新年2発目の記事は、前年と同様、初詣の記事です。和歌山から転居して以来、恒例となりました総持寺への初詣に行ってまいりましたので、その様子をレポートしたいと思います。ちなみに、通った道は前年とまったく同様ですので、新しい情報はほとんどないということにご留意ください。
西国三十三所×街道を行くぞ!コラボ企画 2024年 初詣 総持寺
4回目となりました総持寺への初詣です。自宅が西国街道の縁辺にあることから、前年に引き続き「街道を行くぞ!」シリーズと初詣のコラボ記事となっております。
というわけで、一部西国街道を通って、自宅から総持寺を目指します。
西国街道に関しては、大阪府のホームページ「歴史街道ウォーキングマップ」から、各歴史街道のマップがダウンロードできます。
www.pref.osaka.lg.jp(2024.1.4閲覧)
上記サイトからマップをダウンロードしていただき、参考にしていただければ、街道歩きがスムーズに運ぶことでしょう。
また、NPO法人西国古道ウォーキングサポートのホームページには、各霊場間の巡礼路が掲載されています。
www.saigokuws.org(2024.1.4)
総持寺は西国街道から少し離れた南の方にありますが、途中の巡礼路は西国街道と一致しています。巡礼路としては、太田橋から新豊川橋までが正しいルートとされており、その区間は西国街道と完全に一致してるのです。私は逆に新豊川橋から太田橋を経て、雲見坂を上がったところまで西国街道を歩きました。
西国街道 新豊川橋から太田東芝児童遊園まで
新豊川橋を11時41分に出発し、太田東芝児童遊園には12時20分に到着しました。Googleマップより4分ほど速いペースです。何だかんだしていて昨年よりも1時間半ほど出発が遅かったため、ちょっと急いでいました。
この日は14時くらいから雨が降るという予報でしたので、何とか降ってくる前に家に帰りたいと思っていました。ただ、途中で降ってきても大丈夫なように、折りたたみ傘はさんや袋に入れておきました。
去年歩いていたことから、もうルートは頭に入っています。7インチタブレットで、地図を見るときに使っていたNECのLAVIE T0755/CASは今回はお留守番となりました。
セブンイレブン茨木豊原店で飲み物を購入し、早速新豊川橋を渡ります。この時点で、11時41分になっていましたので、めちゃくちゃスタートは出遅れています。
※スタート地点の新豊川橋
新豊川橋を渡り、西国街道に入ります。すぐに、案内板がありました。
※西国街道の案内板
街道を東へ東へと歩いていきます。昨年も思いましたが、この辺は街道らしい旧家が目立ちます。
案内板から700メートルほど歩くと、府道110号余野茨木線との交差点です。ここには、道標、案内板、説明板がたくさん集まっています。11時49分でした。
※中河原の道標や説明板など
ここは、Googleマップ上では中川清秀由緒地説明案内板と書かれています。
信号を渡り、さらに東進します。400メートルほど進むと、幣久良橋てくらばしです。
※幣久良橋から下流を望む
この橋は車道の方に歩道もついていますが、人間専用の橋もあり、私はそちらを歩きました。車道の橋はこんな感じです。ここで、11時54分でした。
※幣久良橋の車道側
橋を渡り、東へと進みつづけます。500メートルほどで、安養寺です。ちょうど12時でした。
※安養寺
さらに2分後、法華寺前を通過しました。
※法華寺
1分後、阿為神社です。
※阿為神社
いずれも西国街道の北側にあります。阿為神社を過ぎると、すぐに「耳原交番北」交差点に出ます。ジャパン 茨木耳原店や業務スーパーTAKENOKO 耳原店などがあり、にぎわっています。少し信号を待ってから、府道46号茨木亀岡線を渡りました。
渡ってすぐに撮った写真ですが、かなり街道感のある風景になっています。12時5分でした。
※「耳原交番北」交差点を東に入った西国街道の様子
奥のゴミ捨て場の脇に古い道標があります。ただ、茨木停車場などと書かれているので、おそらく明治時代以降の道標だと思われます。今回は写真に撮るのを省略しました。
名神高速道路の高架をくぐると、すぐにまた信号です。西国街道は、その交差点を斜め左に渡って進んでいきます。信号待ちの間に、振り返って高架の写真をとりました。12時7分です。
※名神高速道路の高架
これ、写真を見て今きづいたのですが、手前のポールに西国三十三所の巡礼道の案内シールが貼られてますよね。貴重! 四国のように歩く方が少ないので、めったにお目にかかれないような気がします。
※奥の左に曲がっていくのが西国街道
信号を渡り、西国街道をさらに進みました。今度は太田橋です。ここも、人間専用の橋があります。12時9分でした。
※太田橋から下流を望む
太田橋を渡ると、また街道らしい雰囲気となります。北側に、太田不動尊が現れます。12時11分でした。
※太田不動尊
3分ほど歩くと、奥に雲見坂が出てきました。
※奥に雲見坂が見える
そこから2分ほど歩いて、雲見坂に差し掛かりました。
※雲見坂登り口
西国街道の道標の裏側には、疣水神社いぼみずじんじゃへの案内などが書かれていました。なお、西国三十三所の巡礼路としては、ここから南下して総持寺を目指すのが正しいルートのようです。
※道標の裏側
説明板の写真も撮りました。この説明板は前回見逃してしまっており、初見でした。
※太田神社・雲見坂説明板
雲見坂の名前の由来は、太田城を築いた太田太郎頼基が、空の雲の動きを見て天気や戦のやり方を判断したことにあるそうです。太田頼基なる人物ですが、『平家物語』巻十二*1に登場するようです。
ここに摂津の国源氏太田の太郎頼基、この由を聞いて、「鎌倉殿と仲違うて下り給ふ人を、さうなうわが門の前を通しなば、鎌倉殿の返り聞召されんずる所もあり、矢一つ射かけ奉らん」とて、手勢六十余騎、河原津といふ所に追つつきて攻め戦ふ。判官「その儀ならば、一人も漏らさず討てや」とて、五百余騎取って返し、太田の太郎六十余騎を中に取りこめて、「われ討ち取らん」とぞ進みける。太田の太郎頼基、家の子郎党多く討たせ、わが身手負ひ、馬の太腹射させ、力及ばで引退く。残り止まって防ぎ矢射ける兵共二十余人が首切りかけさせ、軍神に祭り、喜びの鬨をつくり、「門出よし」とぞ悦ばれける。
これによると、摂津の国の源氏であった太田おおだ太郎頼基よりもとが、鎌倉殿(※源頼朝)との対立を避けて都落ちしていく源九郎判官義経を討とうとして、逆に返り討ちにあったことが分かります。しかし、兵数では圧倒的に不利だということが予め分かっていながら、「鎌倉殿と決別して都から下っていきなさる義経殿を、ためらいもなくわが城門の前を通してしまえば、鎌倉殿が漏れ聞いてしまわれることもあるだろうから、矢の一つくらいはかけないわけにはいかないだろう」ということで戦いを挑むというのは、武士らしく天晴れとも言えるでしょう。
さらに興味深いのは、何とあの紫式部もここを通っており、坂の上の方の石に腰かけて勝尾寺山を眺めたということです。今年の大河ドラマは「光る君へ」ということで、主人公は紫式部です。西国三十三所には、第十三番札所の石山寺や第八番札所の長谷寺など、紫式部に所縁のあるお寺が多いですから、今年の西国三十三所巡礼は盛り上がりそうですね。
さて、街道旅に戻りましょう。
坂の途中、太田神社の参道入口のところにも道標がありました。小さい道標の方は、かなり古そうです。
※雲見坂途中の道標
古い道標を東から見ると、「右 とん田 三しま江」と書かれています。一番下の文字はちょっと分からないですが、おそらく「道」という字だと思われます。
※古い道標の東面
道標の北面にも字が書いてありました。
※古い道標の北面
「左 京 ふしみ 道」と書いてあります。
ここからさらに雲見坂を登ると、太田東芝児童遊園のところに出ます。ここで雲見坂は終わりです。12時20分になっていました。
※太田東芝児童遊園のある辻
道標は西国街道に立っています。右の太田廃寺の方角が南になっています。私はそちらに進みました。なお、児童遊園では何人かの母子が遊んでおられましたので、写真は撮れませんでした。
太田東芝児童遊園から第二十二番札所 総持寺まで
太田東芝児童遊園を12時20分に出発して、総持寺には12時55分に到着しました。ここもGoogleマップよりも2分早いペースで到着しています。しかも、トイレに行っていたことを考えると、かなり速いペースのように思います。
西国街道から右に曲がり、南へと向かいます。2分ほどで、太田廃寺のところに着きました。
※太田廃寺説明板
※太田廃寺説明板アップ(2024.1.3)
昨年よりも暖かいからなのか、剪定がされていないだけなのか、木が生い茂っていて見にくいですね。
※太田廃寺説明板(2023.1.2)
やはり古代のお寺は、街道沿いに大きなものが建てられたようですね。
ここからは、400メートルほど南下した後、西に180メートルほど戻ります。前回は、この辺で通ってはいけない道を通りそうになったため、少し時間をロスしました。今回は、その反省に立って最初から分かりきった道を進んでいます。
さらに60メートルほど北に戻って、イオンタウン茨木太田へと向かいました。トイレを借りるためでした。
イオンタウン茨木太田からは、350メートルほど南下します。国道171号線にぶち当たりました。前回も歩道橋を渡ったのですが、今回も渡ることになってしまいました。歩道橋はあまり好きではないのです。ただ、ここで大発見をしてしまいました。何と、ここにも西国三十三所巡礼道の案内シールが貼ってあったのです!
※国道171号線にかかる歩道橋
欄干の右下に赤い矢印のシールが貼ってあることにお気づきでしょうか。これですね。
そしてこの歩道橋を渡ると、すぐに左側に疣水神社が出てきます。
※疣水神社
ここで、疣水神社に関して昨年も書いていたことをもう一度書いておきたいと思います。
白洲正子さんの『西国巡礼』*2では、この疣水神社はかつて寺の境内に祀ってあったように見える、とされています。西国三十三所の霊場であることを思えば、総持寺はそれくらいの規模はあっても当然のように思います。しかし、白洲さんもおっしゃっているとおり、「こう切りこまざかれたのでは、元の姿に返してみる由もない」ですね。まったく、元の姿が想像もつきません。
この疣水神社の前で12時41分でした。そこからさらに800メートルほど南下します。府道126号総持寺停車場線はゆるやかにカーブしており、最後は南東方面に向かう形です。総持寺を左に示す案内標識が出てきたら、左に曲がりましょう。トップの写真のような、ヌケ感が得られます。
12時55分には、山門前に到着していました。
南坊の巡礼記「総持寺 初詣」(2024.1.3)
身支度を整えて、山門をくぐります。
※総持寺山門
境内は思ったほど人がいませんでした。あまり遠くの方からはお参りに来られないのでしょうかね。あるいは、時間的に遅かったのかもしれません。
いつもどおり、さんや袋からローソクとお線香を取り出し、火を点けて立てました。その様子を子どもにじっと見られてしまいました。
その後、本堂へとお参りしました。今年は久々に『西国勤行次第』を持ってきたので、それに従って開経偈からお唱えしました。ちょうどたまたま、西国三十三所の先達さんがお一人いらっしゃいました。これは輪袈裟で分かるのです。橙色で、「西国三十三所」と書かれている輪袈裟は、先達と認定されると西国三十三所札所会から贈呈されるものなのです。
さらに大師堂でも参拝を済ませ、最後は高野山奥之院遙拝所にて礼拝を行いました。他にもお堂はたくさんありますが、雨が降り出す前に帰りたいので、あまり余裕はありません。いつもどおり、授与所にて牛王札をいただきました。これは目の前でお坊さまが直接自分に対して加持してくださるので、とてもありがたいものです。
さらに、納経所にも行くことにしました。一応、先達用の納経軸を持ってきていますので、せっかくですしもらっておくに越したことはないでしょう。その際、お坊さまに納経代をうかがいました。
実は、2024年から西国三十三所の納経代が300円から500円に値上がりすることになっていたのです。それが、1月からだったか4月からだったか分からなかったので、質問させていただいたのでした。結論として、4月からの値上がりでした。ただ、お坊さまはこの納経軸のように、すでに書いてあるところにご朱印を押す場合は4月以降も300円で済む、と教えてくださいました。
昨今はご朱印ブームになっていて、ご朱印をもらうために大勢の方が行列されることも多いと聞きます。値上がりすることで、にわかの人が減ることをねらっているのかもしれません。
しかし、前にも書きましたが、お寺を維持していくのはお金がかかって大変なのです。納経代が500円になったとて、それほどたいしたことではありません。
最後は、毎年恒例の亀おみくじです。
今年は……
中吉でした! 2年連続大吉だったので、運気は下降線ということなのでしょうか。
納経所の出入り口付近に、総持寺瓦窯跡があります。なぜかこの日は比較的よく見えたので、写真を載せておくことにします。
※総持寺瓦窯跡
※上から見た瓦窯跡
出発前に、ぼけ封じ観音堂内にある四国八十八ヶ所のご本尊石仏をお参りしていこうかと思ったのですが、結構参拝者がいらっしゃったので、やめておきました。代わりに、薬師金堂を写真に撮っておきました。
※薬師金堂
誰も参拝者がなく、さびしい感じでした。
さて、これで参拝は終了です。雨が降り出さないうちに、自宅に帰るとしましょう。
帰り道
総持寺を13時20分ごろに出発して、新豊川橋には14時35分ごろに帰ってきました。イオンタウン茨木太田で食事をしていたことを思えば、かなり速いペースだと思います。
総持寺を出てからは、まずはイオンタウン茨木太田を目指しました。昨年もそうだったと思うのですが、2階のフードコートで食事をとるためです。つるまる イオンタウン茨木太田できつねうどんを食べました。プラスして、ちくわの磯部揚げにウズラ卵がついたものと、ゆずと高菜のおにぎりも食べました。790円かかっています。そこそこ高い値段ですね。
イオンタウンを出てからは、まずはすぐ北側にある太田城跡へと向かいました。ここで、14時ちょうどでした。
※太田城跡
昨年は、下の石碑に気づいていなかったように思います。
そこからは安威川沿いに出て、太田橋を目指しました。
※奥に太田橋が見える
一応この川沿いを歩くのが、第二十二番札所総持寺から第二十三番札所勝尾寺への正しい巡礼路となっています。
太田橋までたどり着けば、後はひたすら西国街道を西進します。次に写真を撮っていたのは、幣久良橋のたもとにある白井河原合戦跡の説明板でした。これは、東進していたら気づかない位置にあります。ここで14時20分でした。
※白井河原合戦跡説明板
幣久良橋を渡ります。
※幣久良橋から上流を望む
帰りは、車道の方の幣久良橋を渡りました。
7分後、中河原の道標のところまで戻ってきました。なかなかのペースです。
※中河原の道標群
14時35分、最初の出発地点である、新豊川橋の東側、街道に入ってすぐのところにある西国街道の説明板のところまで帰ってきました。途中、ポツっと水滴が落ちてくることはありましたが、幸いなことに本格的に降ってくることはありませんでした。
ASUS VivoWatch BP(HC-A04)によると歩いた距離はたったの12.5km、歩数は17,998歩、消費カロリーは857kcalだったようです。昨年よりは、すべて上回っているようです。結構速足であるいたからでしょうか。
というわけで、皆さんもぜひ総持寺に初詣にお参りください! Let’s start the Pilgrimage West!!
*1:国立国会図書館デジタルコレクション『日本文学大系:校註 第14巻「平家物語」』2024.1.4閲覧
*2:白洲正子『西国巡礼』講談社(1999)