四国八十八ヶ所の第1番札所は、竺和山じくわざん一乗院いちじょういん霊山寺りょうぜんじです。四国にある八十八ヶ所の霊場のなかには、弘法大師空海の生誕地とされる善通寺などもあります。そんななか、このお寺が第1番札所となったのはどうしてなのでしょうか。
霊山寺の巡礼情報
霊山寺は、四国八十八ヶ所の霊場の第1番札所となっています。おそらく四国外の方は、もしかすると四国内の方でも、いざお遍路を始めようと思ったならば、まずはこのお寺を参拝されるのではないでしょうか。四国遍路を完遂できる方がどれくらいの割合なのか分かりませんが、それゆえ第88番札所大窪寺よりも参拝者は圧倒的に多いと考えられます。まさに四国遍路を象徴する、「顔」とも言えるお寺でしょう。
霊山寺の縁起
霊山寺はオリジナルのホームページを持っておられませんので、他の媒体の持つホームページから情報を集めることになります。そのなかで、霊山寺の成立縁起を最も詳しく伝えてくれているのは、一般社団法人四国八十八ヶ所霊場会のホームページです。
88shikokuhenro.jp(2023.8.27閲覧)
また、徳島県観光協会のホームページ「阿波ナビ」*1や四国遍路 聖地巡礼のホームページ*2を総合して簡単にまとめます。
聖武天皇の勅願により天平年間(729~749)に行基菩薩が開創されました。弘仁6(815)年、弘法大師が人間の持つ88の煩悩をなくすため、四国に88の霊場を開こうとして鳴門に上陸されました。持仏の釈尊誕生仏を前仏とし、21日間の御祈願をされたところ、仏法を説く一老師をたくさんの僧侶が取り囲んで話を聞いている光景を見たことから、この光景がインド(天竺)の霊鷲山でお釈迦さまが説法をされている様子と重なると考え、インドの霊山を和国(日本)に移すという意味で、竺和山霊山寺と名づけられました。またこの時、一丈四尺の釈迦如来像を刻まれ、ご本尊としたうえでこの地を第1番霊場と定められたということです。
まあ霊場の縁起としてはこの上なく無難なストーリーとなっていますね。
民俗学者の五来重さん*3によりますと、江戸時代前期の元禄2(1689)年に寂本によって書かれた『四国徧礼霊場記』に、上記のストーリーをほぼ裏づける記述があるようです。以下、孫引きですが引用します。
当寺は聖武天皇の御願といひ、又は大師の草創ともいふ。さだかならず。釈迦如来を本尊とし、霊山寺と名づく、天竺の霊山、和国に名あるが故に、竺和山と称ずるべし、まことに霊場ときこゆ。
ただ、五来さんは背後にある大麻山おおささやまこそが、本当の霊場であったのではないかと指摘しておられます。
実際、同じ『四国徧礼霊場記』*4には霊山寺の奥の院として、大麻比古神社を隣に載せているようです。それゆえ、この大麻比古神社(大麻権現)こそが山岳信仰の霊場のオリジナルだったというわけです。あくまで五来さんの説ではありますが、本来、とくに山岳仏教は神仏習合の色合いが強かったということ、そして明治維新後の廃仏毀釈によって無理やり分離させられたことを考えると、あながち間違いではないように思います。
霊山寺の見所
霊山寺の見所をご紹介します。
仁王門
※仁王門
二層になっている楼門でもあります。明治24(1891)年の火災で本堂と多宝塔以外は消失してしまったため、それ以後の建築となります。四国遍路発願のお寺にふさわしい、重厚感のある山門です。
泉水池
※泉水池
鯉が泳ぐ泉水池です。池にかかる橋を渡ると、伽藍の中心部へ入っていきます。
多宝塔
※多宝塔
室町時代中期の応永年間(1394~1428)に建立された多宝塔で、伽藍のなかでは現存する最古の建物となっています。天正年間(1573~92)の長宗我部元親の攻撃で伽藍は炎上しましたが、多宝塔のみは残りました。下層が方形、上層が円形の造りとなっていて、五智如来が祀られています。
十三佛堂
※十三佛堂
四国八十八ヶ所の各寺のご本尊となっている、十三仏が祀られています。実は、不動堂の不動明王をあわせて十三仏となります。
不動堂
※不動堂
不動明王が祀られています。
本堂
※本堂
明治24(1891)年の火災でも燃え残ったとされる本堂です。その後、1964年に四国開創1150年記念にあわせて改築されました。ご本尊の前仏は弘法大師の念持仏とされ、白鳳時代の作で、身の丈約14センチ余の小さな銅造です。中は無数の吊り灯篭で照らされ、発願のお寺にふさわしい荘厳かつ幻想的な雰囲気を醸し出しています。
大師堂
※大師堂
弘法大師さまが祀られている大師堂です。
総合案内所
※総合案内所
まさにお遍路全体の総合案内所とも言える建物で、中には納経所もあります。納経帳に記帳・押印してくださるのはお寺の方だと思われます。お時間が許すかぎりはお遍路について教えていただけると思いますが、事前に書籍やネット等で調べておく方が無難です。テーブルもあり、納札を必死で書いている方もちらほら見受けられます。駐車場に隣接しています。
霊山寺のご詠歌
ご詠歌とは、四国八十八ヶ所の各霊場の特色を五・七・五・七・七の三十一文字で分かりやすく詠んだもので、民衆に各霊場の特色を分かりやすく教える意味合いがあります。
りょうぜんの しゃかのみまえに めぐりきて
よろずのつみも きえうせにけり
(霊山の 釈迦のみ前に めぐりきて
よろずの罪も 消え失せにけり)
漢字表記は一般社団法人四国八十八ヶ所霊場会のホームページ*5
このご詠歌はそのままストレートにとればよさそうです。霊山のお釈迦さまの御前まで巡礼してきたことで、すべての罪が消え失せてしまった、というところでしょうか。
しかしそう考えるならば、発願のお寺というよりは結願のお寺のような気もいたします。実際、第88番札所の大窪寺のご詠歌はとくに結願ということが詠われているわけではありません。
私見ですが、歩き遍路の場合は第88番で結願しても結局は最初に四国入りした撫養の港(現鳴門市)に戻るよりほかなく、そこから本土に戻ったと考えられます。ならば、最初のお寺に戻ってお礼参りでもしておこう、ということになっていったのかもしれません。そうすると、四国で89ヶ所の霊場を巡礼したことになりますので、霊山寺まで巡ってもどって来て、「よろずの罪も 消え失せにけり」ということになったのではないでしょうか。
霊山寺へのアクセス
徳島県観光協会のホームページ「阿波ナビ」に詳しいアクセス情報が掲載されています。
www.awanavi.jp(2023.8.27閲覧)
公共交通機関
JR「板東駅」から徒歩約10分。
お車
高松自動車道「板野IC」から県道12号線を東に約8分。
駐車場あり。約100台。無料。
霊山寺データ
ご本尊 :釈迦如来
宗派 :高野山真言宗
霊場 :四国八十八ヶ所 第1番札所
所在地 :〒779-0230 徳島県鳴門市大麻町板東塚鼻126
電話番号:088-689-1111
宿坊 :なし
納経時間:7:00~17:00
拝観料 :無料
境内案内図
www.seichijunrei-shikokuhenro.jp(2023.8.27閲覧)
上記サイトの当該箇所に境内の案内図があります。
南坊の巡礼記「霊山寺」(2020.7.23)
2020年の7月23日は、もともと東京オリンピックの開会式の前日だったことから、準備のためか祝日(※海の日)となっていました。翌24日も祝日(※スポーツの日)で、25日の土曜日も官公庁や私企業の多くが休みのためか、一般的には4連休という状況でした。もちろん、私学の高校に勤める私は土曜日は出勤です。
こういうのってだいたい民放は浮かれて4連休とか言うのですが、さすがNHKは「4連休の方も多いと思います」と言っ一応配慮してくれますよね。話が逸れました。
とにかくこのような状況で、せっかく降ってわいた2連休、のち1日出勤して1日休みです。スケジュール的にも体力的にも余裕があったため、どこかに出かけることを計画していました。ここで突如浮かんだのが、お遍路だったのです。
まあここで突如と書いてはいますが、さすがに事前の準備もありますので、もともと思いついたのはそれより前のことです。いろいろな意味合いがあってお遍路というものを思い立ったのですが、それはここでは書かないことにします。皆さんも、お遍路に行った際は、「どうしてお遍路しているのですか?」と聞いてはいけないことになっているので、お気をつけください。その人が自ら話し始められるならば黙って聞いて欲しいとも思います。
さて、7月19日には事前に必要と思われるものを購入しておきました。いわゆるさんや袋や輪袈裟、数珠、ローソク、勤行次第や納札などです。西国三十三所と違って四国八十八ヶ所の大変なところは、各札所で本堂と大師堂それぞれに納札を納めないといけないことです。ということは、合計176枚の納札が必要になってきます。またお接待していただくこともありますので、納札は多めに持っておくことが望ましいですね。
前置きが長くなりましたが、7月23日、出発当日のお話を進めていきましょう。
当日は朝6時30分に起床しました。ところが、やはり初めてのお遍路ということもあり、荷造りにかなり時間がかかってしまいました。出発は何と9時40分ごろになってしまいました。ちなみにこのお遍路の1回目は、車遍路となります。
早速出発します。私の見込みでは、名神高速道路から阪神高速に乗り換え、第二神明道路から神戸淡路鳴門自動車道へと入っていく予定でした。
……ところがです。
それこそ民放が言うところの4連休、コロナ禍ではありますが自家用車の旅ならば気安いということもあるでしょう、大渋滞だったのです!!
明石海峡大橋までたどり着くのに何時間かかるか分からない状況でした。しかも渋滞を回避するルートとして出てきたのが「豊中IC」から北上するルートでした。どうやらここから中国自動車道に入っていき、渋滞を回避するルートだったようです。
しかしこの時の私はまだ大阪に戻ってきて4か月ほどで、あまり高速道路の路線や接続を理解していませんでした。結局、豊中から北上する意味が理解できず、西に進むべきだ!と勝手な理屈を思い描き、何と下道を延々と走っていくことになってしまったのです。
高速道路も混んでいましたが、下道も混んでいました。スーパーでトイレを借りて休憩したり、西宮で中国自動車道に乗ろうとしてやはりUターンしたり、すったもんだでかなり時間をロスしました。最終的には、どこから高速道路に乗ったのか定かではありません。ただ、おらく阪神高速31号神戸山手線に乗って白川JCTで阪神高速7号北神戸線に乗り換えたものと思われます。
とにかく、普通は2時間程度で四国に入れるところを、4時間以上はかかっていたと思います。
ちょっと記憶が定かではありませんが、最後は高松自動車道の板野ICで高速を下りたと思います。ここで下りると、県道12号線との交差点で左折が1番と2番、右折が3番~5番とはっきりと案内標識が出ています。おそらくこれを見たはずです。
板野ICで下りて県道12号線をしばらく東進すると、左手に見えてきました。第1番札所、霊山寺です。何と、到着したのは14時25分でした。家を出てから5時間近く経っています。通常の2倍くらいの時間がかかったということですね。
駐車場は県道に面しています。すぐに分かりましたし、何台か車が停まっていたので間に私も停めました。しかし緊張します。まずはトイレに行っておこうと思いました。
ところでこのトイレが正しいトイレなのか分からないのですが、総合案内所の建物の南側にある、プレハブのようなトレーラーのような建物でした。世界遺産を目指すならば、まずはトイレをきちんとしないといけないですよね。まあ、きちんとしたトイレがあるのかもしれませんが。
総合案内所もちらっと覗きましたが、まあ必要なものはもうそろっていますので、とくに購入するものはありませんでした。車に戻り、準備を整えます。白衣を着て輪袈裟を装着し、菅笠を被り金剛杖を持ちます。駐車場からちょこっとだけ歩くだけですが、やはり杖を持っている方が様になりますね。
実は仁王門の場所がよく分からなかったため、案内所の方に教えてもらっていました。とにかくルーティンをこなすことばかり考えていて必死でしたので、境内の雰囲気等もまったく憶えていませんでした。今回掲載している写真は、すべて2回目の歩き遍路の時の写真です。
うっかりしてライターを持っていなかったため、他の人のローソクから火をもらってしまいました。これ、お遍路ではタブーの行為とされています。理由は、他の人の不幸をもらってしまうからだとか。しかしこれって、お遍路に来る人はすべて不幸だという前提になっていませんか? 幸せをもらうことだってあると思うのですが……。
まあ読経だけは人並みにできるのですが、この時はまだ気恥ずかしさが勝っていたように思います。さすが1番だけあって、他にも参拝者がいらっしゃいましたし。
ということで、ほとんど記憶のないままルーティンをこなし、納経所へ向かいました。この1回目の遍路では、車ということもあり、掛け軸も持っていました。納経帳への記帳・押印は300円、掛け軸は500円です。この時、担当してくださった男性の方がプロフェッショナルで、掛け軸を素早く乾かしてくださいました。これを見ることができたので、次のお寺でも見よう見真似で乾かすことができたように思います。
また、ライターも購入しておきました。ここで買ったのは普通のライターで、後にターボ式ライターの存在を知ります。今はライターを買う際には、必ずターボ式にしています。
仁王門前では老夫婦と若夫婦が記念撮影をしていました。いいですね。皆でお遍路、楽しそうです。若夫婦なんかはキャピキャピしていましたよ。
というわけで、何とか無事に参拝を終えました。まあとにかく必死だったということもあり、ほとんど記憶がないのが残念です。
車に乗り込み、次のお寺を目指しましょう!
*1:徳島県観光協会ホームページ「徳島県観光情報サイト阿波ナビ『第1番札所 霊山寺』」2023.8.27閲覧
*2:四国遍路 聖地巡礼「徳島編 | 歩き遍路のための「四国遍路」巡礼マップ『1番札所霊山寺』」2023.8.27閲覧
*3:五来重『四国遍路の寺 下』角川書店(1996)
*4:国立公文書館デジタルアーカイブ『四国遍礼霊場記3』2023.8.27閲覧
*5:一般社団法人四国八十八ヶ所霊場会ホームページ「各霊場の紹介『第一番』」2023.8.27閲覧