西国お遍路“行雲流水”

西国三十三所や四国八十八ヶ所を雲のごとく水のごとく巡礼した記録

西国三十三所 観音巡礼はいつから始まったの?

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月岡芳年「花山寺の月」(出典:Wikipedia

2018年、西国三十三所は1300年の記念の年を迎えました。1300年というと非常に気が遠くなる昔ですが、西国三十三所の観音巡礼はどのようにして始まったのでしょうか?

ここでは、観音巡礼の起源、歴史について説明いたしましょう!

観音巡礼の始まり

西国三十三所の観音巡礼は、何時代から始まったのでしょうか。

答えは、奈良時代です。仏教が、日本人にとって新しい外来の宗教として浸透していき、国家運営にも大きな影響を及ぼすようになり始めた、およそ1300年前の奈良時代からつづいているのです!

観音巡礼の起源

西国三十三所札所会のホームページでは、次のように観音巡礼の由来が説かれています。

養老2年(718)、大和長谷寺の開山徳道上人は、病にかかって仮死状態になった際、冥土で閻魔大王と出会います。閻魔大王は、世の中の悩み苦しむ人々を救うために、三十三の観音霊場を開き、観音菩薩の慈悲の心に触れる巡礼を勧めなさいと、起請文と三十三の宝印を授けました。現世に戻った徳道上人は、閻魔大王より選ばれた三十三の観音霊場の礎を築かれましたが、当時の人々には受け入れられず、三十三の宝印を中山寺の石櫃に納められました。

それから約270年後、途絶えていた観音巡礼が、花山法皇によって再興されます。花山法皇は、先帝円融天皇より帝位を譲られ、第65代花山天皇となられますが、わずか2年で皇位を退き、19歳の若さで法皇となられました。比叡山で修行をした後、書寫山性空上人河内石川寺仏眼上人中山寺弁光上人を伴い那智山で修行。観音霊場を巡拝され、西国三十三所観音巡礼を再興されました。

これは、札所会が現在公式に認めている統一見解であると思われます。しかし、この由来に関しては、様々な伝承が入り混じっており、これぞオリジナル!という説話を特定することができない状態です。私が現在確認できている体系的な説話は『中山寺由来記』(成立年代不詳)です。これについては長くなりますので、また後程くわしく説明させていただきます。

観音巡礼の記録

三井寺の僧侶の伝記集である『寺門高僧記』*1(1220~1230年ごろ成立*2)には、2人の僧侶の巡礼の記録が残っています。

一人目は行尊(1055~1135)、もう一人は覚忠(1118~1177)です。

行尊の記録

行尊は、小倉百人一首に「もろともに あはれと思へ 山桜 花よりほかに 知る人もなし 」という歌を残しています。当時の勅撰和歌集にも数多くの歌を収められていることからも、歌の名手でもあったことがうかがえます。また、第44世天台座主(比叡山延暦寺の貫主であり、日本の仏教界におけるローマ教皇のような存在)も務めました。この行尊伝には、本文・注釈をあわせて次のような書き出しで始まる巡礼記が残されています。

觀音靈所かんのんれいしょ三十三所巡禮記じゅんれいき。日數にっすう百廿日ひゃくにじゅうにち

その後、「一番」と書かれており、簡単な創建説話につづいて「長谷寺」と書かれています。以下、番号と寺院名を並べていきます。ただし、寺院名に関しては、注釈に書かれていることを踏まえないと分からない場合があるので、その場合は注釈も付記します。なお、それぞれの最後に赤字で現在の札所番号も併記しておきます。

一番 長谷寺 八番

二番 龍蓋寺(字は岡寺) 七番

三番 南法華寺(字は壺坂) 六番

四番 粉河寺 三番

五番 金剛寶寺(字は紀三井寺) 二番

六番 如意輪堂(紀伊那智山) 一番

七番 槇尾寺(字は施福寺) 四番

八番 剛林寺(字は藤井寺) 五番

九番 總持寺 二十二番

十番 勝尾寺 二十三番

十一番 仲山寺 二十四番 

十二番 清水寺(播磨加東郡) 二十五番

十三番 法華寺 二十六番

十四番 如意輪堂(字は書寫山) 二十七番

十五番 成相寺 二十八番

十六番 松尾寺 二十九番

十七番 竹生嶋 三十番

十八番 谷汲寺 三十三番

十九番 觀音正寺 三十二番

二十番 長命寺 三十一番

二十一番 如意輪(園城寺) 十四番

二十二番 石山寺 十三番

二十三番 正法寺 十二番

二十四番 准胝堂(醍醐に在り) 十一番

二十五番 觀音寺(新熊野奥) 十五番

二十六番 六波羅 十七番

二十七番 清水寺(都内) 十六番

二十八番 六角堂 十八番

二十九番 行願寺(字は革堂) 十九番

三十番 善峰寺 二十番

三十一番 菩提寺(穴宇寺) 二十一番

三十二番 南圓堂(興福寺南立口) 九番

三十三番 千手堂(御室戸山) 十番

行尊がいつ三十三所を回ったか分かりませんが、長谷寺から回り始めていることから、そもそもの西国三十三所の由来である徳道上人の説話の影響が考えられます。

ただ、六番に現在の青岸渡寺を回ってから七番に施福寺へ巡礼するというのは、なかなか大変なルートのように思います。おそらく熊野本宮からいわゆる「小辺路」を経て、高野山経由で施福寺に至ったのでしょう。

覚忠の記録

もう一人の覚忠ですが、鳥羽天皇崇徳天皇近衛天皇後白河天皇の4代にわたって摂政・関白を務めた藤原忠通(1097~1164?)の息子であり、行尊のあと6世の第50世天台座主を務めた人物です。覚忠の巡礼年代ははっきりと分かりませんが、記録された年代は『寺門高僧記』に記載されています。「應保元年」とありますので、西暦では1161年のことになります。ただし、正確には「應保元年正月」と書かれており、「永暦」から「(応)」に改元されたのは9月4日のことでしたので、「正月」というのがどの月を指すのかちょっとよく分かりません。なお、この改元は天然痘の流行が原因でしたので、覚忠はおそらく天然痘という疫病退散を願って巡礼を行ったのかもしれません。現在のコロナ禍と重なるところがありますね。書き出しは「應保元年正月三十三所巡禮則記之」で、以下、三十三所の名前が連ねられています。赤字は現在の札所番号です。

一番 紀伊国那智山 一番

二番 金剛寶寺(字は紀三井寺) 二番

三番 粉河寺 三番

四番 南法華寺(字は壺坂寺) 六番

五番 龍蓋寺(字は岡寺) 七番

六番 長谷寺 八番

七番 南圓堂 九番

八番 施福寺(字は槇尾寺) 四番

九番 剛林寺(字は藤井寺) 五番

十番 摠持寺 二十二番

十一番 勝尾寺 二十三番

十二番 仲山寺 二十四番

十三番 播磨國賀古郡〔清水寺〕 二十五番

十四番 法華寺 二十六番

十五番 書寫山 二十七番

十六番 成相寺 二十八番

十七番 松尾寺 二十九番

十八番 竹生嶋 三十番

十九番 谷汲 三十三番

廿番 觀音正寺 三十二番

廿一番 長命寺 三十一番

廿二番 三井寺南院如意輪堂 十四番

廿三番 石山寺 十三番

廿四番 岩間寺 十二番

廿五番 上醍醐寺准胝觀音 十一番

廿六番 東山観音寺 十五番 

廿七番 六波羅蜜寺 十七番

廿八番 清水寺 十六番

廿九番 六角堂 十八番

卅番 行願寺(字は皮堂一條) 十九番

卅一番 善峰寺 二十番

卅二番 菩提寺(字は穴憂寺) 二十一番

卅三番 御室戸寺 十番

そして、最後に「三十三所巡禮 日數七十五日」と書かれています。紀伊半島を往復していた行尊に比べて、かなり所要日数は減っています。もっとも、参拝中にどれだけの行を行うか二人とも異なっていたでしょうし、一概には比べられませんが……。

興味深いのは、二人とも最後に三室戸寺『寺門高僧記』内では「御室戸寺」)を最後に回っている点です。寡聞にして、この由来はまったく分かりませんが、また何か分かったらお伝えします。

熊野信仰と観音巡礼の関わり

三十三所観音巡礼の由来から考えれば、やはり長谷寺が第一番札所とされてもおかしくないように思います。実際、長谷寺のホームページには「三十三所の根本霊場と呼ばれてきました」と記載されています*3

それが、どの段階から那智山が第一番札所となったのでしょうか。実は、『中山寺由来記』に、その答えの一端があります。

此時このとき改めて補陀落山ふだらくさんを第一札所と爲せり 

長谷寺徳道上人が養老2(718)年にひらいた三十三所でしたが、残念ながら二百余年を経て衰退してしまいました。その後長谷寺でのお告げを受けた花山法皇が河内国石川寺叡福寺と考えられます*4)の佛眼上人(実は熊野権現の化身)のもとで受戒得度し、佛眼上人を導師に、書寫山圓教寺性空上人中山寺辨光上人をお供として永延2(988)年、三十三所の巡礼に出発されました。この時、那智山を第一番札所と定めたと考えられます。『中山寺由来記』では「補陀落山」となっていますが、これは那智山を構成する補陀洛山寺のことを指すのではないかと思われます。といいますのも、現在の我々は補陀洛山寺青岸渡寺を別のお寺と考えていますが、当時は那智山全山で一つの信仰対象でした。そこには、神社や仏寺といった区別もありません。

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 ※写真は那智参詣曼荼羅(出典:Wikipedia

写真の右上はいわゆる那智の滝、その隣が如意輪堂(現在の青岸渡寺のもと)だと考えられます。さらに左側に那智大社があります。下段の右側に三社権現があり、その左側が現在の補陀洛山寺でしょう。鳥居の下には海が広がっていますが、観音さまのいらっしゃる浄土「補陀落(ポータラカ)」を目指す「補陀洛渡海」の伝説がここには描かれています。よりくわしくお知りになりたい方は、和歌山県広報誌『和(nagomi)』vol.12*5をご覧ください。このような補陀落伝説が存在することも、那智山が第一番札所と定められるにふさわしい場所であったことを示していると思われます。

また、多くの碩学がご指摘されている通り、熊野詣が盛んになったこと自体が、那智山を第一番札所に押し上げたということもできるでしょう。さらに、伊勢参りの影響も考えられます。

昭和期におもに活躍した随筆家の白洲正子さんは、その著書『西国巡礼』*6のなかで次のように述べておられます。

三十三ヵ所の順序も、最初からきまっていたわけではなく、江戸の人々によって、便宜のためにつくられたという。第一番は紀州の那智山だが、伊勢参りのついでに足をのばせる距離にある。が、私が見た印象では、那智の滝をおいて、第一番の霊場はない。周知のとおり、那智熊野三山の一つだが、熊野信仰は日本でもっとも古いばかりでなく、全国にある神社の数は三千を越えると聞く。そういう伝統のもとで訓練された上、あのすばらしい滝に接すれば、おのずと頭も下がるというものであろう。

また、「西国」という呼称も「東国」に対する「西国」ですので、関東に武家政権が成立した鎌倉時代以降の呼称と考えられます。我々関西人からすると「西国?ん?」という感じがしますし、もともと日本の中心であった地域における歴史ある仏寺が札所になっているわけですから、「本朝三十三所」やただの「三十三所」が適切なように思います。

『中山寺由来記』による観音巡礼説話

では、たびたび言及してきた『中山寺由来記』の記述をもとに、西国三十三所の観音巡礼がどのように始まったのかをひもといてみましょう!

原本?もしくは古文書は私も見たことがありませんが、『中山寺由来記』は明治45年7月に紫雲山中山寺から書籍として出版されており、書籍の写真を国立国会図書館デジタルコレクション*7で見ることができます。

その記述をもとに、なるべく簡潔に説明したいと思いますが、長くなると思いますので、飛ばしてもらってもかまいません。

 

本朝三十三所巡礼の由来とは。

昔、養老2(718)年に大和国長谷寺徳道上人が突然亡くなりました。上人が冥土に至り閻魔大王に拝謁したところ、閻魔大王が「衆生で地獄に落ちるものが多い。その苦しみは言語に絶するものである。貴殿は日本に観音霊場三十三所があるのを知っているか。一度訪れれば、どんなに悪逆を尽くした者でも地獄に落ちることはなく、まして信仰心の篤い者が巡礼すれば極楽浄土へ往生することができる。もしこれに漏れる者がいれば、朕ら十王が身代わりとなって地獄に落ちよう。貴殿に宝印を授けるので人間界に帰り衆生に勧めて巡礼をさせたまえ」とおっしゃいました。

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※紀三井寺 閻魔大王像

徳道上人はすぐに甦り、宝印も手にありました。そして摂津国中山寺は観音さまが最初に祀られたお寺であるということで、閻魔大王の勅書にしたがい中山寺を第一番の札所に定めました。以後、人々に巡礼を勧めたところ、信じて追従する者が大変な数になり、宝印は石の函に入れて中山寺に納めたということです。ところが、時の流れには逆らえず、200年あまりが経ち衰退してしまいました。

時に花山法皇長谷寺に参拝されて師をお求めになった際、お告げを授かりました。そのお告げとは「河内国叡福寺佛眼はすぐれた僧である。彼のところで戒を授かり得度しなさい」というものでした。そこで行ってみたところ、確かに常人ならざる容貌の佛眼上人にお会いすることができました。しかも佛眼上人熊野権現の化身でした。そこで花山法皇は受戒得度し入覚と号しました。法皇がお礼に金銀を授けようとしたところ、上人はそれを断り、「私の望みは衆生を救うことであって金銀ではありません。昔、閻魔大王のお告げで徳道上人が始められた観音巡礼がありましたが、途絶えてから時が経っております。思いますに法皇がそれを再興なさり、衆生をお救いください」と述べました。

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※写真は叡福寺 奥は聖徳太子御廟

また、書寫山圓教寺性空上人が夢のなかで閻魔大王のお告げを受け、巡礼するべきであることを奏上しました。そこで花山法皇は二人の言葉に感化されて宝印をご拝覧するということになり、中山寺に使者を送られました。辨光僧正、良重、祐快らが宝印を上進しました。法皇は感銘を受けられ、「これこそ衆生成仏の結縁が大きい」ということで、本願として巡礼を再興するために、佛眼上人を導師となされ、性空上人辨光僧正らをお供として改めて補陀落山(那智山)に赴き、この地を札所第一番と定められました。養老時代以降廃れてしまった霊場は改編して三十三所とし、十一州にわたる現在の巡礼となりました。

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※写真は補陀洛山寺

その後、後白河法皇熊野権現のご神託により自ら巡礼を行われ、これ以来、三十三所の巡礼は盛んに行われるようになりました。

 

以上が『中山寺由来記』による説話です。少し中山寺を持ち上げすぎているところがありますので、少し割愛させていただいております。

最後に

いかがでしたか。西国三十三所の、1300年に及ぶ歴史の一端が垣間見えたのではないでしょうか。こうなったら、自分が歴史の目撃者になるしかないですね。

というわけで皆さん! Let's start the Pilgrimage West!

 

最終更新:2021.5.27

*1:所収 塙保己一編『続群書類従 第28輯上 釈家部』八木書店(2013)

*2:弘前大学人文社会科学部准教授 武井紀子「観音信仰と三十三霊場巡りの歴史」弘前市立博物館歴史講座(2019)

*3:長谷寺ホームページ「略縁起」

*4:叡福寺ホームページ「叡福寺由緒」

*5:和歌山県広報誌『和(nagomi)』vol.12「特集 海の国から」

*6:白洲正子『西国巡礼』講談社(1999)

*7:国立国会図書館デジタルコレクション『中山寺由来記』