廟屋建築として県下でも例のない珍しいものとされ、兵庫県の指定文化財となっています。

大講堂

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※大講堂

圓教寺本堂に当たり、お経の講義や論議などが行われるお堂です。食堂・常行堂とともにコの字型に並んでいることから「三之堂みつのどう」と呼ばれており、伽藍の中枢に当たります。オリジナルは平安時代中期の永延元(987)年の創建ですが、度々災禍に見舞われました。現在の建物は室町時代の建立で、下層は永享12(1440)年、上層は寛正3(1462)年に建てられました。国指定の重要文化財となっています。内陣を土間とする天台宗の伝統的な本堂建築となっていますが、中に入ることはできません。ご本尊の釈迦三尊像は平安時代の造立と考えられ、国指定の重要文化財となっています。

常行堂

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※常行堂

南無阿弥陀仏とひたすら唱えながらご本尊の周りを回る常行三昧という修行をおこなうお堂です。ご本尊は阿弥陀如来坐像です。せり出している向拝のようなところは舞台で、大講堂の釈迦三尊像に舞楽を奉納するために使用するそうです。建築は大講堂食堂とほぼ同じ時代で、国指定の重要文化財となっています。

食堂じきどう

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※食堂

もともとは修行僧の寝食のための寮で、教興坊三宝院と呼ばれていたこともあるそうです。オリジナルは平安時代末期の承安4(1174)年の創建とされますが、現在の建物は室町時代の寛正年間(1461~66)ごろの再建と考えられています。国指定の重要文化財となっています。「長堂」とも称されるとおり、約40メートルの長さを誇っており、現存する総2階建ての仏堂としては類例がなく、国内最大規模の建物となっています。1階は写経道場、2階が寺宝の展示館となっています。ご本尊の僧形文殊菩薩は後白河法皇の勅願で造立されたそうです。

弁慶の鏡井戸

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※弁慶の鏡井戸

書寫山には源義経の家来であった武蔵坊弁慶が少年時代を過ごしていたという伝説があるそうです。何でも、昼寝をしていた弁慶の顔に、喧嘩好きな信濃坊戒円がいたずら書きをして、皆で大声で笑ったのですが、弁慶は笑われている理由が分かりませんでした。その後この井戸に映った自分の顔を見ていたずらに気づき、大喧嘩となったそうです。その喧嘩のために大講堂をはじめとする山内の建物は焼き尽くされてしまったということです。

不動堂

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※不動堂

江戸時代前期の延宝年間(1673~81)に建立され、明王院の乙護法童子の本地仏である不動明王をお祀りしました。元禄10(1697)年に修理が行われ、荒廃していた大経所をあわせて不動堂となりました。俗には赤堂と呼ばれていたそうです。

護法堂

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※護法堂

室町時代の建立とされ、国指定の重要文化財となっています。向かって右が不動明王の化身である乙天童子を祀る乙天社で、左が毘沙門天の化身である若天童子を祀る若天社です。

開山堂(奥の院)

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※開山堂

圓教寺開山の性空上人をお祀りするお堂で、堂内のお厨子には上人のご遺骨を蔵した等身大の木像が納められているそうです。オリジナルの建物は平安時代後期の寛弘4(1007)年、性空上人の没年に高弟の延照が創建したそうですが、鎌倉時代の弘安9(1286)年に焼失したとのことです。現在の建物は江戸時代前期の寛文11(1671)年に再建されたそうで、国指定の重要文化財となっています。軒下の四隅に左甚五郎作と伝えられている力士の彫刻がありますが、西北隅の力士は重さに耐えかねて逃げ出したという伝説があるとのことです。

金剛堂

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※金剛堂

もともとは普賢院という塔頭持仏堂であったそうで、ご本尊の金剛薩埵像は兵庫県の指定文化財となっており、現在は食堂に安置されているとのことです。普賢院平安時代中期の永観2(984)年に性空上人が創建され、上人のお住まいだったとされます。現在の建物は室町時代の建立で、国指定の重要文化財となっています。棟の鯱瓦は、日本最古のデザインと言われているそうです。

鐘楼

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※鐘楼

鎌倉時代末期の元弘2(1332)年に再建された袴腰付の鐘楼で、国指定の重要文化財となっています。鐘楼としては兵庫県下で最古の遺構であり、全国的にも極めて古いものとして、貴重とされます。梵鐘は元享4(1324)年の鋳造とされ、姫路市内最古の梵鐘として兵庫県の指定文化財となっています。

法華堂

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※法華堂

法華三昧堂とも言われ、オリジナルは平安時代中期の寛和3(985)年に播磨国司藤原季孝によって建立されたそうです。現在の建物は江戸時代のものとされます。

薬師堂

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※薬師堂

根本堂とも呼ばれる、圓教寺に現存する最古の建物だそうです。鎌倉時代末期の元応元(1319)年に再建されたそうで、兵庫県指定の重要有形文化財となっています。ご本尊の薬師如来は現在食堂に安置されているとのことです。1978年の解体修理の際、奈良時代の遺物が出土していることから、この地には圓教寺以前に何らかの宗教施設があったことがうかがえるそうです。

瑞光院

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※瑞光院

圓教寺塔頭六院の一つで、信者の組織である網干観音講の宿院となっているそうです。創建年代は不明とのことです。

圓教寺のご詠歌

ご詠歌とは、花山法皇が各札所で詠まれた歌と伝えられています。

はるばると のぼればしょしゃの やまおろし

 まつのひびきも みのりなるらん

(はるばると のぼれば書写の 山おろし

   松のひびきも 御法なるらん)

漢字表記、歌の解釈は紀三井寺前貫主前田孝道*2によります。

「はるばると……」。この言葉には、雨の日、風の日、花山法皇がたどられた長い巡礼の旅路と、厳しい人生の旅路への感懐が込められているのではないでしょうか。「のぼれば書写の やまおろし」。書写には円教寺の山号「書写山」と、お経を写す写経の意もあります。

これは実際に歩いた方にしか分からないと思うのですが、書寫山の登山道は比較的松の木が多く、はげ山のような印象もあります。ですから山上から「山おろし」が吹いてきたら、かなり足どりが重くなって巡礼の旅路が苦しくなったと思われます。そこで、自らを奮い立たせるために「松のひびきも 御法なるらん」ということで、松が風に響く音も仏さまの教えを伝えてくれているのだ、と詠ったのでしょう。

圓教寺へのアクセス

圓教寺のホームページに詳しいアクセス情報が掲載されています。

www.shosha.or.jp(2021.6.18閲覧)

 

公共交通機関

JR「姫路駅」から神姫バス「書写山ロープウェイ」行に乗車、「書写山ロープウェイ」下車(「姫路駅」から約30分)。書写山ロープウェイ 「山麓駅」から乗車、「山上駅」下車。

山上駅」からは徒歩約20分、または「摩尼殿」行のマイクロバスに乗車5分。

※マイクロバスは入山志納金と別に特別志納金500円がかかります 

お車 

山陽自動車道「山陽姫路西IC」から東に約10分。

書写山ロープウェイ駐車場あり。約270台。ロープウェイ利用者は無料。

※カーナビ使用時には「書写山ロープウェイ」ではシステムにより高速道路上に案内される場合あり。ロープウェイ北隣の「姫路市書写の里・美術工芸館」(TEL:079-267-0301)を目的地にするとよい

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※書写山ロープウェイ専用無料駐車場

圓教寺データ 

ご本尊 :六臂如意輪観世音菩薩

宗派  :天台宗

霊場  :西国三十三所 第二十七番札所

     播磨西国観音霊場 第1番札所

     播磨薬師霊場 第16番札所

     神仏霊場巡拝の道 第75番

     播磨天台六山

所在地 :〒671-2201 兵庫県姫路市書写2968

電話番号:079-266-3327

拝観時間:8:30~18:00

     8:30~17:00(10月11日~2月末日)

拝観料 :大人500円 高校生以下無料       

URL   :http://www.shosha.or.jp/

圓教寺の境内案内図

下記サイトに案内図があります。

www.shosha.or.jp(2021.6.18閲覧)

 

第二十六番 一乗寺 ◁ 第二十七番 圓教寺 ▷ 第二十八番 成相寺

南坊の巡礼記「圓教寺」(2021.4.23)

一乗寺を11時15分ごろに出発し、国道372号線に出て西へ向かいます。地図を見ているかぎりでは、姫路城の近くに行くと道が混むと思われたので、北側を通っていくつもりでした。しかし、ここでもうっかりしてしまいます。

途中で右に分かれる社街道の方に行くべきところを、間違ってそのまま直進してしまいました。もうこうなったら仕方ありません。開き直って姫路城の前を通ることにしました。城南線から書写街道と名を変える道を西に進むと、右手に姫路城が現れます。

7~8年前に白漆喰が塗りなおされた後に訪れた際は本当に真っ白だった姫路城ですが、少し漆喰が黒っぽくなってきていますね。これはこれでまた違う味わいがあります。なお、写真は一番下にありますので、お楽しみに!

車から降りて姫路城を見にいく時間はありませんので、そのまま通過します。ところで、時間がもういい時間でお昼を食べる場所を探していたんですよね。姫路城を過ぎてしばらく行くと左側にくら寿司姫路城店が出てきましたが、混んでいる感じだったのでパスです。するとすぐ後にスシロー姫路城の西店がありました。車も停められますし、口がお寿司の口になってしまっているので、入ることにしました。

スシローに来るとあさりの赤だしを頼んでしまいます。食べるものはだいたい決まっていて、たいやはまちの白身魚、うなぎか穴子、最後は玉子です。サーモンやマグロはめったに食べません。私はかっぱ寿司の株主なのですが、肉系のお寿司が結構充実しており、かっぱ寿司に行った場合はほとんど生の魚を食べないときもあります。

さて、エネルギーをチャージできたので、まずは書写山ロープウェイを目指しましょう。だいたい15分くらいで到着です。12時30分ごろになっていました。

駐車場に公衆トイレもあったので、お借りしました。その間に作戦を考えます。

前々からお伝えしているように、私は高所恐怖症なんですよね。どれぐらいのものかというと、観覧車に乗っても手汗がヤバくなるくらいです。ですから、できるかぎりロープウェイには乗りたくないわけです。何しろ四国八十八ヶ所を回ったときも、21番札所の太龍寺、66番札所の雲辺寺に行く際、ロープウェイを使わなかったくらいです。

しかし、ロープウェイに乗らないのに駐車場を利用するというのは人倫に反するように思います。そこで、行きは歩いて登り、帰りはロープウェイを使うことにしました。できたら乗りたくはないのですが、人の道に外れることはできません。ただし、ロープウェイ最終便がもし出発していたら、それは不可抗力ということで歩いて降りることにしましょう。

というわけで、歩いて登っていくことにします。12時38分に駐車場を出発しました。ロープウェイ「山麓駅」から駐車場側を見ると、一応登山口の案内があります。まあ、これはバス停で降りた人に向けてのものでしょう。

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※書写山登山口の案内板

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※書写山ロープウェイ「山麓駅」

イメージで勝手に北に歩いていると思ってましたが、今地図を見直すと、西に向かっていたようです。左上を走っているのは山陽自動車道です。

とりあえず200メートルほど進みます。

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※書写山登山口の案内板PartⅡ

今度は左に250メートルほど進んで、右に曲がるそうです。

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※登山道の案内標識

250メートルも歩いていませんが、ここで右に曲がるようです。地図で見直しても50メートルも歩いていません。まあ、曲がれと言われれば曲がります。なお、ここを左上の方に真っ直ぐ行っても、地図で見るかぎりでは行き止まりになるようです。

右に曲がると道なりに用水路沿いに進みます。するとしばらくしてまた案内標識があります。ここで12時44分です。

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※用水路沿いの案内標識

ここを右に曲がると、住宅街に入っていきます。完全に住宅地で、この道で合ってるのか不安になります。

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※登山道入口までの住宅街

しばらく進むと案内標識がありました。ちょっとほっとします。右に曲がりましょう。12時45分です。

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※住宅街にある登山道の案内標識

右に曲がってしばらく進むと、今度は左に進めと言われます。とにかくこちらは指示どおりに進むしかありません。

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※民家の前にある案内標識

ここに出ます。しかし、真っ直ぐ進んではいけません。左に行きましょう。

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※近畿自然歩道の標識

何か人の家の庭のような雰囲気もありますが、奥には杖も置いてあり、登山道らしきものも見えます。合ってたんですね。この時点で、12時47分でした。

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※登山道入口

2分ほど登ると、もうこんな感じです。

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※登山道の序盤

しばらく進むと、年配のご夫婦が休憩しておられました。ご挨拶をして、私は先を急ぎます。

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※ひめじ道への分岐点

なお、ご夫婦が休んでおられたところは、登山道の分岐点になっています。しかし、今は向こうに降りることができないようです。

二丁まで来ました。ここで12時51分です。

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※二丁の丁石

これは上醍醐と同じパターンで、予備知識がないと、あとどれくらいあるのか分からない方式ですね。槇尾山施福寺はカウントダウン方式でしたので、非常に分かりやすかったです。ちなみに圓教寺仁王門前に丁石がありましたが、十八丁でした。上醍醐は十九丁ですから、それよりは1丁(※1丁は約109メートル)分短い計算になります。

まだまだ先は長そうですので、頑張りましょう!

途中、下のような看板もありました。

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※アカマツ林と自然破壊に関する説明板

確かに、この辺は山肌が露出しているところが多く、独特の風景が広がっています。

もう少し歩くと、日本一小さな池、宝池に着きました。ここで12時55分でした。

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※宝池

池ということですが、水が湧いているのでしょうね。ただの水溜まりなら、すぐに干上がってしまうでしょうから。それにしても、昔の人はこういう水も飲んでいたのでしょうか。手ぬぐいか何かで漉して水筒に入れれば、何とかなったのでしょうかね。

さらに進みます。しかし本当にこんな感じで、荒涼とした雰囲気があります。人間の自然破壊の痕跡です。

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※登山道中盤

誰が作ったのか、こころの岩なるものがあります。

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※こころの岩

この感じなら、シリーズで他にもいろいろな岩ができそうです。

五丁を過ぎた辺りに、古い大日如来像がありました。

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※大日如来像

方角が分からないのですが、おそらく姫路市内を一望できるスポットもありました。時刻は12時58分でした。

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※展望スポット

六丁には休堂という休憩できる場所があったようでした。

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※六丁休堂跡

さらに進むと樫の絆という不思議なものがあります。

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※樫の絆

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※樫の絆拡大図

右の木から出ている枝と左の木から出ている枝がつながってしまっています。同化したということでしょうか。しかし掘り返したら実は同じ木かもしれませんね。

七丁には岩がありました。

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※七丁岩

昔はこういう目印になりそうなものを大事にしていたのでしょう。

九丁まで来ました。結構険しくなっています。ここで13時6分です。

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※九丁の丁石

そして、このちょっと上のところに近道とそうでない道の分岐点が!

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※近道・鰐の背中分岐点

左上に進む険しい道が鰐の背中と呼ばれる、十一丁までの近道だそうです。右には、樫の絆程度の緩やかな道が続いています。しかし、近道と聞けば行くしかありません!

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※鰐の背中

しばらく登ると、こんなものが。

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※ご詠歌の書かれた岩と「一隅を照らす」の石柱

とりあえず、圓教寺に近づいているのは間違いなさそうです。

そして13時9分、十一丁に到着です。

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※十一丁の丁石

この鰐の背中を登っている際、私より少し上くらいの女性にお会いしてご挨拶したのですが、登山道を登っているけれども圓教寺には行かず、ハイキングに行っている、とのことでした。そしてありがたいご忠告をいただきました。「毛虫がいるから気をつけてください」と。

そうですよね、今年は暖かいから毛虫も早いんですよね。4月中ならまだ何とかなるんじゃないかと思っていましたが、甘かったです。登山道ではあまり気にならなかったのですが、志納所近辺にたくさんいました。要注意です。

さらに進んでいくと、また見晴らしのいいところに来ました。

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※紫雲堂跡付近

紫雲堂というのがこの辺りに建っていたようです。休憩所になっていたみたいですね。

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※紫雲堂跡の説明板

ベンチもあるので今でも休憩することができます。ここで13時13分です。

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※紫雲堂跡付近のベンチ

私は休まずに出発しました。するとすぐに十二丁です。

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※十二丁の丁石

13時15分には、こんな標識があるところに来ました。うーん、実は今まで歩いてきたのは1.2kmで、圓教寺まではまだ1.0kmもあると……。

まだまだですね。ただ、この1.0kmが圓教寺山門なのか摩尼殿なのかどこまでの距離なのか分かりませんよね。なお、ついでに言っておくと、険しい登りはもうほぼ終わっています。あとはじわじわと登る感じです。

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※近畿自然歩道の標識

そこからわずか1分で、ロープウェイの「山上駅」に着きました。誰もいません。

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※ロープウェイ「山上駅」

ここで十三丁です。後出しジャンケンですが、今は十八丁までと分かっていますので、もう山門まで3分の2以上来たことが分かります。

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※十三丁の丁石

しかしこれ、逆に言うと山門まであと3分の1近くあるということなんですよね。つまり、ロープウェイに乗ってきても、マイクロバスに乗らないかぎりは結構歩かないといけないということです。書写山ロープウェイのホームページ*3によると、ここから摩尼殿まで25分くらいかかるらしいです。なかなかの距離ですね。

そこからすぐに公園のようなスペースに着きます。ここに志納所があり、入山受付となっています。志納金(入山料)が500円かかります。受付のお父さまに500円をお支払いすると、ウォーキングマップを下さいました。これで圓教寺の全貌が分かります。

なお、バスを使う場合はさらに500円かかりますが、私は歩きます。

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※書写山と和泉式部の説明板

圓教寺和泉式部と関わりがあるらしく、この後それに関する説明板が続いていました。

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※和泉式部の説明板

なぜか④番からしか写真に撮れていません。①~③番は違うところにあったのでしょう。

しかしそれを探している余裕はありません。この志納所付近は毛虫のメッカになっているのです。木の種類によるのでしょうね。今までの登山道はまったくと言っていいほどいませんでしたし、お寺の参拝中もいなかったように思うのですが……。とにかくここはヤバかったです。

しかもかろうじて目に見えるくらいの大きさなので、うっかり服の隙間なんかに入られた日には大変です。上からビローンとぶら下がってきていて、うねうねとうごめいているので、本当に気持ち悪いです。思わず声が出るくらいです。

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※和泉式部歌塚案内図

和泉式部歌塚もあったようで案内図もあったのですが、結局私はこの時は発見できませんでした。次の機会にはきちんと行きたいと思います。

少し進むと、分かれ道に出ます。真っ直ぐが参道です。また、「西国巡礼の道」という石碑が建っていますが、ここから仁王門までの間に西国三十三所の各ご本尊の写し尊像が建てられています。

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※参道分かれ道

鐘楼の横を通っていきます。

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※慈悲(こころ)の鐘

境内の中の鐘楼では鐘を撞くことができませんが、ここでは撞けるようです。平和を願って撞きましょう。

行きは全部写真に撮らなかったのですが、少しだけ撮っていました。

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※葛井寺ご本尊写し尊像

葛井寺ご本尊に関しては、本当に腕が1000本ありますが、これも細かく再現しているようです。ご表情なんかも写真で見たのと同じ感じです。

そうこうしているうちに十五丁です。

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※十五丁の丁石

順番的に十番の三室戸寺の尊像の近くだったようです。

途中で少し開けたところがありました。すでに13時27分になっています。

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※展望スペースからの風景

横にあったパネルだと、姫路城が見えるらしいのですが、見えますか?

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※展望案内パネル

パネルだと山の前になっていますが、正しくは山の左上のようですね。ベンチに手描きの図がありました。

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※ベンチの手描き案内図

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※拡大写真

Google Pixel3a ではこれが限界です。正面の山の左上の緑色のベルト状のところが姫路城の敷地だと思います。どれが天守閣がこのカメラの精度ではちょっと分からないですね。

十七丁の丁石です。あと、1丁ですね。後ろに写っているのは、二十四番中山寺の十一面観世音菩薩さまです。

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※十七丁の丁石

そして13時31分、ようやく仁王門に到着です。遠かった!

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※見えてきた仁王門

左はマイクロバスが通る道です。人間は仁王門を通りましょう。

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※仁王門

十八丁の丁石があります。扁額には、「志よしや寺」と書かれています。「書写山」ではなく「書写寺」という呼称もあったんですね。

さあ、入っていきましょう!

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※書寫山圓教寺散策絵図

この日は二十五番播州清水寺、二十六番一乗寺と山寺を巡っていますが、ボリューム的にはまったく別格の大きさですね。ロープウェイのホームページでも「2時間はみておくことをお勧めします」と書かれていましたが、確かにそれくらいはかかりそうです。ロープウェイの「山上駅」から仁王門まで17分かかっています。

環境庁と兵庫県が作成したマナー啓蒙のための説明板もあります。

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※チョウに関する説明板

要するに、ゴミを捨てたり木を傷つけたりするような規律に反することはしないように、ということでしょう。しかしチョウが自由だというのは、現代人の勝手な妄想でしょう。ドイツの哲学者カントは、「自由」の定義を自然の因果法則に支配されないこと、としましたので、カント的にはチョウは「不自由」な存在です。

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※コケに関する説明板

コケに関する説明板もありました。これは説教くさくありません。

参道をさらに歩くと、摩尼殿までの案内板がありました。時刻は13時38分になっています。

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※摩尼殿までの案内板

古い道標もありました。

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※道標

「すぐ本堂 右 西坂 左 東坂」と書いてありますが、それにしてもこの一丁はどこからどこまでの一丁なのでしょう。西坂はもしかするとカウントダウン方式なのかもしれませんね。西坂の登山口は兵庫県立大学姫路工学キャンパスの北東にある日吉神社の辺りにありますので、また登ってみたいと思います。

そこから歩くこと約4分、12時43分にようやく摩尼殿の下に到着です。ロープウェイの「山麓駅」から1時間と少しで着いたことになります。

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※摩尼殿の下

清水寺ほどではないにしても、下から見上げると、大迫力です。

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※摩尼殿を見上げる

摩尼殿には側面から入っていく感じになります。

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※摩尼殿側面入口を望む

ここも靴を脱いで上がっていきます。

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※摩尼殿側面入口

ハイカットの靴の方もいらっしゃいます。

内陣は写真撮影できるようです。一応仏さまの方は遠慮しておきました。ご自身の目でお確かめください。

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※摩尼殿内部

今日一番の人の多さです。さすがです。

ご本尊は直接は拝めませんが、納経をさせていただきました。納経所摩尼殿内の右側にありますので、ご宝印をいただきました。

さて、摩尼殿を出て左を見ます。実は摩尼殿圓教寺の序の口で、むしろここから先の方がたくさんの堂宇があるんですよね。案内標識があるので、それに従って進みます。

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※大講堂などへの案内標識

途中、ウォーキングマップにも載っている大仏さまがありました。

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※大仏

今度はスミレモの説明板です。

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※スミレノの説明板

アオノリ(青海苔?)と同じ仲間だと書いてあります。海の幸という印象がありますが、陸にも生えるんですね。

本多家廟所まで来ました。ここで14時6分になっています。

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※本多家廟所

ここまで来ると少し開けています。すぐに三之堂です。

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※三之堂 正面が食堂、右が大講堂、左が常行堂

と、ここにえらい大勢の集団がいます。20人くらいでしょうか? ガイドらしき年配の方が、一所懸命説明しておられます。20歳前後の若者たちなのですが、どうやら外国の方のようです。どこの国でしょうか。留学生か何かだと思いますが、見学ツアーで来ておられるようですね。

右の大講堂はこんな感じで、中には入れません。

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※大講堂

常行堂はこんな感じです。せり出しているのは、向拝ではなく舞台だそうです。もしかしたら中に入れたのかもしれません。私は入っていませんが……。

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※常行堂

食堂は2階建てになっていて、中に入って見学することができます。いろいろなものが展示されています。1階に受付のようなところがあり、お坊さまがいらっしゃいますが、大講堂のご朱印の受付所となっているだけですので、無料で拝観することができます。

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※食堂

1階にはなぜか姫路城の3代目の鯱瓦もありました。

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※姫路城大天守3代目鯱瓦

2階には数多くの仏像が展示されています。一応写真は撮っているのですが、掲載OKかどうかが分からないので、掲載を見合わせますね。

あと、余談ですがこの辺のところを書くのは3回目です。メモリの関係か何か分かりませんが、なぜかアプリがフリーズしてしまい、保存もできていない、ということを土曜日と日曜日1回ずつ繰り返しておりまして、これが何と3回目のトライなのです。

食堂を出ると、左に弁慶鏡井戸の説明板と奥の院への案内標識がありました。まだまだ先は続きます。なお、この時点で14時21分です。

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※弁慶鏡井戸の説明板と奥の院への案内標識

途中には古い道標もありました。

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※奥の院への案内標識と道標

奥の院といっても、そんなに遠いわけではありません。すぐに到着です。

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※奥の院 左が開山堂 右の二つは護法堂

例のグループが先に来られていました。ガイドの方が「昔の巡礼の方はこのような服装ですべて歩いていたんですよ」と私の服装について説明してくださったのですが、私がとくに気の利いたことを言えなかったので、皆さんの反応も薄かったです。

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※護法堂拝殿説明板

護法堂拝殿があったのですが、うかつにも写真を撮っていませんでした。

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※開山堂

開山堂は中に入れます。中でお参りさせていただきました。

ここからはメインのルートでは摩尼殿の方に順路が続いていますが、途中でいくつかの堂宇があります。とりあえず私は団体さんを避けて先に展望公園に行きました。

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※展望公園からの景色

播磨灘、つまり瀬戸内海が見えるようなのですが、ガスっていてあまりよく分かりません。

そこから少し戻るような感じで、鐘楼法華堂と進みました。

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※鐘楼

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※法華堂

また、この近くには松平家墓所もあります。

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※松平家墓所

残念なことに築地が青いビニールシートで覆われています。崩れているか何かなんでしょうが、もったいないですね。しかしあまりにも伽藍が広大なので、お寺の方でも全部に手が回らないのかもしれません。

最後に、薬師堂を参拝しました。ここのご本尊は、食堂に安置されています。

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※薬師堂説明板

これで、このエリアは終わりです。ここからはひたすら摩尼殿の方に戻り、摩尼殿からは仁王門を経てロープウェイの方へ戻るだけです。

摩尼殿までの途中に、瑞光院という塔頭がありました。

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※瑞光院

めちゃくちゃ侘びた感じです。そして、マップによるとこの近くに大黒堂というのがあったようなのですが、気づかずにスルーしてしまったようです。

摩尼殿下に戻ってきたのは14時45分でした。ここからロープウェイまでの間は往路で27分かかっています。まあ、帰りは下りの方が多いですから、それほどはかからないと思いますが。

例のグループは、ここのはづき茶屋の辺りに座って休憩していました。私は先に出発します。

摩尼殿からは少しだけ登ります。仁王門からは完全な下りになりますので、楽チンです。15時2分ごろにロープウェイ「山上駅」に到着しました。最後の最後まで迷いましたが、ここまで来たので、もはやロープウェイに乗ることに決めました。

先の便は15時ちょうどに出発しているので、次は15分発です。「山上駅」にはベンチや自動販売機があるので、少し休憩させてもらいました。そう言えば、山を登り始めてからここまで、座ってきちんと休憩するのは初めてです。

展望スペースもあったので、写真も撮りました。

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※「山上駅」展望スペースからの風景

15分になりましたので、ゴンドラに乗り込みます。お客さんは私と、後から来られた年配のご夫婦だけでした。

正直、景色を見る余裕はあまりありません。かなり手汗が出ます。ただ、このロープウェイは比較的尾根伝いにロープが張られているので、マシな方ですね。ひどいのだと谷を越えて行くヤツもありますから。時々、ロープウェイが空中で停止して救助まで何時間もかかった、というニュースをやっていることがありますが、正直、ご免被りたいものです。

ロープウェイ自体は、わずか5分程度です。15時20分、書写山ロープウェイ「山麓駅」に到着です。登りの労力から考えると、あっけないものでした。しかしこれで大手を振って車に乗り込むことができます。ロープウェイを使うから駐車していたのですよ、というわけです。

ここからは、いったんJR「姫路駅」を目指します。一乗寺圓教寺のスタンプをいただくためです。どうやら駅の北口の東の方にコインパーキングがいくつかあるようでした。

30分ほどでパラカ姫路市東駅前町第1駐車場に到着です。そこから「姫路駅」の中央改札を目指しました。さすが兵庫県第2の都市、立派なターミナル駅です。新幹線も停まりますので、大きいです。無事に中央改札でスタンプをもらい、駅の北側に出ると正面に姫路城が!

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※姫路城

漆喰も完全に真っ黒になっているわけではないので、独特の味わいがあって今のこの姿もいい感じですね。

さて、これで終わりではありません。実は播州清水寺のスタンプをJR「相野駅」でもらわないといけないんですよね。行きはルート的に戻る感じだったのでやめておき、帰りにもらおうと決めていたのです。というわけで1時間ほどかけて「相野駅」に行き、スタンプをもらいます。とても小さな田舎の駅、という感じです。車も、少しくらいなら遠慮せずに停めることができます。

さらに自宅までは1時間少々かかりました。この日は帰宅が今までで一番遅くなってしまいました。出発を早めておいてよかったです。

圓教寺の話に戻りますと、今回はロープウェイ乗り場に車を停めて、行きは東坂を歩いて登り、帰りはロープウェイで降りてきました。次回は西坂にも挑戦してみたいと思っています。

というわけで皆さんも! Let's start the Pilgrimage West!

 

南坊の巡礼記「一乗寺」(2021.4.23) ◁ 南坊の巡礼記「圓教寺」(2021.4.23)

南坊の巡礼記「圓教寺」(2021.4.23) ▷ 南坊の巡礼記「成相寺」(2021.4.30)

 

最終更新:2021.6.23

*1:国会図書館デジタルコレクション『寺誌叢書』第一(所収『大日本仏教全書.117』)

*2:前田孝道『御詠歌とともに歩む 西国巡礼のすすめ』朱鷺書房(1997)

*3:書写山ロープウェイホームページ(2021.6.19閲覧)