西国お遍路“行雲流水”

西国三十三所や四国八十八ヶ所を雲のごとく水のごとく巡礼した記録

南朝の隠れ里 梅香る賀名生に行ってきました!

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北畠親房公墳墓

2021年3月14日、奈良県五條市賀名生あのうに行ってまいりました!

賀名生とは、南北朝時代後醍醐天皇後村上天皇行宮あんぐう(臨時の御所)をおかれたところです。大阪からは車で約1時間半、そんなに遠くはありません。しかし、京都、奈良を追われた後醍醐天皇にとっては、この侘しい山里はとても心細いものだったのではないでしょうか。

賀名生とは

それでは、賀名生の見所を紹介していきましょう!

南朝の隠れ里

南北朝時代の歴史は複雑にして怪奇なものですので、ここでは詳しく述べません。端的に述べると、天皇中心の世を作ろうとした後醍醐天皇と、武士中心の世を作ろうとした足利尊氏の対立です。1333年に鎌倉幕府が滅びた後、後醍醐天皇は念願の天皇中心の世を始められました。いわゆる「建武の新政」です。しかし、恩賞を十分にもらえなかったことで不満を持った武士たちは、源氏の棟梁と目されていた足利尊氏のもとに結集します。こうして1336年、足利尊氏後醍醐天皇の対決が始まります。後醍醐天皇尊氏に敗れ、花山院(西国三十三所を再興した花山法皇の最後の邸宅)に幽閉されましたが、そこを脱出し、奈良を経て吉野に向かわれる途中、この賀名生に滞在されました。

賀名生のお名前!

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※賀名生の里 歴史民俗資料館
1336年、吉野に逃れた後醍醐天皇南朝に対して京都に北朝が立てられるに及び、本格的な南北朝時代が始まりました。楠木正成新田義貞といった有力武将を失っていた南朝は次の後村上天皇の時代に吉野を追われ、1348年に賀名生行宮をおかれました。その際、当時「穴生あなふと呼ばれていたこの地を、「統一という願いを叶えたい」ということから「叶名生かなふと改められました。その後何と、弟の足利直義との対立に苦しんだ尊氏が1351年に賀名生南朝に帰順し、北朝が廃されました。この地は一躍、日本の首都となったのです。これがいわゆる「正平の一統」で、「統一という願いが叶って目出度い」ということから、後村上天皇がさらに「賀名生かなふと改められたということです。なお、明治時代になって「賀名生」という表記は残しつつ、読み方を元の「あのう」に戻したということです。なお、地名の由来については異説もありますので、ご留意ください。

詳しいことが知りたい方は、「賀名生の里 歴史民俗資料館」を訪ねてみてください。「賀名生行宮物語り」という映像シアターは非常に力がこもった力作で、一見の価値あり!です。

 

「賀名生の里 歴史民俗資料館」データ

所在地 :〒637-0117 奈良県五條市西吉野町賀名生5番地

電話番号:Tel 0747-32-9010

開館時間:9:00~17:00(最終入館は16:30まで)

休館日 :月曜日、祝日の翌日、年末年始(12/29~1/3)

入館料 :大人 300円 高校生 150円 小・中学生 100円(団体割引は2割引)

臨時の皇居

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※賀名生皇居跡

賀名生には、後醍醐天皇後村上天皇長慶天皇後亀山天皇が滞在されました。彼らが行宮としたのが、堀孫太郎信増の邸宅とされています。

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※KANAU 賀名生旧皇居

2019年よりホテル・レストラン「KANAU 賀名生旧皇居」として利用することができるようになりました。700年前とは異なり快適なバス・トイレがありWifiまで完備されていますが、静かな山間の環境で後醍醐天皇の心情に思いを馳せるのも趣きがあるのではないでしょうか。

北畠親房公墳墓

南朝の有力政治家として活躍した北畠親房は、「亜相あしょう」とも呼ばれ、後醍醐天皇亡き後の南朝をほぼ一人で背負っていたような人物です。宋学の影響を受けて、南朝を正統とする『神皇正統記』を著しました。中国の宋の時代、異民族に漢民族の中華帝国が圧迫されていたことから、ことさらに正統論や大義名分論が唱えられましたが、その日本版です。1991年に放送されたNHKの大河ドラマ『太平記』では、近藤正臣さんが演じられました。近藤正臣さんは大河ドラマの常連ですが、当時50歳くらいで、渋かったですねえ。親房は、明治時代になってからではありますが、文字通り人臣最高位の正一位を追贈されています。

そんな彼のお墓が、この皇居跡の裏手の小高い丘の上にあります。表紙の写真がその墳墓です。この丘の中腹には、2004(平成16)年まで五條高校賀名生分校があったようです。荒れたグラウンドとこの碑だけが往時をしのばせます。

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※五條高等学校賀名生分校趾

賀名生の梅林

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※賀名生梅林全景

現在の賀名生は、梅林が主要な観光資源になっています。南朝の時代にも公家たちが梅の花を和歌に詠んでいたそうですが、本格的に梅の栽培が始まったのは明治時代になってからのことです。さらに今からほぼ100年前の1923(大正12)年、東宮(皇太子、後の昭和天皇)殿下のご成婚を記念して、5000本の苗を植えたことから、北曽木の丘陵地帯を麓から中腹までおおいつくす雲海のような梅の里になりました。

麓の「口の千本」「一目千本」に始まり、「見返り千本」「東雲千本」「奥の千本」「西の千本」と、たっぷり歩いて2時間程度かかります。

賀名生梅林案内図は下記のPDFをダウンロードしてください。

賀名生梅林案内図

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※「口の千本」

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※「奥の千本」付近

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※「西の千本」付近

賀名生へのアクセス

奈良県五條市のWebサイトにアクセスマップがあります。

賀名生梅林周辺図は下記のPDFをダウンロードしてください。

賀名生梅周辺図

公共交通機関

JR「五条駅」から奈良交通バス「新宮」行、「十津川温泉」行又は「城戸」行に乗車、「賀名生和田北口」下車すぐ(「五条駅」から約20分)。

お車

京奈和道「五條IC」から国道168号線を十津川方面へ南下。約12分。

「賀名生の里 歴史民俗資料館」に駐車場10数台あり。無料ですが、入館以外の長時間の駐車は遠慮しましょう。

多目的広場に駐車場あり。

臨時駐車場(和田・北曽木グラウンド管理組合)100台程度あり。300円。組合のおばさま方が、非常に愛想よく対応してくれますので、とても気持ちいい駐車場です。広くて停めやすいですし、ここを推奨します。

最後に

今年は3月に入ってから暖かい日がつづいています。12日、13日の雨風で大分梅林の梅の花も散ってしまったようでした。桜のように、文字通り「咲き誇る」花も美しいものですが、梅のような少し控えめで可愛らしく咲く花もまた、趣きがありますね。梅林というと和歌山県のみなべ町が有名ですが、ぜひ賀名生の地で梅を愛でながら歴史のロマンを感じてみてください!

 

最終更新:2021.5.27