西国三十三所の第十四番札所は、長等山ながらさん園城寺おんじょうじです。三井寺みいでらという通称でよく知られており、西国三十三所札所会のホームページ内でも、「三井寺」の呼称で掲載されていますので、本稿でも「三井寺」と呼ばせていただきます。比叡山延暦寺の山門派に対し、寺門派と呼ばれ、激しい確執を繰り広げてきました。また、東大寺・興福寺・延暦寺とともに、本朝四箇大寺として人々の尊崇を集めてきました。
三井寺の巡礼情報
三井寺は、天智天皇・天武天皇・持統天皇の3天皇の産湯として使用された井戸があり、「御井寺」と呼ばれていたのが、転じて「三井寺」となったと伝えられています。三室戸寺の名称の由来と少し似ているように思います。琵琶湖を東に望む景勝地で、石山寺の「石山秋月」とともに、「三井晩鐘」として近江八景に数えられています。
三井寺の縁起
三井寺の成立縁起は、三井寺のホームページに記載されていますが、「縁起」としてまとまった記述にはなっていません。こちらでとりまとめてご説明していきたいと思います。
www.shiga-miidera.or.jp(2021.5.12閲覧)
三井寺に関する縁起や伝説等を集めた『寺徳集』*1に収められている、水心法師記載の『新羅明神問答抄用訓書』をもとに、縁起について述べていきましょう。なお、天台寺門宗のホームページ*2によると、『新羅明神問答抄用訓書』が書かれたのは室町時代初めの康永3(1344)年のこととされます。
~問い。三井寺の守護神は新羅明神となっています。その由来はどういうことですか。
答え。智證大師(※智証大師とも表す)がお作りになった三井寺縁起の文ではこう言っています。
私(※智證大師のこと)が山王明神のお告げで中国の唐に渡り、仏法を授かってわが国に帰ったときのことです。海上の私の船に老翁が現れ、「私は新羅明神である。和尚は仏法を授かっておられる。弥勒菩薩さまが世にお出ましになるために仏法を護持してきた者なのである」と言い終わると、消えてしまいました。私は岸に着いてから役所に「役人をお遣わしいただき、私が請来した仏像などを太政官にお納めください」と申し上げました。すると海上に現れた老翁がまたやって来て、「この日本国には一つの勝地がある。私が先にそこに行き、場所を定めておこう。役所に言ってお寺を建立し、その地で仏法を興隆しなさい。私はあなたのために護法神鎮の加護をいたそう」と言いました。私が近江の国滋賀郡の園城寺へ至り、お寺に住んでいる僧侶たちの様子を聞きました。すると僧侶たちが言うことには、「様子が分からない老修行者で、名前を教待という者がおります」とのことでした。その教待さまが出てきて、「私は162歳です。このお寺が建立されてから180年以上経っています。お寺を建立した施主の子孫がおります」と言います。そして教待さまはその人をお呼びしました。その人の名前は大友都堵牟麻呂 さまという方で、出て来てお話してくださいました。「私都堵牟麻呂は147歳になります。このお寺は先祖の大友與多(※大友與多王。大友皇子の子とされる。太政大臣となったと思われる)が勅を奉じて天智天皇のために建立したお寺です。この地は先祖の大友太政大臣の家や土地でした」、とのことでした。太政大臣が天智天皇の勅を奉じてこの地に崇福寺を建立しました。一丈六尺(約4.85メートル)の弥勒菩薩像を造り、安置しました。こうして都堵牟麻呂さまも父の太政大臣の遺誡に従い、お寺を建立しているのです。都堵牟麻呂さまは、「今、我らの院主となるあなた様は唐からやって来られたのですか? 教待大徳はずっと言っておられました。『このお寺は、唐から渡ってきた人にお任せすべきである。』と。本日、ようやく待っていたお方が来られました。出てきてお会いして、このお寺を永にお任せいたしましょう」とおっしゃいました。
またこう言っています。
智證大師にお任せされてから、山王明神はお帰りになり、新羅明神がお寺の北に住まわれました。輿に乗った方が何百、何千という仲間を引き連れて、新羅明神に飲食を饗応しました。老修行者の教待さまも新羅明神のところに来て、喜んでおりました。やがて教待さまと輿に乗った方も消えてしまわれました。「あの方たちは何者ですか」と問いますと、新羅明神が「老修行者の教待は弥勒菩薩さまである。仏法を護るためにこのお寺にお住まいになっているのである。輿に乗った方は三尾明神である。私に会うために来られたのだ」とお答えくださいました。私はお寺に行って、教待さまはどのようなお人か都堵牟麻呂さまに聞きました。すると都堵牟麻呂さまは、「この老修行者の様子はまったく知らないのです。魚をとって飲食し、酒を造って飲んでいます。いつもお寺の端の湖の辺に行き、魚鼈を取って料理しています。しかし会いに行こうとすると、教待和尚さまは消えてしまいました。残念なことです。今、僧侶たちがそのお住まいを見てみると、ずっと置かれていた魚はみんな蓮華の茎や根や葉でした。こうしてようやくあの方の様子が分かったのです」と言われました。~
新羅明神、山王明神、三尾明神といくつもの明神が出てくるのでややこしいのですが、かいつまむと、次のようなお話になるでしょう。
智證大師が唐から帰る際に、新羅明神の化身である老翁に会い、お寺を造って仏法を興隆するように言われました。そこで智證大師がお寺を造るために三井寺の地に行ったところ、大友與多王が天智天皇の勅を受けて建立した崇福寺がすでにあり、教待和尚という修行者と、大友都堵牟麻呂がいました。実は教待和尚は弥勒菩薩の化身で、魚ばっかり食べていると思ったらそれは蓮の根や葉だったのでした。
つまり、このお寺は、新羅明神や弥勒菩薩に嘉された非常に由緒正しいお寺である、ということです。
三井寺の見所
三井寺の見所をご紹介します。
仁王門(大門)
※仁王門(大門)
室町時代中期の宝徳4(1452)年に湖南市の常楽寺に建立された仁王門です。後に豊臣秀吉がその門を伏見に移し、最終的に徳川家康が慶長6(1601)年に三井寺の表門として移築したということです。国指定の重要文化財となっています。
釈迦堂
※釈迦堂(食堂)
もともとは食堂として建立されたようで、中世の大寺院にあった「食堂」の古式を今日に伝える貴重な遺構です。国指定の重要文化財になっています。伝承では豊臣秀吉による破却の後、御所の清涼殿を移築したともされますが、室町時代の建立だと考えられています。江戸時代後期の文政13(1830)年に唐破風の向拝を増築し、現在では「釈迦堂」と呼ばれています。ご本尊は清凉寺式釈迦如来像です。
金堂
※金堂内陣入口
トップの写真の建物が三井寺の本堂に当たる、金堂です。現在の建物は豊臣秀吉の正室北政所が安土・桃山時代の慶長4(1599)年に再建したもので、国宝に指定されています。ご本尊の弥勒菩薩像は天智天皇が信仰されていたご念持仏で、秘仏となっています。内陣は土間のままで、伝統的な天台宗系本堂の形式をよく伝えているそうです。
三井の晩鐘(鐘楼)
※三井の晩鐘(鐘楼)
近江八景の一つ「三井の晩鐘」として知られている梵鐘と鐘楼です。現在の建物は慶長7(1602)年の再建で、国指定の重要文化財となっています。
また、梵鐘も同じ年に再建されたもので、滋賀県の指定文化財となっています。宇治の平等院、高雄の神護寺とともに日本三銘鐘の一つに数えられており、環境庁が定めた「日本の残したい音風景百選」に選ばれています。なお、1回撞くのに冥加料800円かかります。
閼伽井屋あかいや
※閼伽井屋内の閼伽井 しめ縄が張ってある
三井寺の呼称のもととなった、天智天皇・天武天皇・持統天皇の3天皇の産湯に用いられたとされる霊泉です。
泉を護る覆屋は、安土・桃山時代の慶長5(1600)年の建立です。国指定の重要文化財となっています。上部には左甚五郎作とされる龍の彫刻があります。
※左甚五郎制作と伝えられる龍の彫刻
霊鐘堂(弁慶の引摺り鐘)
※弁慶の引摺り鐘を収めている霊鐘堂
弁慶の引摺り鐘とは、奈良時代に制作されたとされる梵鐘で、国指定の重要文化財となっています。伝承では承平(931~938)年間に俵藤太秀郷が、三上山の大ムカデを退治したお礼に、琵琶湖の龍神からもらい受けた梵鐘で、三井寺に寄進されたとされます。三井寺と比叡山の武力抗争の際、比叡山の武蔵坊弁慶がこの鐘を奪って比叡山まで引き摺っていったそうです。ところが鐘を撞くと、「イノー、イノー(往のう、往のう。帰ろう、帰ろうという意)」と響いたので、谷底に投げ落とされたそうです。そのときの引き摺ったキズやヒビが今も残っています。また、弁慶が置いていったとされる汁鍋もあります。
※弁慶の引摺り鐘
※弁慶の汁鍋
一切経蔵
※一切経蔵
一切経を安置するためのお堂で、内部に高麗版一切経を納める回転式の巨大な八角輪蔵があります。三井寺唯一の禅宗様の建築で、もともとは山口県の国清寺(現在の洞春寺)の経蔵だったものを、慶長7(1602)年に毛利輝元によって移築されたそうです。国指定の重要文化財となっています。
※八角輪蔵
唐院とういん
※右手前が灌頂堂、左奥が長日護摩堂、右の奥の建物が大師堂
唐院は、智証大師円珍が、平安時代前期の天安2(858)年の入唐によって請来した経典などを、貞観10(868)年に下賜された御所の仁寿殿に納めて伝法灌頂の道場としたことから始まったとされます。智証大師のご廟所として、三井寺のなかでも最も重要な霊域です。
大師堂は慶長3(1598)年に再建されており、国指定の重要文化財となっています。堂内には、中尊大師・御骨大師と二尊の智証大師坐像(※いずれも国宝)と、黄不動立像(※重要文化財)の三尊が祀られています。
現在の灌頂堂は、慶長(1596~1615)年間に大師堂の拝殿として、再建されました。国指定の重要文化財となっています。
三重塔は室町時代の建築と考えられており、豊臣秀吉が慶長2(1597)年に大和の比蘇寺から伏見城に移築したものを、徳川家康が慶長5(1600)年に三井寺に寄進しました。これも国指定の重要文化財となっています。
また、大師堂の前にある唐門からもん、唐院の入口に当たる四脚門よつあしもんも、国指定の重要文化財となっています。
※三重塔
※唐院四脚門
微妙寺びみょうじ
※微妙寺
微妙寺は、三井寺の五別所のうちの一つで、現在の場所に移築されてきました。歴史は古く、恵心僧都源信の朋友であった慶祚阿闍梨が平安時代中期の正暦5(994)に創建しました。現在の本堂は江戸時代後期の安永5(1776)年の再建です。ご本尊の十一面観音立像は、霊験あらたかで参拝者があふれ、お互いに押し合って笠が脱げたことから、「笠ぬげの観音さま」と呼ばれたそうです。国指定の重要文化財で、現在は三井寺文化財収蔵庫にて拝観できます。
湖国十一面観音霊場の第一番札所、また、日本三不動の一つである国宝の秘仏黄不動尊(金色不動明王画像)のご朱印所ともなっています。
毘沙門堂
※毘沙門堂
もともとは三井寺五別所の一つ尾蔵寺の南勝坊境内に、江戸時代初期の元和2(1616)年に建立された建物です。1909年に三井寺南院に移され、さらに1956年に解体修理を行い、現在地に移築されました。国指定の重要文化財で、1989年には彩色も復元されました。
観音堂
※観音堂
西国三十三所の第十四番札所となる、観音堂です。三井寺の南院伽藍の中心建築で、もともとは後三条天皇の病気平癒を祈願して平安時代後期の延久4(1072)に創建されたそうです。現在の建物は江戸時代前期の元禄2(1689)年の再建で、滋賀県の指定文化財となっています。ご本尊の如意輪観音坐像は平安時代の制作で、国指定の重要文化財となっています。三十三年ごとにご開帳が行われる秘仏です。
百体堂は江戸時代中期の宝暦3(1753)年の建立、鐘楼は江戸時代後期の文化11(1814)年、観月舞台は嘉永3(1849)年の建立で、いずれも滋賀県の指定文化財となっています。百体堂には、西国三十三所、坂東三十三箇所、秩父三十四箇所の百体の観音さまが祀られています。
※百体堂(百体観音堂)
※観月舞台
三井寺のご詠歌
ご詠歌とは、花山法皇が各札所で詠まれた歌と伝えられています。
いでいるや なみまのつきを みいでらの
かねのひびきに あくるみずうみ
(いで入るや 波間の月を 三井寺の
鐘の響きに あくる湖)
漢字表記、歌の解釈は紀三井寺前貫主前田孝道師*3によります。
「いでいるや」とは、出たり入ったりで生滅変化、諸行無常を表す言葉として昔から使われてきました。「波間の月を 三井寺の」の三井寺には、月を「見る」が掛け言葉になっています。元来、波間の月は、風に会えばゆらゆら揺れるし、嵐に会えば粉々に砕けて世間の無常、人生のはかなさを表す言葉として用いられてきました。「鐘の響きに あくる湖」は三井寺の鳴り響く鐘の音に心の目が覚めて、「明くる湖」、即ち人生の無常を悟ることができました——というものです。
三井寺の晩鐘をイメージさせる「鐘」が詠われているご詠歌です。ただし、ご詠歌では「明くる湖」ということですから、晩鐘ではなく夜明けの鐘ということになるでしょうか。東に琵琶湖を抱く三井寺にふさわしいご詠歌のように思います。
三井寺へのアクセス
三井寺のホームページに詳しいアクセス情報が掲載されています。
www.shiga-miidera.or.jp(2021.5.12閲覧)
公共交通機関
京阪石山坂本線「三井寺駅」下車徒歩約10分。
お車
名神高速道路「大津IC」から北西へ約10分。
三井寺観光自動車駐車場あり。約100台。500円。
※三井寺駐車場 反対側も駐車場でトイレもある
三井寺データ
ご本尊 :如意輪観世音菩薩
宗派 :天台寺門宗総本山
霊場 :西国三十三所 第十四番札所
近江西国三十三所 第5番
びわ湖百八霊場 第6番
数珠巡礼 札所
神仏霊場巡拝の道 第147番
湖国十一面観音霊場 第1番(微妙寺)
西国薬師霊場 第48番(水観寺)
所在地 :〒520-0036 滋賀県大津市園城寺町246
電話番号:077-522-2238
拝観時間:8:00~17:00
入山料 :大人600円 中学・高校生300円 小学生200円
URL :http://www.shiga-miidera.or.jp/index.htm
三井寺の境内案内図
www.shiga-miidera.or.jp(2021.5.12閲覧)
上記サイトに案内図があります。
第十三番 石山寺 ▷ 第十四番 三井寺(園城寺) ▷ 番外 元慶寺
南坊の巡礼記「三井寺(園城寺)」(2021.4.8)
石山寺を13時30分ごろに出発し、まずはJR石山駅に寄ってスタンプを押してもらいました。そこから車を走らせ、三井寺には14時ごろに到着です。何とか、陽が高いうちに参拝を終えられそうです。おそらく20年くらい前に一度来たことがあるのですが、細かい行き方は憶えていません。古い町並みなので、細い道を走って、三井寺の入口の前まで到着です。山門派・寺門派の抗争の名残なのでしょうか、城壁のような石垣に囲まれています。そこの狭い入口を入ると駐車場がありました。
※れすとらん風月と駐車場の案内板 右奥が仁王門
20年前も駐車場はこんな感じだったと憶えています。確か、大晦日に行ったので、満車に近かったと思います。よく停められたものです。この日は、やはり閑散としたものでした。
※右手前から見た仁王門
駐車場からは真っ直ぐ行けばすぐに仁王門です。仁王門を入ると、入山受付があります。500円をお支払いします。実はこの日4月8日は、お釈迦さまの誕生日とされている日です。そこで、受付のお母さまに「今日は灌仏会かんぶつえだと思いますが何か行事はありますか」と聞いたところ、「そうですね。ただ、一般の方が参加される行事はないですよ。午前中にお勤めは行われましたが」とのことでした。お釈迦さまの誕生日には、灌仏会や花祭り、仏生会ぶっしょうえと呼ばれる行事が行われます。三井寺ではこの日はとくに大きな行事はないようでした。もっとも、旧暦4月ということで5月に行事をされるお寺も多いので、三井寺もそうかもしれませんが。
さて、受付からすぐ右側の奥には、釈迦堂があります。
※釈迦堂 奥にご本尊が見える
ここは靴を脱いで中に入ることができます。中でお参りさせていただきました。堂内にも、ご朱印を書いてくださる方がいらっしゃいましたが、西国三十三所の札所はここではないので、私はスルーします。スルーするのです。
※参道 奥は金堂の横(東面)
本堂に当たる金堂への参道はこんな感じです。キレイな境内です。金堂は南面しているので、見えているのは金堂の側面ということになります。
石段を上がると伽藍の中枢に着きます。金堂、三井の晩鐘の鐘楼、閼伽井屋などがあります。
※北から見た鐘楼
鐘を撞こうかと思い、金堂の前に鐘楼に行ってみましたが、一撞き800円という冥加料に恐れをなし、やめておきました。入山料より高いというのは、相当強気な価格設定です。ただ、値打ちが分からずに気軽に撞く人がいるので、それを防ぐためでしょう。
※南東から見た金堂
国宝の金堂です。前日に見た醍醐寺の金堂とはまた違った味わいがあります。醍醐寺の金堂は瓦葺でしたが、こちらは檜皮葺ひわだぶきですので、侘び方が半端ないですね。コーヒーブラウンという感じの色でほぼ一色になっています。
※金堂前の灯籠
金堂前に灯籠があります。説明を読むと、蘇我氏を滅ぼした天智天皇が、その罪障消滅のために自らの左薬指(無名指)を切り落としてこの台座の下に埋めたそうです。指詰めの元祖ということでしょうか。無関係だと思いますが。
金堂は、中に入ることができます。貴重な文化財がいろいろ陳列されていますが、私、気がついてしまいました。小さな御堂と誕生仏があり、小さな柄杓で甘茶をかけることができるようになっています。つまり、灌仏会かんぶつえの儀式ができるようになっているわけです。少しテンションが上がります。
思い返せば、自分が小学校のころ、子供会のイベントで新西国三十三箇所の客番である安岡寺に行き、この儀式をやったことがありました。懐かしいものです。日本人の多くはキリスト教をまったく信仰していないにも関わらず、イエスの誕生日であるクリスマスをお祝いしますが、お釈迦さまの誕生日はそもそも知らない人が多いですよね。4月8日、灌仏会、皆さんしっかりと憶えておいてください。
見たところ、私の他には甘茶をかける儀式をやっている方はおられないようでした。こういう故実を知っている人も減ってきている、ということですね。
さて、金堂を出て順路に従い、閼伽井屋あかいやの方へ行きます。
※閼伽井屋の中
三井寺の名前の由来になった井戸ですね。水が湛えられています。
そこから少し登っていくような感じになります。すぐに弁慶の引摺り鐘が納められている霊鐘堂に着きます。外観はぱっと見で休憩所のような雰囲気です。中に入ると、鐘と大鍋があります。
※弁慶の汁鍋(手前)と引摺り鐘(奥)
※弁慶の引摺り鐘の説明版の挿絵 鐘を谷に落とした説話が描かれている
※弁慶の汁鍋の説明板の挿絵
このときは錆びた大きな鍋だな、くらいにしか思っていませんでしたが、こうして写真を見返してみると女人詣と書いてあります。もしかすると、三井寺で女性がお参りできるのはここまでだったのかもしれませんね。
※一切経蔵(手前)と三重塔(奥)
しかし20年前に来たときの記憶がまったくよみがえってこないんですよね。この辺も来たのかもしれませんが、まったく記憶にありません。
※一切経蔵の説明板
※六角輪蔵と一切経蔵の天井 天井画が描かれていたことがうかがえる
一切経蔵を見た後は唐院に行きます。唐院は、言わば智証大師のご廟所ということになります。
※唐院下にある案内板
※橋を渡って唐院へ入る
※灌頂堂
※右奥が長日護摩堂
ここでもうっかりしておりました。灌頂堂はしっかりと写真に撮っていましたが、肝心の大師堂の写真をまったく撮っていません。ボーっとしていたんでしょうね。
※四脚門を石段下から望む 見えている建物は灌頂堂
※ご廟所の正面参道
出てきてからご廟所の方を振り返るとこんな感じです。やはりちょっと境内の中でも特別な雰囲気がありますね。三井寺の境内では、場所的に一番奥まったところになります。
※南の参道側から見た金堂
そこからメインの参道に出て、南の方に向かいます。西国三十三所の札所である観音堂などは、ここから南の伽藍にあるのです。北の方を振り返ると、金堂が見えます。
※境内案内図 観音堂はまだまだ遠い 右が北を指している
途中、微妙寺という微妙な名前のお寺がありました。「微妙」と言っても、私たちが使うネガティブな意味ではなく、「妙なる」という意味です。意味的には、「絶妙」に近いかもしれません。微妙寺では本堂の内陣に入ることができます。しかし、私の他には誰も入ってこられませんでした。正確な文言は忘れましたが、「中でお参りしてください」のような言葉が書いてあったと思います。
※毘沙門堂
この毘沙門堂は何となく憶えています。なぜかこの辺りから結構記憶がよみがえってきました。この毘沙門堂の近くのところから、上にあがっていくのです。
※観音堂への石段
※右奥が観音堂 左は百体堂
石段のラストスパートです。
※六角形の手水舎 この伽藍の中心に位置する
この右側に、見えていませんが観音堂があります。左には、駐車場と同じレベルまで下りていく階段があります。いよいよ、ゴール地点に着いたわけです。この場所はよく憶えています。確か、20年前は大晦日だったので、焚火をやってくださっていたと思います。甘酒がお接待でいただけたように思いますが……。もしかすると有料だったのかもしれませんが。ちょっと高台になっているので、景色もいいんですよね。
※観月舞台の近くから見た琵琶湖
木が生い茂っていて、ちょっと琵琶湖が見えづらいですね。曇っているのも残念です。
※観音堂
観音堂に入り納経をします。秘仏である如意輪観音坐像は厨子の中ですが、お前立ちの観音さまを拝むことができます。金色ですが、意外と小さな像です。観音堂の中にある納経所では、私と同じくらいの年齢のお坊さまでしょうか、ご宝印を書いてくださいました。モバイルバッテリーでスマホを充電しておられたのが、今時だな、と思いました。
ご宝印をいただいたら、順路に従い石段を下りて駐車場に向かいます。駐車場までの間に水観寺や護法善神堂など、まだまだ見所があったようなのですが、私はあくまで観音巡礼ですので、飛ばすことにしました。実は文化財収蔵庫も見ていませんので、次回お参りしたときには、まだまだ新しい発見がありそうです。
というわけで皆さんも! Let's start the Pilgrimage West!
南坊の巡礼記「石山寺」(2021.4.8) ▷ 南坊の巡礼記「三井寺(園城寺)」(2021.4.8)
南坊の巡礼記「三井寺(園城寺)」(2021.4.8) ▷ 南坊の巡礼記「特別拝観リレー」(2021.4.9)
最終更新日:2021.5.27
*1:所収 塙保己一編『続群書類従 第28輯上 釈家部』八木書店(2013)
*2:天台寺門宗ホームページ「歴史・年表」2021.5.12閲覧
*3:前田孝道『御詠歌とともに歩む 西国巡礼のすすめ』朱鷺書房(1997)