西国三十三所の第五番札所は、紫雲山しうんざん葛井寺ふじいでらです。第四番札所の施福寺せふくじとは打って変わり、平地のど真ん中にあるのがこのお寺です。近鉄の藤井寺駅もすぐ近くにあり、アクセスに関しては抜群で、それだけに近所の方々からも親しまれているようです。
葛井寺の巡礼情報
葛井寺のご本尊は国宝の十一面千手千眼観世音菩薩です。千手観音といっても手は40数本しかないことが多いですが、こちらのご本尊は本当に1000本以上の手があります。しかも国宝ということでもあり、とても貴重なご本尊が祀られているお寺ということができます。
葛井寺の縁起
葛井寺の成立縁起は、葛井寺のホームページに詳しく記載されています、と言いたいところなんですが、実は当該項目がまだメンテナンス中で、見ることができません。最近ホームページを刷新されたところですので、若干不具合が生じているようです。ホームページを通じてお問い合わせさせていただいたところ、調整いたします、と丁寧なお返事をいただきました。
ホームページの「葛井寺について」の項目には、次の説明文が掲載されていますので、更新されるのを楽しみに待っていたいと思います。
725年、百済からの渡来人葛井氏の氏寺として建立されました。
葛井寺(ふじいでら)の事、藤井寺市(ふじいでらし)との関係をご紹介します。
なお、境内には案内板がありますので、そこから成立縁起を知ることはできます。
※葛井寺「沿革」案内板
また、永正7(1510)年の「藤井寺勧進帳」*1からもある程度のことが分かります。
葛井寺の歴史は相当古く、6、7世紀には百済くだら王族王仁わに一族の葛井ふじい氏らにより創建されたと考えられます。渡来系の豪族が建てたお寺だということですね。
その後、第45代天皇の聖武天皇が神亀2(725)年に伽藍を建立しご本尊を奉納され、行基菩薩によって開眼供養が行われました。さらに平城天皇の勅願により大同元(806)年、阿保親王が再興されました。その後いったんまた荒廃したようで、永長元(1096)年大和国軽里の住人藤井安基が再興したことから藤井寺とも呼ばれるようになりました。
この地は五大明王の一尊、大政威徳天王の影向ようごう、つまりお姿を現される地であり、金峰山・金剛山の要所です。葛木縁起(葛城を指すか?)によれば、葛井寺は葛城山の西門に当たるとのことです。
ご本尊は千手千眼観世音菩薩で、稽文會けもんえ・稽主勲けしゅくん(「稽首勲」という記載もある)の手になるとのことです。大和国長谷寺の十一面観世音菩薩像と同じ木で造られている、とされます。
葛井寺の見所
葛井寺の見所をご紹介します。
四脚門
※葛井寺西門
現在、西門となっているこの四脚門は、もともと南大門として豊臣秀頼によって寄進されたそうです*2。国指定の重要文化財となっています。小さいものですが、重厚感が漂っています。
南大門
※修復中の南大門 2021年3月3日現在
南大門はたびたび焼失、倒壊しましたが、現在のものは寛政2(1790)年に起工して約10年後に完成したものです*3。現在、令和大改修が行われており、耐震補強と朱塗り替えが行われるそうです。
藤棚
※藤棚
春には藤色の花がいっぱいに咲く、藤棚です。ご詠歌中に「花のうてなに 紫の雲」と詠われるように、藤がいっぱいに咲いて風にゆらゆらと揺られている様は、まさに紫の雲のように見えたことでしょう。山号と縁の深い藤棚だと思われます。
2021年4月8日から藤まつりを開催しておられます。毎日藤棚の様子がホームページにアップされます。
本堂
※葛井寺本堂外陣
これまた重厚感のある本堂です。ここに国宝ご本尊十一面千手千眼観世音菩薩さまが祀られています。
阿弥陀堂
※再建予定の阿弥陀堂
延享3(1746)年に上棟されたもので、1934年に修理修復が行われました。しかし、傷みが激しいため、再建する予定とのことです。
こちらに納められていた阿弥陀如来像、観音菩薩像、勢至菩薩像以下の阿弥陀三尊二十五菩薩像も修復されるそうです。ほぼ等身大の立像が一体も欠けずに残存しており、非常に貴重なものだということです*4。
石造灯籠
※石造灯籠
別名を紫雲石の燈籠とうろうと言います。花崗岩製で高さは2.3メートルもあり、鎌倉時代に造られたと考えられています。走っている獅子のレリーフが彫られているなど、細部も見事な装飾がなされています。大阪府の指定文化財になっています。
乾漆千手観音坐像
※乾漆千手観音坐像(出典:Wikipedia)
国宝である、十一面千手千眼観世音菩薩坐像です。カラー写真でお見せできないのが残念ですが、藤井寺市ホームページに写真が掲載されていますので、ご覧ください。
乾漆とは何か、この像の特徴はどういった点なのかについても、上記ホームページに詳しい記載があります。一部引用させていただきます。
さて、ご本尊の千手観音菩薩坐像は、寺伝によれば、稽文会、稽首勲の作で、像高1.5メートルの半丈六の脱活乾漆造りであります。脱活乾漆造りとは、粘土で像の原形を造り、この上に麻布を張り漆で固め、漆に木屑を混ぜたもので、細かい造形を施す仏像の製作方法なのです。原形となった粘土は抜き取られるので軽い仏像が出来上がり、しかも細かい表現が可能なので、奈良時代には盛んに採用されました。ところが、金銅製の仏像に比べると湿気や乾燥にデリケートで、もちろん火災には弱く、現在まで残った仏像はわずかになってしまいました。
葛井寺の千手観音像は、乾漆像の中でも保存状態も良好で、大阪府下唯一の天平仏として、昭和13年に国宝に指定されました。
頭上には、十一面を頂き、文字どおり千本の手をあたかも光背のように形造っています。お顔の輪郭は豊満で、理知的な表情を写実的に表現しています。誇張のない体躯は、比例がよく整っていて堂々としており、お顔とよく調和しています。衣紋の隆起は高く、写実的な手法が一貫しており、天平時代の円熟しきった技巧手法がよく発揮された作品に仕上がっています。
また、見落としがちですが、台座の蓮華の一部とその下の敷茄子も当初のものです。とくに敷茄子四方の優美な忍冬唐草文の浮彫模様は、天平美術意匠の真髄と讚えられるものです。
本尊は、大阪府下で唯一の天平時代の作品というにとどまらず、日本彫刻史上、奈良の唐招提寺の乾漆立像と双璧と讚えられる乾漆像の傑作とされています。
非常に貴重で、またとない秘宝だということが分かります。
毎月18日に定例のご開帳が行われていますので、皆さんもぜひ拝顔しにお参りして頂けたらと思います。
葛井寺のご詠歌
ご詠歌とは、花山法皇が各札所で詠まれた歌と伝えられています。
まいるより たのみをかくる ふじいでら
はなのうてなに むらさきのくも
(まいるより 頼みをかくる 葛井寺
花のうてなに 紫の雲)
漢字表記、歌の解釈は紀三井寺前貫主前田孝道師*5によります。
この御詠歌のお心をうかがいますに、その昔、花山法皇が葛井寺まで巡拝されたとき、境内には藤の花が咲き乱れていたかと思います。その美しい藤の花の姿を見、このお寺を取り巻く環境をご覧になった法皇の目には、観音さまが蓮のうてなを捧げてご来迎したもう時はかくやとばかり紫の雲棚引き、あるいは仏さまのお浄土のようにも思えたのではなかったでしょうか。
「頼みをかくる」とは、何かに頼って蔓を伸ばしていく藤の枕詞だそうです。「うてな」とは極楽に往生した者の座る蓮の花の形をした台、つまり蓮台のことを指します。花山法皇には、まるで観音さまが紫の雲に乗って現れたかのように映ったのでしょう。
葛井寺へのアクセス
葛井寺ホームページに詳しいアクセス情報が掲載されています。
公共交通機関
近鉄「藤井寺駅」下車徒歩約3分。
お車
西名阪自動車道「藤井寺IC」から南西へ。約5分。
東門に祈願者専用駐車場あり。3~4台。無料。
※祈願者専用駐車場 道はかなり細い
南大門南側に民営駐車場あり。40台程度。30分200円。
※南大門南側民営駐車場 ここに至るまでの道も細いので要注意
葛井寺データ
ご本尊 :十一面千手千眼観世音菩薩
宗派 :真言宗御室派
霊場 :西国三十三所 第五番札所
河内西国霊場 特別客番
神仏霊場巡拝の道 第59番
所在地 :〒583-0024 大阪府藤井寺市藤井寺1-16-21
電話番号:072-938-0005
拝観時間:8:00~17:00
拝観料 :無料
URL :https://www.fujiidera-temple.or.jp/
第四番 施福寺(槇尾寺) ◁ 第五番 葛井寺 ▷ 第六番 南法華寺(壷阪寺)
境内案内図
上記サイトに案内図があります。
南坊の巡礼記「葛井寺」(2021.3.3)
叡福寺から車で20分ほど下道を走り、葛井寺に到着です。ただ、困ったのは事前の下調べでは駐車場がお寺にはない、ということでした。ここまでの各札所では、お寺に必ず駐車場があったのですが、葛井寺には駐車場がないようです(2021年3月3日現在)。そこで、近隣のコインパーキングを探します。カーナビは藤井寺一番街商店街を突っ切るようにナビしますが、こんなに人の多いところを突っ切れるわけがないです!
結局ぐるっと大回りして、葛井寺の西側にある辛國神社の前を通り、南大門側に出て、民営のコインパーキングに停めました。それにしても、古い町なので道が細いですね。山道の細い道とはまた違った緊張感があります。
※仲哀天皇陵の案内石碑 これより少し南にある
仲哀天皇陵の案内石碑を東に1分、北に1分行くとそれぞれ南大門、西門に着きます。今回は南大門側に車を停めましたので、ここから北に1分、西門を目指します。
※葛井寺西門 花の市が開かれていた
思っていた以上に人が多く、地元の方に愛されているお寺だということが分かります。南大門が修復中で通れないため、皆さんこちらを通っていかれます。
昔は町全体がお寺の敷地だったのでしょうが、今の境内は少し小ぢんまりしています。それでも、見所はたっぷりあります。
※手水舎 奥が弘法大師手掘り井戸
龍がかっこいい、手水舎です。柄杓はコロナウィルス感染拡大防止の観点から、撤去されています。
※紫雲石燈篭の写し? 南側から本堂を望む
境内の真ん中あたりから北側を見るとこんな感じです。ここにある石灯篭は写しということのようです。
※境内側から見た南大門
境内の真ん中あたりから南側を見るとこんな感じです。南大門は見事に覆われてしまっています。
※烏樞沙摩閣(お手洗い)
烏樞沙摩うすさまとは烏樞(枢)沙摩明王のことで、また烏瑟沙摩明王とも書きます。不浄を清浄に変えてくれる仏さまということで、お寺ではお手洗いにお祀りすることもあるとか。それゆえ、葛井寺ではお手洗いのことを烏樞沙摩閣と呼んでいらっしゃるわけですね。仏さまがいらっしゃるお手洗い、キレイに使わないと罰が当たりますよ。
※鐘楼
これも袴腰と言っていいんでしょうか。西国三十三所では割とこのタイプの鐘楼が多いような気がします(まだ五つ目ですが)。四国ではあまり見かけた記憶がなかったので(ボーッとしてただけかも)、面白いですね。
その後、小さな東門から出て、お寺の周りを散策してみました。
ぐるっと一回りして北側から商店街に入ります。すると、藤井寺まちかど情報館「ゆめぷらざ」がありました。残念ながらこの日は休館日のようでしたが、その前にはこんな可愛らしい像が!
※井真成像
藤井寺は、遣唐留学生として中国の唐で客死した、井真成いのまなりの所縁の地と考えられているのですね*6! 日本人の姓には「井」もあるにはあるようですが、「井上」や「葛井」といった二字姓を、中国風に一字姓に変えたのだと考えられます。2004年に西安で井真成の墓誌名が発見されたときは、非常にロマンをかきたてられた記憶がありましたが、この葛井寺周辺の人だったとは。なお、墓誌名が書かれたのは唐の玄宗皇帝の開元22(734)年とのことですが、真成の出身地を「日本」と記しており、これが「日本」という国号が使用されていた証拠として現存するなかでは、最も古いそうです。19歳で留学し36歳の若さで亡くなったとのことですので、これから日本のために尽くそうとしていたでしょうし、さぞや無念の死だったことでしょう。これからさらに研究が進み、井真成のことがもっと明らかになるといいですね。
こうやってお参りしてみますと、この葛井寺周辺は古代日本人の足跡が結構残っているところだということが分かります。ぜひ皆さんもお参りしていただき、古代人の息吹を感じとっていただきたいと思います。
それでは皆さんも! Let's start the Pilgrimage West!
南坊の巡礼記「叡福寺」(2021.3.3) ◁ 南坊の巡礼記「葛井寺」(2021.3.3)
南坊の巡礼記「葛井寺」(2021.3.3) ▷ 南坊の巡礼記「南法華寺(壷阪寺)」(2021.3.14)
最終更新:2021.5.27